わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

世界について

現在の世界が一つの世界に定まっているということ。人が歩き、ものを食べ、例えば私が今ここに座っているということ。理由律ということ言葉をはっきりと言葉にする以前から、人は物事には理由があることを知っていた。だから、先なるものから後なるものが生じてきたのだし、後なるものは先なるものによって規定されつづけてきた。

何かあると言えるためには、何かがなければいけなかった。しかし現実の世界は本当に理由を有しているのだろうか。根拠を有しているのだろうか。規則を有しているのだろうか。

現実が理由の源泉であったらどうなるだろう。現実は理由によって生じてきたのではなく、現実が理由を作り上げたのだとしたら。他でもないこの世界が選ばれたのは、他でもないこの世界が選ばれたからだとしたら。他の世界が選ばれなかったのは、この世界が選ばれたからだとしたら。

たぶん特にどうにもならないかもしれない。世界に関する説明がいかに変わろうと世界自体は何も変わらない。世界についての説明を変えることで、より世界が説明できたとしても世界は何も変わらない。世界についての説明が変わることで、変わるのは私たちのほうだろう。私たちは新しいものを作り上げるし、少なくとも私たち自身の歴史を私たちは進めていく。