わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

2016-11-01から1ヶ月間の記事一覧

世界について

現在の世界が一つの世界に定まっているということ。人が歩き、ものを食べ、例えば私が今ここに座っているということ。理由律ということ言葉をはっきりと言葉にする以前から、人は物事には理由があることを知っていた。だから、先なるものから後なるものが生…

最適と街灯

駅から家までの帰り道。駅の周りはそれなりに明るく、人通りも多いのだが、少し駅を離れるとあっという間に暗い道に出る。とりわけ私の家の近くは、畑ばかりで夜は人もほとんど通らないような場所である。真っ暗かというとそうでもない。最近は街灯が新しい…

紅葉は落ち葉を教えてくれる

今年は少し遅かったのだが、街の木々もだいぶ紅葉しているのに気づいた。私が気づくのが遅かったのか、木々の方が色づくのが遅かったのか。天気予報によれば、木々の方が遅れていたようだけれど、最近あまり外に出ることがないので実際のところどうだったの…

ヨコヅナサシガメの越冬

昨日とある公園を散歩していたら見たことのない虫を発見した。ゴツゴツした桜の幹に、体長1センチちょっとくらいで赤黒い体をした虫たちが何十匹も体を寄せて集まっていた。背中がゾゾゾーッとするような光景だったのだけれど、普段見慣れない姿だったのでじ…

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第5章より

彼は葡萄の房をつけた葡萄の樹に似ている。葡萄の樹はひとたび自分の実を結んでしまえば、それ以上なんら求むるところはない。

フランシス・ベーコン『ノヴム・オルガヌム』の企て

諸学の現状について、それが恵まれていず、大きく前進していないこと、そして精神が自然界に対して自己の権能を行使しうるためには、以前に知られていたとは、全く別の道が人間の知性に開かれねばならず、かつ別の補助手段が用意されねばならないこと。

ビュリダンのロバに餌を食べさせたい

「なんて見事なできばえだこと。なんて腕の立つ職人さんだろう。勇敢な兵隊さんだこと。」こんな言葉が、われわれの志望と職業選択の出発点にある。「見事な飲みっぷりだこと。控えめな飲み方だこと。」こんなことで、節酒家になったり、酔っ払いになったり…

朝起きられない人のために

明けがたに起きにくいときには、次の思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果たすために私は起きるのだ。」自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。

「耳からスパゲッティ」への憧れ

「耳からスパゲッティを食べられるような人間になりたい」 長いことそう思っている。昔、私には好きな人がいたのだけど、その人に構ってもらおうと必死だった。「耳からスパゲッティくらい食べられないと相手してあげられない」と言われたのが、当時の私は当…

アリストテレス『形而上学』と現実的なものの捉え難さ

M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』第4章「アリストテレスのアナロジーの論理」(高田訳)において、アリストテレスがどのように「現実態(エネルゲイア)」を定義しようとしたのかが取り上げられている。というのも、まさにその際に使用されたものがア…

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第4章より(その2)

波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲には水のうねりはしずかにやすらう。

三木清「哲学はどう学んでゆくか」後半

諸君がもし自然科学の学徒であるならその自然科学を、またもし社会科学の学徒であるならその社会科学を、更にもし歴史の研究者であるならその歴史学を、或いはもし芸術の愛好者であるならその芸術を手懸りにして、そこに出会う問題を捉えて、哲学を勉強して…

三木清「哲学はどう学んでゆくか」前半

「哲学ってどうやって勉強したらいいの?」という質問によく出会う。よく言われるように、哲学には生物学や物理学などのようにスタンダードな教科書なるものが存在しない。これを一冊読めばとりあえず大丈夫みたいなものがないのである。一方で倫理学分野の…

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第4章より

今日は『自省録』第4章の比喩を見てみようと思う。章ごとに特徴があるということでもないと思うのだが、全12章の『自省録』を比喩に着目しつつのんびり読んでみようという気持ちである。第4章には方向性の異なるいくつかの比喩が登場する。 第1節:人間の内…

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第3章より

穀物の穂がしだれているのや、獅子の額の皮や、野猪の口から流れ出る泡や、その他多くのものは、これを一つ一つ切りはなしてみればとうてい美しくはないが、自然の働きの結果であるために、ものを美化するに役立ち、心を惹くのである

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第2章より

なぜなら私たちは協力するために生まれついたのであって、たとえば両足や、両手や、両目蓋や上下の歯列の場合と同様である。それゆえに互いに邪魔し合うのは自然に反することである。

横断歩道の白線で遊ぶこと

横断歩道を渡ろうとするとき、誰しも白線に意識がいってしまうという経験があるのではないだろうか。「横断歩道の白線から落ちたらワニに食べられてしまう」というような架空の設定で遊んだ記憶がある人もいるだろう。私の経験からいえば、横断歩道で自分の…

エピクテートスが哲学に求めたこと

哲学の始めを見るがいい、それは人間相互における矛盾の認識であり、矛盾の出て来る根源の探求であり、単に思われるということに対する非難と不振であり、また思われるということについて、それが正しいかどうかの何か研究であり、また例えば重量の場合に、…

さぁ野菜を食べに行こう

外食をしようということになり、「何を食べたいか」という質問をしたら、「野菜が食べたい」という答えが帰ってきた。このようなときに、いったいどこに行くのが良いのだろうか。麺が食べたいという答えであれば、ラーメン屋、パスタ屋、そば屋、うどん屋…選…

M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』:アナロジーの種類

昨日も書いた、M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』の「実質的アナロジー」の章において、いくつかのアナロジーの型が紹介されている。アナロジーと一口に言っても、はっきりと定義されているのではないがゆえに、様々な型が存在している。今回はそれを書…