わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

「耳からスパゲッティ」への憧れ

「耳からスパゲッティを食べられるような人間になりたい」

長いことそう思っている。昔、私には好きな人がいたのだけど、その人に構ってもらおうと必死だった。「耳からスパゲッティくらい食べられないと相手してあげられない」と言われたのが、当時の私は当然そんなことはできなかった。今もできない。

耳からスパゲッティを食べるというのは人体の構造的には可能なのだろうか。耳は喉につながっているということを聞いたことがあるので、頑張れば本当に食べることができるのかもしれない。本当にその人が好きだったのなら、そのくらいやるべきだったのだろうか。当時の私も、今の私も全然やるべきだとは思わないけれど。

そういえば、ドラえもんの漫画で「鼻でスパゲッティを食べてやる」とか、「嘘だったら目でピーナッツ噛めよ」みたいな台詞があった気がする(不正確な記憶)。まさに同じような挑戦である。ドラえもんのポケットに、目でピーナッツ噛み機はさすがに入っていないだろうなと思われる。

結局、耳からスパゲッティを食べることができない私は、相手にしてもらえないのだろう。世の中にはどう頑張ってもダメなことがあるのだと、そのとき学んでしまった。そういうことは、ダメだとしても仕方ないとして諦めることを学んだ。何がどう頑張ってもダメで、何がそんなことはないのかを見極めることが重要だ。それはどうやったらわかるのだろうか。

見極めがうまくつかないことばかりだ。実は、耳からスパゲッティを食べることも諦めきれていないのかもしれない。それは、たしかにどう頑張ってもダメなのだけれど、諦めたくないという気持ちがあるのだ。どう頑張ってもダメなものの存在を突きつけられつつ、それを受け取りたくない。

神は耳からスパゲッティを食べ、鼻でそばをすすり、目でピーナッツを嚙めるかもしれない。そんなバカなことはしないだろうし、食べる必要がないのだからそんなことはしないと言われれば、その通りなのだけれど。私には耳からスパゲッティを食べたいという意志があって、それがなにか意味のある重大なことのようになっている。その意味不明な要求が、なにか重大なことのように思えて仕方ないから諦めきれないのか。

まったく着地点を考えずに文章を書き出してしまった。耳からスパゲッティを食べることに関して、何を語ればいいのだろうか。

それはともかく、あの人は元気だろうか。たまに思い出したりする。

 

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