わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

【週報】4月15日〜4月21日註解

先月くらいから(4月になったら毎週のことをブログにまとめるぞー)と思っていたのだが、忙しさを理由にして、3日坊主ならぬ0日坊主となっていた。5月の連休を目前にして、ようやく落ち着きがもどってきたので、週報という形でブログを更新することを試みる。3週坊主になるかもしれないけれど。

基本的にはSNSの投稿を註解する(あるいは補足する)形をとる。リアルタイムで流れてしまうSNSの文章が微視的すぎるのではないかと前から思っていて、せめて週単位の視点から振り返ってみたいというのが、いちおうの意図。

※ブロック引用されている文章は、特に記載がない場合には自分のSNSからの引用

4月15日(月)

ホワイトヘッド『過程と実在』読書会にて、II, 8, 6 を読み進めた。象徴的関連づけの議論から、最も自然に象徴機能を表しているものの一例として言語が取り出されてくる。まず、単なる音であるところの発話があり、そこに象徴的関連づけがなされることで、発話と意味(指示対象)が接続される。

象徴的関連づけの章も終盤にさしかかっており、独特な命題の議論へとさしかかろうとしている。論理的には可能であるが現実にはありえないタイプの命題でも実在性をもつという点は、ライプニッツの遠い親戚のように思うが、その実在性の基礎づけについてはどうだろうか。ライプニッツであればおそらく神の知性における観念がその根拠になるところだろうが、ホワイトヘッドは永遠的対象がそれにあたる。では、永遠的対象とはどのような実在性の基礎なのだろう。

家族は最初の形のままずっとあるべきだという規範が強まれば強まるほど、そうではない家庭に対して向けられる不憫の念は強くなるし、そういうものが人間を不幸へと導くのだと思っている。

私も両親が離婚しているので、他人から向けられる「不幸な家庭」的な視線には敏感なところがある。じっさいのところ、具体的にそのような視線が向けられたことがあったかどうかは覚えていない(嫌な記憶はすぐに忘れてしまう)。だが、どこかで他人の幸福や不幸を語ろうとすることに対する反発が常にある。

むかしから自分のなかの誰かに追いつこうとしてきたのだけど、自分が進めば、その誰かもまた進んでいってしまっていつまでもずっと追いつくことがない。他人というものの包摂できなさを実感する。

過去に追いつくことは難しい。過去は自分とともに進んでしまうので、過去は永遠に逃げ去り続ける未来のように私の目線の先にある。ある意味では過去に追いつくための言葉を探して日々を生きている。

4月16日(火)

拒むものは来ず、追うものは去らない。

来るものを拒まず、去るものを追わないのは、怠惰なのではないかと考えてしまう——だが、拒み追うことも、暴力的すぎると言えばそうかもしれない。

看護学校での哲学講義の初回を終えた。先輩から聞いていた通り、大学では考えられないほどの手厚い待遇で授業をさせてもらえて(資料を印刷して配っておいてくれたり)、とても有難い。なぜ自律的である人間が互いにケアを必要とするのか、というテーマで考えたり、石牟礼さんの映像を見たりした。

今年度から看護学校でも哲学の授業を担当することになり、この日が最初の授業日であった。話には聞いていたが、スタッフの人々がとても親切にしてくれて有り難い。授業前には日直的な学生が(そういえば看護学校の場合「学生」と「生徒」どちらなのだろうか…?)教員待機室にやってきて用を尋ねてくれる。慣れておらず、ぎこちない対応になってしまったような気がする。60名程度のクラスだが、後ろの方まで真面目に聞いてくれているようで、今後が楽しみになった。

随時、どんな内容でも構いませんので、愉快なご連絡をお待ちしています。

心からそのように思っている。

4月17日(水)

今学期最初の明治学院大学横浜キャンパスでの勤務。帰りは町田で飲んでいるので、今年度も飲み友を募集しています。

明治学院大学では基本的に学生たちからのレポートの相談を受け付けるということをやっているのだが、初日は特に来る人もおらず、もう一人の同僚と今後の方針について話し合ったりしていた。

昨日の夜は「空即是色」というように無と言った瞬間に有るのですよね、という話を隣に座ったお客さんから聞いた。神を「語り得ぬもの」と言った瞬間に語ってしまっているというような話。

夜は久しぶりに町田のレストランバーに行った。こちらの方で仕事を始めてから通っている。この日も、いつもの常連さんとカウンターで働く学生さんで楽しく過ごさせてもらった。「そろそろ大学が始まって来る頃かと思っていた」と皆に言われて、このような場所が家から離れた場所にあるのは嬉しい。

4月18日(木)

今日は橋本由美子先生の命日。命日でなくとも本人のことは年中いろいろ思い出しているので特別な感じはしない。バイトの帰り道、メールボックスを開いたら酒井先生から訃報の連絡が届いていて、桜が舞っている千駄木の裏道を歩きながら何度も読み返していたことを思い出す。

毎年この日には、先生を中心に一緒に勉強会をしていた人々と近況を報告しあうことが慣習になっている。亡くなってもなおどこにでも現れそうな橋本先生の姿を思い出しながら、皆にメールを送った。

今日は専修大学で2コマ講義。哲学ではなく、ネットワーク情報学部の学生向けにレポートの書き方などを教える仕事。

いつもとは少し違う分野の学生たちを相手に話すので多少緊張する。この日は主張と事実は違うということを話したのだが、けっきょく事実とは何なのかが難しいまま。

最高の友人と久しぶりに飲んで、そのあと一人で新宿五丁目のバーで飲んでいた。世界への愛を確かめるような夜であった。

夜は年末ぶりに会う友人と新宿の「どん底」に行った。これまでの数ヶ月の近況を報告しあって過ごした。世界への愛を確かめるような夜は定期的に必要。

4月19日(金)

成城大学の哲学講義でプラトンパイドン』の話をして、学生さんたち同士でディスカッションをしてもらったりした。本郷に戻るつもりだったがゼミが休講になってしまったので、とりあえず図書館で来週の授業準備をする。

プラトンパイドン』中心に話をした。具体的なもの同士の間に成立する「等しさ」と、より一般的な概念としての「等しさそのもの」について、皆で考えた。なかなか難しい話題だが、今後の講義で扱う哲学的な考え方の基本になるものなので、一旦ここで練習しておくのが良いと思っている。

今日も友人と新宿五丁目で飲んでいた。相変わらず素敵な夜であった。哲学が運んできてくれる夜の明るさにいつだって感謝している。

夜は友人と会った。朝まで飲むのもよかったが、翌日の朝が早かったこともあり帰宅。また今度、朝までリベンジすることにした。哲学が教えてくれることも多いが、哲学が運んできてくれることも多いと日々思う。

4月20日(土)

人生最後みたいにいろんな人に会って笑い合う夢を見て、すっと起きて、いろんな人に会うために家を出た。今朝は渋谷でマルクス入門読書会(網野善彦篇)に向かう、そのあと近くで工藤祐次郎さんのアナログ盤発売ライブと、詳細をよく知らない宅飲み。

マルクス入門読書会を日本史を専門とする友人と開催している。最近は網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』を読んで、マルクス主義との関係について考えたりしている。というのは建前で、じっさいのところ友達と会って話すことそれ自体が目的であり、その手段として書籍を使わせてもらっている。不純な理由でごめんなさい。

工藤祐次郎さんのライブは素晴らしかった。担当者の人が予想した以上の人出で、会場が埋め尽くされていた。アナログ盤を購入してサインをもらった。嬉しい。

その後、建築家の方が自身で設計されたという家に皆が集まっているというので遊びに行ってきた。いつか私も愉快な家を建ててみたい。

4月21日(日)

日曜のワークスペース

とつぜん焚き火がしたくなったが、仕事もたくさん残っている。というので、焚き火をしながら脇でパソコンを開いて仕事をしてみた。だが、焚き火というのは案外忙しいものであって、わりと頻繁に木を継ぎ足したりしなければならない。したがって、当然のことながら仕事は全然進まず、ただ焚き火をしただけだった。

大きな肉まんを2つ食べた。大変なことである。

何でも適度な量というのがある。大きい肉まんを2つも食べると、かなり胃に来るということがよくわかった。以後気をつける。

 

4月15日〜4月21日註解は以上。

デカルト『方法序説』の一般向け講義のご案内(2024年4月14日〜)

大学でも行っているデカルトに関する講義を、初学者の方を含む一般向け講義として、より時間をかけて、より詳細な内容で開講いたします。今回みなさんと一緒に読み進めるメインテクストは、同時代の書籍のなかでも最も有名であろう『方法序説』という著作です。以下では、講義の詳しい内容を紹介しています。みなさんのご参加をお待ちしています。

開催概要

サービス名:The Five Books

期間:2024年4月14日(日) ~ 2024年5月12日(日)
毎週日曜日20時よりオンラインで開催(録画での参加も歓迎します)
随時Slackを用いて、質問等の講師とのやりとりが可能です。

料金:8000円(2000円/講義×4回)

お申し込みはこちら

講義概要

今から約400年前、現代科学の礎が築かれた科学革命の時代、ルネ・デカルト(1596–1650年)という一人の天才が、新たな哲学を打ち立てるために奮闘していました。この講義では、彼の努力のなかで生み出された稀代の名著『方法序説』(1637年)を、4週間かけて全4回の講義とともに読み進めていきます。

この本を読んで得られるものを一言で表すならば〈考えるための方法〉ということになるでしょう。彼の生きた17世紀は「方法の世紀」とも呼ばれる時代でした。なぜ方法なのか。それは、新たな物事の誕生には常にそれを遂行するための新たな方法が伴わなければならないからです。前の時代と同じやり方では同じ結果になってしまう。彼らは新たな方法を打ち立てることで、新たな科学を、そして新たな哲学を打ち立てようと試みたのです。

方法序説』はそんな方法の世紀においても、随一の影響力と破壊力をもつ書物です。たしかに、本書には、現代科学では否定されている事実や、批判されがちな心身二元論などが登場してきます。しかし、読み進める上で重要なのは、デカルトがそのような考えに至ったのはなぜか、という点です。というのも、その思考プロセスにこそ「方法」があるからですデカルトの思考方法は時代を超えて現代の私たちにも大いに参考になることでしょう。

本講義では、『方法序説』の内容に関する紹介はもちろん、17世紀の他の哲学者たちの思想との比較、さらには毎回の講義の冒頭で本書をより楽しむためのブックガイドの時間なども設ける予定です。また、講義期間中はいつでもSlackを用いて講師に質問をすることが可能になっていますので、理解が難しい箇所があっても一人で悩まず講師とともに考えることができます

方法序説』は初めて哲学書を読む方、哲学への最初の一歩を踏み出したい方、さらには17世紀哲学に興味を持っている方などにもお勧めです。ぜひ一緒に『方法序説』を楽しみましょう。みなさんのご参加をお待ちしております。

使用テクスト

方法序説』は岩波文庫や中公クラシックス、中公文庫、白水Uブックスちくま学芸文庫講談社学術文庫等から様々な翻訳が出ています。基本的には岩波文庫のものに従って講義を進める予定ですが、他の翻訳での参加も可能です。手に入れやすいものをご用意ください。それぞれで訳が異なる部分があると思いますが、そういった違いがなぜ生じてくるのかを考えることも含めて楽しみましょう。  

各講義の内容

第1回 (2024年4月14日 20:00-21:30)の内容:
山に登ったことがある方はご存知かもしれませんが、道具を揃えたり、地図を確認したりする準備作業は、山登りそのものと同じくらい、あるいそれ以上に大事な作業です。最初の講義では、『方法序説』を読み進めるための入念な準備をしてゆきます。古典を読む上での難しさのひとつに、それが書かれた時代の人々と問題意識を共有できていないということが挙げられます。
この講義では、17世紀という時代状況について説明した上で、デカルトという人がなぜ『方法序説』を書くに至ったのかということを解説します。

第2回 (2024年4月21日 20:00-21:30)の内容:
方法序説』第一部から第三部を扱います。この箇所では、『方法序説』に至るまでのデカルト自身の来歴が回想されながら、学問や実践のための規則や格率が示されています。学問的な批判的思考は、それだけでは自らの生活を危ういものとしてしまうことにもなりかねません。デカルトは、日常的な格率を準備することで幸福な生活それ自体も大切にしようと考えていました。こうしたバランスのとれた考え方には見習うべきところが多くあります。第二回の講義では、こうした規則や格率の中身について吟味し、それらを通じて彼が伝えようとしていたことを掴み取りましょう。

第3回 (2024年4月28日 20:00-21:30)の内容:
方法序説』第四部を扱います。この箇所では、デカルト形而上学的な思想が展開されています(この文章を読まれている方ならきっと知っているであろう「我思う故に我あり」も登場します)。伝統的な哲学用語や哲学的な意味での「神」に関する議論は、初めて読む方々にとっては少し難しいかもしれません。でも心配いりません!この講義では初めから丁寧に解説します。こうした文章を読み解く訓練をすることで、今後また別の哲学書を読む際にも必ず役に立つことと思います。

~5月5日は休み~

第4回 (2024年5月12日 20:00-21:30)の内容:
方法序説』第五部から第六部を扱います。この箇所では、デカルトの自然学に関する思想が展開されています。物理や医学、宇宙などについて考えることはどれも、「自然」というものについて考えることです。ここでは、よく批判される、動物を単なる機械とみなす考え方も登場してきます。でも、デカルトは実際どんな言い方をしていたのでしょうか。自分自身の目で彼の言い分を吟味してみましょう。

お申し込みはこちら

【読書会】隅田聡一郎『国家に抗するマルクス:「政治の他律性」について』に関する覚書

数年前からやっている〈マルクス入門読書会〉で隅田聡一郎『国家に抗するマルクス:「政治の他律性」について』(堀之内出版, 2023)を読み終えたので、その記録を残す。この読書会は、日本中世史を研究している友人とふたりで行っている会で、マルクス主義史学の再検討のためにマルクス研究を学ぼうという趣旨で始めたものである。未だその目標にはほど遠いが、目下の研究に直接関わるものでもないので、地道に続けていきたい。

これまで読んできた書籍は以下である。

  1. マルクス「資本制生産に先行する諸形態」『マルクス・コレクション3』収録(筑摩書房
  2. 佐々木隆治『カール・マルクス:「資本主義」と戦った社会思想家』(ちくま新書
  3. 佐々木隆治『新版 マルクスの物象化論:資本主義批判としての素材の思想』(堀之内出版)
  4. 田畑稔『増補新版 マルクスとアソシエーション:マルクス再読の試み』(新泉社)
  5. アンダーソン『周縁のマルクスナショナリズムエスニシティおよび非西洋社会について』(社会評論社
  6. ポストン『時間・労働・支配:マルクス理論の新地平』(筑摩書房)※途中で挫折中

以前「資本制生産に先行する諸形態」を読み終えたさい、内容の復習として隅田さんの論文「マルクス「本源的所有」論の再検討——「資本主義的生産に先行する諸形態」における「私的所有」と「個人的所有」の差異——」(『社会思想史研究』第38号掲載)を読んだということもあり、今回は同氏がちょうど書籍化された博士論文を読むことになった。

基本的にマルクス研究について何も知らない状態から始めている読書会なので、書かれていることの全てが私たちにとっては新情報であった。だが、明晰な筆致のおかげで最後まで読み通すことができた——私たちの知識不足ゆえに、多くの内容を取りこぼし、読み違えながらのことではあると思うが。特に、政治や国家というものが、マルクスの理論にどのように関わるのかという点について大変勉強になった。

以下では、読書会の各回終了後にX上に投稿した感想に加筆・修正を加えつつまとめて掲載しておく(ただし、最後の章とあとがき部分についてはXに投稿していないため、こちらで新たに書いたものである)。


2023年9月4日

冒頭から p.36 までを読んだ。政治を経済に還元するのでも、政治の自律性を強調するのでもない仕方でマルクスを読み解いていくこと目指す。フーコー的方法も参照しつつポリティカル・エコノミー批判との関係で政治の位置を見定めながら、本書の主題である「政治の他律性」の発想を取り出していく。

9月19日

第1章「未完の国家批判:「国家導出論争」再考」
マルクス研究史を振り返りながら、政治の「自律性/他律性」の観点から再構成していくパート。グラムシマルクス解釈をどう受け取るべきか、国家導出論争(この本で初めて知った)をどう理解すべきか、など勉強になる。

10月1日

第2章「近代国家とブルジョワ社会:国家批判からポリティカル・エコノミー批判へ」
ヘーゲルが先立って提示していたような、政治的、国家的領域と、社会的、私的領域の二元主義が近代の特徴であるとすれば、その変革の可能性をどこに見出すことができるのかが問題となる。マルクスは、国家の解消によってブルジョワ社会をも解消するという方針から、ブルジョワ社会の変革によって政治的領域のあり方を変えるという方向へとシフトする。これは、人々の生活や労働のあり方が変革されない限りは、国家形態も維持されざるを得ないという発想に基づいている。

スピノザが『神学・政治論』において、どんなに強い権力でも人間本性に反するようなことを命じることはできないし、もし命じるならば権力自体の危機を引き起こすことになりかねない、ということを述べていた(cf. 上野修スピノザ『神学政治論』を読む』)。こうした制約は、本書で指摘される、国家の租税源泉の制約に関する次の議論にも関わるように思う。

資本の国家はたんに暴力的強制にもとづいて私的所有者(主として賃労働者・資本家・地主の三大階級)から富を捕獲するわけではない。というのも、国家租税の収入源線は、資本主義社会において本質的に剰余価値の一部であるほかなく、資本の再生産および蓄積過程に制約されているからだ」(p. 134)

10月21日

第3章「無産国家:資本主義の政治的形態」
上部構造と土台の連続性を考えるうえで、政治的なものがどのような形で経済的なものに関わっていくかを分析する観点が重要になる。この分析のために、前資本主義体制と資本主義体制、それぞれにおける国家の機能に注目していく章。

前資本主義においては国家が共同的なものの創設に直接関わっていく。これは、国家そのものが生産条件を所有しているからである。他方で、資本主義においては経済的なものの側の運動が(労働者と同様に)国家の無産化を引き起こすことになる。こうして、資本主義体制における国家はインフラ創設などに直接関わることができなくなる。

資本主義国家においては、租税を可能にしてくれる貨幣もまた経済的領域を媒介してしか可能ではない。その意味で国家の財政は経済的なものの領域に制限されることになるのであり、そうした経済領域における素材と価値の矛盾に対応するものとしてのみ国家介入の余地を考えることができるにすぎない。

11月12日

第4章「法=権利形態とイデオロギー批判:マルクスとパシュカーニス」
私的所有のような法=権利がそもそも物象が人格化されたものとして現れてくるものであることが明らかにされ、その上に法イデオロギーが成立していく経過が描かれる。パシュカーニスの重要性を知ることができる章。パシュカーニスの著作『法の一般理論とマルクス主義』は翻訳もあるらしい(古本が高騰している…)。

マルクスイデオロギー批判は、幻想性や隠蔽性の指摘にとどまるものではないというのも重要であるように思う。経済的なものの次元に由来する「法=権利」と、それに要請されて現れるイデオロギーが循環的な関係のなかで互いに深化していく構図の上では、イデオロギーそれ自体が固有の力をもつものとして捉え返される。

12月9日

第5章「近代国家から「資本の国家」への移行:「ブルジョワ国家」の可能性と限界」
ゲルステンベルガー『主体なき権力』を丁寧に紹介しながら、マルクスの国家の形態分析と歴史分析との関係を明らかにする章。歴史的条件の下での国家のあり方が問われていたことがわかる。

資本主義国家をブルジョワ国家と同一視と混同してしまいがちだが、ブルジョワ国家形態をとる資本主義国家というのは、アンシャンレジームから展開してきた歴史的条件の下でのあり方である点に関する指摘はとくに面白かった。理論にとっての歴史性の関係の仕方は、哲学一般の問題でもあり参考になる。

2024年1月29日

第6章「階級闘争と国家形態:「社会国家」の可能性と限界」
労働力の再生産を保障する国家の社会政策は「法=権利形態」を媒介として労働者階級が階級闘争を行うことに由来するものである、という議論が紹介されている。社会政策を行う社会国家の可能性と限界もここで扱われる。

従来の議論が十分に捉えることができていなかったのは、社会国家の過渡的性格であった。社会国家それ自体は資本主義のシステム内部で働くものであるが、マルクス的には、そうした社会はアソーシエイトした社会システムへと移行するなかの段階として捉えられるべきだということになる。

特に、アソシエーションに独自の政治的形態を考察することによって、資本主義国家の一類型である社会国家を所与の前提とした社会民主主義と、アソーシエイトした社会システムへの過渡期として社会国家を再定義する「社会主義的デモクラシー」(Negt 1976)を質的に区別しうるのである。(p. 235)

2月14日

第7章「資本主義世界システムの政治的形態:「資本の帝国」と地政学的対立」

グローバルに広がっている資本主義的な世界市場と国家の複数性の関係について扱われている章。第5章において、政治形態と資本主義の関係を歴史的分析から把握することを行ったのと同様に、そうした分析を国際的な資本主義と諸国家システムについても考える。

制度ということがキーワードになっていて、主権国家体制は、資本主義的政治形態とイコールではないにせよ、その「制度的な表現」であるとされる。歴史的に生じた制度によって具現化されたあり方として、現在のような複数国家と、そうしたものを突破していく世界市場が成立する。

注9で「ちなみに、ミエヴィルのSF小説の代表作である『都市と都市』は、彼の博士論文の「同等な法=権利のあいだで』(Miéville 2005)をモチーフに書かれたものである」とあったので小説も手に入れてみた。まだ最初の方しか読めていないが、見えているのに互いに見えないふりをしながら暮らさなければいけない二つの国をめぐるミステリー小説らしい。

3月17日

第8章「国家に抗するデモクラシー:「アソシエーションの政治的形態」の発明
資本主義社会における民主主義自体が抱えている「退化」契機、すなわち、議会制デモクラシーによって民衆が政治的領域から切り離されてしまう契機を、アニョーリを参照しつつ論じていく。こうした状況に対して、本章では「デモクラシーの非資本主義的形態=社会主義的形態」が検討される。

アニョーリによれば、代議制の本質とは寡頭政であり、代議制をとることによって人民は政治から切り離される。こうした事態は古代ギリシアで採用された民主政、すなわち政治的権利を有する人民による直接的政治参加に対比することができる。近代社会においては資本主義的形態のもとでデモクラシーが発展することになったが、それは必然的な事柄ではなく、資本主義から切り離してリベラル・デモクラシーを構想することの可能性を問うことができる。

ウッドの議論を参照しながら「国家に抗する政治的共同体」を再考していく。政治から切り離されてしまった労働者たちが自分たちをどのように政治的生活へと再び統合していけるのかが問題となる。ここでは、マルクスにおける二つのシトワイアン、すなわち「近代国家の構成員」と「国家に抗する政治的共同体成員」を区別することが重要であるとされる。この後者の成員としての権利を要求し、こちらの側から前者の在り方を再規定していくことが重要になる。著者は次のように本章を締めくくる。

したがって、「国家に抗する政治的共同体」は、商品や貨幣、資本といった経済的形態のみならず、資本主義社会に固有の法=権利形態ならびに国家形態を、漸次的に解消する限りにおいて構成される統治形態と考えることができよう。しかしそれは、法=権利はもちろん政治的共同体そのものの死滅として理解されてはならない。[…]それゆえ、シティズンシップの社会主義的形態がもつ内容とは、政治的自己組織化の構成原理にほかならない。(p. 295)

3月17日

おわりに「可能なるアセンブリコミュニズムへ」

本書が強調してきたマルクスにおける「アナキズム的モーメント」が改めて取り上げられている。マルクスアナキズムは一定程度まで意見を共有する部分がある。たしかに、マルクスは政治的共同体を通して資本主義を廃絶することを目指したが、それと同時に政治的な領域が常に資本主義的形態規定によって侵食されていることを批判していた。そうした侵食に抵抗するためには、第8章でみたように、私たちの政治的な在り方を再構成しなければならないのだろう。

ここでは可能なる共同体として、ゲルマン的形態やパリ・コミューン、さらには農村共同体など、マルクスが向けたまなざしが紹介されている。さらに最後には、現代における「ロジャヴァの革命」が「この革命は、現代の「可能なる」アセンブリコミュニズムの姿であると言えるだろう」(p. 307)と評価されている。私自身は、この革命についてほとんど知らなかったのだが、以上の議論を踏まえて改めて目を向けてみたいと思う。

honto.jp