わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

哲学史の博士論文を書き終えるまでの14年(4)託された課題と修士論文

「いろいろ、ありがとう、そしてよろしく」。これは、私を研究の道へと誘った橋本先生から届いた最後のメールの末尾に付された一言である。2017年4月、橋本先生は亡くなった。がんだった。私が修士課程に入学して半年くらい経った2015年の秋頃から、抗がん剤治療のために入院していた。まだそれほど悪くない頃、私も見舞いに赴いたことがある。最近の研究状況などを報告する私の話を、抗がん剤の副作用のためか、額に汗をにじませながら静かに聞いてくれていた姿を覚えている。いま改めて振り返ってみると、私の大学院での日々は、この「よろしく」という言葉に応えるためにあったとさえ思う。

私が後に執筆することになる博士論文の副題は「ライプニッツ哲学における有機体論と形而上学の相関的展開」というものであった。修士論文では、この副題に含まれる「有機体論」を中心的なテーマとして扱った。したがって、修士論文を準備する時点で、博士論文に直接つながる研究をすでに始めていたと言ってよい。周囲の院生たちを見ていると、卒業論文から博士論文に至るまで同一のテーマを掘り下げ続ける人もいれば、修士論文ののちに方向転換し異なる内容で博士論文を執筆する人もいる。私自身は、卒業論文で扱った主題をいったん脇に置き、「有機体論」を中心とするライプニッツ読解へと進むことになった。

どのような経緯でこの新たなテーマを選ぶことになったのだろうか。過去の記録を読み返してみると、どうやらここにも橋本先生の影響があったらしい。修士課程1年目の2015年初夏、ある学会の帰りに、橋本先生と町田さん——『初期ライプニッツの信仰と理性』の著者——に連れられて私はサイゼリヤにいた。私のメモにはそのとき橋本先生が語った次の言葉が記録されている——「若いライプニッツの〈化体〉に関する議論は1700年代の〈有機体論〉につながっているのかもしれない」。

その翌年4月、大阪大学で開催された日本ライプニッツ協会の春季大会で、私は生まれて初めての学会発表を行った。発表題目は「ライプニッツ哲学における二重化された有機体」というもので、個体としての有機体においてこそ、自然法則と自由の一致が実現されるのだという点を論じようとした。ところが、大きめの会場で登壇した私はすっかり緊張し、質疑応答ではまともに答えることができなかった。いまから振り返れば、発表内容も不十分な箇所だらけで、当時の私の認識としても、お世辞にもうまくいったとは言い難かった。もちろん、発表内容も質疑応答もある程度は慣れの問題であり、このような経験も無駄だとは思わない。

いずれにせよ、発表を終えた修士課程2年目の夏頃、私は修士論文のテーマを決定した。実際のところ、標準的な進度からすれば少し遅い。修士課程の標準修業年限は一般に2年であり、奨学金や授業料免除などの制度も、その年限を前提に整備されている。2年を越えると支援が乏しくなりやすい——もちろん例外も多いので、必要がある人は各制度を確認してほしい。したがって、多くの学生は2年で修士論文提出を目指すことになるし、私もそのひとりであった。

結局、その年は修士論文を提出することができなかった。全体の三分の二を書き上げたところで、なお読まなければならないテクストが溢れていた。提出日を過ぎてから、指導教員の鈴木先生に提出できなかった旨を連絡し、ひとまず書き上げたところまでの草稿を送付した。

修士課程2年目までは奨学金とアルバイト収入があり、さらに授業料も全額免除されていたので、何とかやりくりできていた。ところが3年目になると授業料免除の申請も難しくなり、奨学金も打ち切られた。私はいくつかのアルバイト——朝5時からパン屋で働き、午後は別のアルバイトをしていた——をかけ持ちしながら、修士論文を書き進めることとなった。

2017年4月の夕方、千駄木でのアルバイトを終えて大学へ歩いて向かっていたとき、一通のメールが届いた。橋本先生の訃報だった。しばらく立ち尽くしたあと、ふと顔を上げると、小学校の傍らに植えられた桜が夕日に照らされ、散り始めていた。もう長いこと橋本先生には会っていなかったし、送ったメールの返事も届かなくなっていた。前年に修士論文を書き上げていれば、少しくらいは読んでもらうこともできていたかもしれない。そんなことを考えながら、ゆっくりと大学までの道を歩いたことを覚えている。

その年の12月、私は8万字程度の修士論文「後期ライプニッツにおける有機的物体とその機構」を書き上げ、提出した。3年目ということもあり、比較的早い段階で草稿を整えることができたので、何人かの知人に読んでもらう時間も確保できた。卒業論文のときもそうだったが、今回もやはり、これだけの長さの文章を執筆するのは初めての経験だった。コメントを参考にしながら言い回しを直し、説明の順序を入れ替え、足りない部分を補って、何とか完成させることができた。

「いろいろ、ありがとう、そしてよろしく」という橋本先生の言葉を、私は繰り返し思い出す。「有機体論」というテーマも、橋本先生から教えられたものだった。あの修士論文は、そのようにして残された課題に対する私なりの回答であり、そして相変わらず不十分な回答でもあった。ライプニッツ有機体論の内実をある程度まで明らかにしたとはいえ、なぜライプニッツ自身が有機体論を論じなければならなかったのか、その真意までは読み解けないままにとどまった。課題は山積みのままだった。

こうして翌年4月、私は博士課程に進学することになる。研究の道を歩み続けることは、自分自身に課したある種の義務のようなものだったといえる。それは今でも変わらない。哲学はたしかに面白い。だがそれ以上に私にとっては周囲の人々から託された「やるべきこと」のひとつなのだ。

(続く)

哲学史の博士論文を書き終えるまでの14年(3)内面化された卑下と向き合う

※ここまでのあらすじ:大学院の存在すら知らなかった私だが、出会った人々に勧められるがままに哲学研究の道へと進むことになった。ライプニッツをテーマに卒業論文を提出し、大学院入試を終え何も知らない大学院の世界へと歩み出す。

2015年4月、私は修士課程の学生として大学院に入学した。

慣れ親しんだ母校を離れ、他大学の大学院へ進学するということは、私にとっては覚悟のいることであった。学部入試で植え付けられた偏差値による大学の「格」への意識は、そう簡単には払拭できるものではない。私が進学することになった大学院は、その「格」という点でみれば母校をはるかに上回っていた——もしこの文章を読んでいる人のうちに、当時の私とおなじような状況の人がいるなら、過度に心配する必要はないと先に伝えておきたい。ともかく入学当初の私にとっての第一の課題は、内面化された卑下——より正確には、外部の評価軸に自己判断を委ねる癖——を克服することにあったといってもよいだろう。

その年、研究室の同期は私を含め4人だった——そのうち1人は、10年後、私と同じ年度に博士論文を提出することになる。大学院では鈴木先生が指導教員となった。演習のスタイルは独特で、ライプニッツの初期の重要著作であるDe Summa Rerumドゥルーズの『襞』を隔週で交互に読むというものだった。同じ演習には、ライプニッツを研究している先輩が2人ほど参加していて、初回を終えたさいに簡単な挨拶をした。先輩に研究内容を尋ねられた私は、『哲学者の告白』をテーマにした卒論について、やや見栄を張りながら答えたことを覚えている。

内面化された卑下は、過度な見栄や外部に対する刺のようなものとして表出する。あるいは、人からの評価に対して過敏に反応してしまったりもする。入学してすぐに開かれた新入生歓迎コンパでは、周囲に低く見られないように神経を尖らせていたように思う。「こんなことも知らないのか」と思われないように話を合わせ、ときに「こんなことさえ知っている」と示したくなって、相変わらず見栄を張っていた。見栄は、相手を見下すためというより、見下されることへの恐れが先に立った結果だった。

このような状況から抜け出すきっかけが何だったのか、いま振り返ってもはっきりしない。ただ、周囲の学生や先生たちとの交流のなかで、徐々に自分の居場所を見出せたことは幸運だった。また、学外の人々との交流も精神的な支えになった。居場所を奪っていた単一の評価軸が、複数の基準のなかにほどけていったともいえる。

実際のところ私は、哲学史についても研究対象のライプニッツについても、ほとんど何も知らないという事実を痛感していた。だから修士課程のうちは、できる限り不足している知識や能力を補うことに注力しようと決めた。

まず私は、いくつかの勉強会を始めることにした——それまで読書会も勉強会も自分で開いたことがなく、これが初めての経験だった。ひとつは、ライプニッツのもっとも有名な著作『モナドジー』の勉強会であった。SNSで参加者を募ったところ、いくつかの大学から学部生・院生たちが集まってきてくれた。入門書として勧められたNicholas RescherのG.W. Leibniz's Monadology: An Edition for Studentsの該当箇所を参照しつつ、読み進めた。毎週、ある大学の一室に集まり、専門領域の異なる人々と議論しながらライプニッツ哲学について語り合う時間は、楽しいものだった。

もうひとつ強く記憶に残っているのは、大学院の同期の一人であったH君——今では立派な中世哲学の研究者となった——と一緒に始めた「個体化研究会」である。研究室の片隅の埃をかぶった一室を掃除して、そこを拠点に活動した。この勉強会では、ライプニッツ最初期の論文「個体の原理についての形而上学的討論」や、トマス・アクィナスの『存在と本質について』など、担当箇所を決めて訳を持ち寄り、哲学史上の「個体」の扱いについて勉強した。H君は個体化論を専門としていたし、何より私よりもずっとラテン語に堪能だったので、多くのことを教わった。

学外の人たちとの交流という点では、学会や研究会にできる限り出向くように心がけていたことも、さまざまな意味で私自身を助けることとなった。春と秋に開催される日本ライプニッツ協会には毎度参加した。皆が親切にさまざまなことを教えてくれた。それほど大規模な学会ではないが、むしろその規模ゆえに互いに励まし合う環境が育まれており、私にとって居心地のよい場所になった。

また哲学若手研究者フォーラムという大学院生を中心とした学会に参加したことも、学外の学生との交流を広げるきっかけになった。分野を問わず多様な研究をする学生たちが、さまざまな大学から集まる場所である。こうした場が用意されていることは、多くの学生にとって確かに救いになるのだと思う。

最初にも書いたように、修士課程1・2年目の私にとって大学院の世界は、内面化された卑下と向き合う場所だった。いかにして自分を励ますのか——それが当時の大きな問いであった。私にとって幸運だったのは、周囲の人々が驚くほど誠実で、親切であったことに尽きる。私の卑下が杞憂にすぎないことを、友人や先生たちは日々のやり取りのなかで繰り返し示してくれた。このことへの感謝は忘れることはないだろう。

こうして私は修士課程2年目に、修士論文の準備を始めることになる。とはいえ、物事はそう簡単には進まない。この話はまた別の機会にしよう。そういえば、大学院に進学してからのお金の話も、まだ書いていなかった。これは大学院を志す多くの人が心配する点でもあるし、無鉄砲な私にとっても避けては通れない課題だった。次回はこれについて書くことにする。

(続く)

哲学史の博士論文を書き終えるまでの14年(2)卒業論文と大学院入試

哲学史の分野で大学院に進むためには大きく分けて3つの能力が求められる。(1)外国語の文章を正確に読めること。(2)哲学史に関する一般的な知識を持っていること。(3)問題を整理して論文を書き上げられること。大学によっても異なるが、秋入試では卒業論文が未完成であることが多いので、特に(1)と(2)の能力に重点をおいて見られることになる。大学によっては春入試しか設定されていないこともあるが、これは(3)の能力を測るためでもあるのだろう。

大学4年生になった私は、大学院へと進むにあたり、同じ大学のまま進学するか、外部の大学院を受験するか迷っていた。卒業論文のテーマにライプニッツを選んだ以上、もし引き続き17世紀哲学を中心に研究していくならば、外部の大学院に進学する方がよいのではないかと考えるようになった。というのも、私が学部生として在籍していた大学には17世紀フランス哲学を専門にしている専任の先生がいなかったからである。こうして私は、この年度、秋と春にそれぞれ別の外部大学院を受験することに決めた。

とはいえ当然、卒業論文を書かなければ進学どころか卒業することさえできない。橋本先生だけでなく、専任の指導教員のゼミでも論文指導を受けていたが、それだけでは足りない気がして、受験先のひとつであった山内先生のゼミにも出席させてもらうことにした。先生は外部生の私を快く迎え入れてくれた。他大学のまったく知らない学部生たちに混じって、スピノザの『エチカ』やギリガンの『もうひとつの声で』などを原語で読んだ。このゼミでは毎年、八王子のセミナーハウスで卒論構想発表のための合宿が行われていた。私も参加していいというので、それまで進めていたライプニッツの初期著作である『哲学者の告白』に関する論文構想を発表させてもらった。他ゼミ生たちは、スピノザやロシア哲学や中国哲学などについて発表していたことを朧げに覚えている。

4年生の秋、ひとつ目の大学院入試に臨んだ。語学試験は、フランス語と英語の文章を訳出するというものだった。哲学の知識を問う試験では、いくつかの専門用語を説明し、かつ出題テーマについて記述することが求められた。語学試験が始まって数十分経った頃、私の目の前に座っていた受験者が、何らかの発作を起こして倒れ、そのまま教室の外へと運ばれていった。入試というのは、独特のストレスがかかって身体にこたえる。私自身、学部入試の直前に、おそらくストレスと生活の乱れからクローン病を発症し、科目試験が終わるたびトイレへ駆け込んでいた経験がある。ともかく私は、筆記試験を終え、面接を経て、最初の合格通知を受け取った。

もうひとつの大学院入試を春に控えたまま、卒業論文の提出日が間近に迫っていた。3年生の春休みから進めていた『哲学者の告白』の翻訳も終え、この時期の著作では様相概念が重要な意味をもつことを確信した。関連する先行研究を検討し、4万字程度の論文をようやく仕上げたときには、すっかり冬になっていた。それまでの人生でこれほど長い文章を書いたことはなく、全体をうまくコントロールできるか自信がなかった。アウトライナーと手書きの議論マップを用意することで、どうにか全体の整合性を保つことができた。

とはいえ、そもそも日本語の文章自体もうまいわけではない。橋本先生が添削してくれるというので印刷して渡したところ、至るところに赤ペンで書き込まれた真っ赤な原稿が戻ってきた。哲学にとって言葉は命である。厳密な議論のためには厳密な言葉を用いなければならないし、用いた言葉そのものが内容を作り出していく。真っ赤な原稿を前にして一文字ずつ修正していくうちに、あっという間に期限が迫り、私は提出に踏み切った。

4年生の春、二度目の大学院入試に臨んだ。朝早く電車に乗って最寄りの駅に到着したところで、腕時計を持参するのを忘れていることに気づき、青くなった。試験開始まで多少の余裕はあったが、家に取りに戻るほどの時間はなかった。朝早く開いていて腕時計を売っていそうな店を急いで検索すると、少し駅を戻ったところにドン・キホーテがあるのを見つけた。ビニール製の透明なバンドの腕時計を購入し、試験会場に到着したときには、結局、開始直前になっていたように記憶している。

春の入試の結果は、大学に張り出された合格者の受験番号を直接見に行かなければならなかった。哲学専攻の欄に並んでいるのは4組の数字だけで、すぐに自分の番号を見つけることができた。こうして、ふたつの大学院に合格した。先に合格していた大学院に進むか、それとも春に新たに合格した大学院に進むか、しばらく悩んでいたが、橋本先生や山内先生に相談すると、春に合格した大学院へ進むのがよいだろうという助言をもらった。

こうして私は、前年までは存在すら知らなかった「大学院」という場所へと入り込んでいくことになる。このときはまだ、修士課程で自分に研究が向いているかどうかを考えよう、という程度の気楽さだった。そこから10年も大学院に通い続けることになるとは、さすがに想像していなかった。何はともあれ、学部を無事に卒業した私は、新たな気持ちで大学院へと歩を進めることになったのである。

(続く)