わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

【読書会】網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』に関する覚書

数年前からやっている〈マルクス入門読書会〉で網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』(岩波文庫を読み終えたので、その記録を残す。この読書会は、日本中世史を研究している友人とふたりで行っている会で、マルクス主義史学の再検討のためにマルクス研究を学ぼうという趣旨で始めたものである。未だその目標にはほど遠いが、目下の研究に直接関わるものでもないので、地道に続けていきたい。

これまで読んできた書籍は以下である。

  1. マルクス「資本制生産に先行する諸形態」『マルクス・コレクション3』収録(筑摩書房
  2. 佐々木隆治『カール・マルクス:「資本主義」と戦った社会思想家』(ちくま新書
  3. 佐々木隆治『新版 マルクスの物象化論:資本主義批判としての素材の思想』(堀之内出版)
  4. 田畑稔『増補新版 マルクスとアソシエーション:マルクス再読の試み』(新泉社)
  5. アンダーソン『周縁のマルクスナショナリズムエスニシティおよび非西洋社会について』(社会評論社
  6. ポストン『時間・労働・支配:マルクス理論の新地平』(筑摩書房)※途中で挫折中
  7. 隅田聡一郎『国家に抗するマルクス:「政治の他律性」について』(堀之内出版, 2023)

今回は、直接マルクスを読むことから離れて網野善彦1984年に出版した論文集を読むことにした。網野は、マルクス主義史学とは一定の距離をとりつつも、それでも自身はマルクス主義者であった。そうしたマルクス的な発想がどのように網野の歴史学に入り込んでくるのか、という点に注目するのが今回の読書の目的であった。

網野は、非農業民である海民や鋳物師などに注目しながら、そうした人々が権力とどのように関係を結びながら生活していたのかを描き出していく。そのなかで、非農業民たちは特権を獲得していくのだが、そうした特権が時代の中で被差別の根源となっていくことなどが指摘される。人間にとって、自然的本源的であった土地や移動に対する権利が、天皇などの権力者によって改めて与えられる特権になる事態が人々のあり方を少しずつ変化させていくことになる。

以下では、読書会の各回終了後にX上に投稿した感想に加筆・修正を加えつつまとめて掲載しておく(一部投稿しわすれによる抜けもある)。


2024年3月31日

序章 I, II を読んだ。「I 津田左右吉石母田正」では、戦後の石母田による津田の「政治嫌い」批判が紹介され、60年代、マルクス主義史学の困難に直面するにつれて、石母田もまた普遍的理論ではないものへ向かい始める研究史が描かれる。

面白いのは、ここで網野が津田の方にかなり肩入れしながら書いているという点。「きびしい現実との緊張関係の中からその史観をきたえ上げていった津田の姿勢」を見習い乗り越えたいとされる。「II 戦後の中世天皇制論」は戦後から本書が出る84年までの研究史概略が整理されていて、勉強になった。

天皇制が存続してきた事実に目を向けることの重要性から研究史を眺める。戦後の領主制論では農民と領主の封建制に注意が向けられ天皇が蚊帳の外におかれてしまった一方で、60年代の黒田の権門体制論は天皇に関する新たな論議を展開した。網野はこれを民衆の側から再構成しようとしているとも見える。

天皇封建制の外部の瑣末なものとして扱うことで、逆に天皇制の根深さを見えづらくしてしまうというのが網野の基本的な方針のようだ。したがって、むしろ中世の封建制においてもなお天皇が置かれた必然性へと目を向けようとすることになるが、このあたりはマルクスの方針に近いとも言えそう。

2024年4月21日

第1部第1章「天皇の支配権と供御人・作手」を読んだ。網野以前の研究で偽文書とされたものを改めて真正なものとして扱うことで、組織化された供御人と天皇の関わりが鎌倉末期にはすでに現れてきていたことを示す論文。

後半部では、網野はそうした支配のあり方が自由交通の権利を付与するという形であったことを強調し、さらにその点から大地と海原という自然的本源的権利を支配するものとしての中世の天皇を示していく。前半の丹念な議論とは異なり、後半は大胆で驚くが、私のような外野的には後半部も面白い。

御厨や荘園というものが、そうした天皇との関係のなかで現れてきて、天皇も含めたエコノミーを形成していたということ自体も面白い。網野の議論からすれば、天皇というのは上に偶然的にくっついてくるようなものではなくて、社会構造全体との関係の中で必然的に要請されるようなものとしてある。

2024年5月11日

第1部第2章「中世文書に現われる「古代」の天皇を読んだ。鎌倉期までの供御人文書と比較して、南北朝期以降における天皇の扱いの変化を論じる。室町期以降、伝説上の天皇が職人の由緒として取り上げられるようになっていく。こうした流れについて網野は、南北朝期以降の動乱のなかで自らを天皇との関係のなかで規定することで存続を図る職人組織のあり方を見出す。だが、近世への移行の中で、こうした自己規定の社会的な扱いが逆転し、迫害の対象としての身分を固定化することにも結びついてしまう。

読書会の中で、全体的に、論証のために挙げられている文書が、ほんとうに偽文書ではないのかどうかという点には疑問が残るということになった。

2024年6月9日

第1部第3章「中世前期の「散所」と給免田」を読んだ。先立つ研究では、被差別部落形成史のなかで、散所とは「中世賎民の基本的な存在形態」とされてきたが、この論文はこうした見方が鎌倉期などには当たらないことを論じている。

網野が挙げている文書によれば、散所召次や散所雑色などは、たしかに給免田などが与えられる特別な役職ではあったが、そうであったとしても差別の対象となるような身分ではなかったとされる。重要なことは、後の時代にこうした特権が転倒して被差別的な身分へと置き換わる点にある。

網野の議論のポイントは、差別というものが、人びとの文化的な面から生み出されたものというよりは、そうした特権を認める制度上の在り方から構造的な仕方で生み出されてきたものであるという点にあると読むことができる。

2024年6月25日

第2部第1章「海民の諸身分とその様相」を読んだ。中世の海民を「浪人・職人・下人・平民」という四カテゴリーに分類し、さまざまな方面から漁業に関わる人々が荘園や御厨に入り込み、天皇経済と関係を持っていたことを明らかにする章。

重要そうな指摘として、私たちは「百姓」と言うとすぐに農業に携わる人々を考えてしまうが、この時期における百姓のうちには海民も含まれているし、海民だからと言って土地を持っていなかったというわけでもないという。時代が下るにつれて少しずつ免田などに強く結びついた海民なども出てくる。

職人的な海民が特権を獲得していく重要な契機として、寛平や延喜の改革が重要であったという。これによって、贄人が制度的に整理されて、天皇との関係が強くなっていく。こうして免田が与えられ、荘園のうちで力を増していく海民もいた。だが、農業に完全にシフトしたというわけでもないという。

2024年7月31日

第2部第2章「若狭の海民」を読んだ。「浦」と呼ばれる土地の単位がどのような権門や国衙などとの関係で成立してくることを示した上で、浦が漁場としての共同体となっていく流れを描いた章。支配層と海民の相互性が重要になる。

13世紀半ばの若狭において「浦」の境(あるいはむしろ浦を臨む山の境)に関するさまざまな動揺と、それに伴う百姓たちの権利の明確化が生じる。その根本に網野は「生産力の発展」に伴って安定的な浦に生じた矛盾を考えるが、このあたりの記述はマルクス主義的であると見ることができそうだった。

漁場が成立するなかで、地縁的な共同体が成長していく。そこでは、同時に「漁場に対する個々の百姓の権利が次第に確立」していくことになる。だが、網野が即座に付け加えるように、こうした共同体は「支配者側の積極的な動き」のなかで出てくる。支配者に認められる限りでの「自治」という在り方。

2024年8月10日

第2部第3章「近江の海民」と第4章「宇治川網代を読んだ。神社と簗漁業の関係について論じられた第3章では、天皇の御厨子所に由来する簗場が、11世紀後半に神社の支配に入っていく。

こうしたことが13世紀以降の在地領主と神社の間の相論のなかで、改めて持ち出されることになる。文書が残っていない11世紀からの簗場支配について神社は偽文書を作成して、進退権を主張することになる。こうした主張を行わなければいけないこと自体が、神社の本源的権利の衰退を意味することになる。

網野は、堅田における特権についても同章で論じている。このように湖上特権を獲得すること自体を、本来有していたはずの本源的権利の限定として理解することができる。堅田は特権を認められることによって、権利を湖上に限定されるのである。

2024年8月23日

第5章「常陸・下総の海民」を読んだ。霞ヶ浦四十八津と呼ばれる津の自治組織と、そうしたなかから水戸側について安定をはかろうとする人びとの間の栄枯盛衰を描いた章。霞ヶ浦四十八津が共有の浦として使っていた場所を、そのうちの鈴木家が力を持ち水戸と繋がり「御留川」とすること(漁師の立ち入りを許さぬ水戸城主の領海とすること)を注進する。四十八津は最初、こうした動きに徹底的に抵抗していくのだが、少しずつ力が弱まっていくことになる。

1700年代に入ると一気に四十八津や鈴木家の力が弱まっていき、やがて、どちらにしても幕府が定めたことを取り締まるための官僚的組織へと変化していくことになる。自治組織ではなく、官僚組織として生き長らえることを選ぶが、結局は明治に入り津の存在は忘れ去られていくことになる。

2024年8月31日

第2部第6章「鵜飼と桂女」を読んだ。贄人として天皇と繋がっていた鵜飼が、鎌倉以降の殺生禁断のなかで衰退し、そうした鵜飼たちが桂女として資料上現れてくることを明らかにしようとした章。鵜飼と桂女が同一主体であるのかは怪しい。

桂供御人と松尾神人との相論では、桂供御人の刑部丞の妻と呼ばれる人が大胆不敵に振る舞い、武力を引き連れて国の役人を追い払っていた。だが、時代が下るにつれて、そうした女性たちは呪術的で穏便な性格へと押し込められていく。網野は、こうした流れに、天皇制と差別の関係を読み取ろうとしている。

2024年9月17日

第3部「鋳物師」第1章「中世初期の存在形態」を読んだ。平安から鎌倉にかけて、燈炉や大仏をつくるために鋳物師たちが組織化されていく。単に作るだけではなくて商人的な側面もあり、天皇や幕府から自由通行の特権を与えられてもいた。

網野が強調するのは、鋳物師が、特定の支配者や共同体に縛りつけられてはいない「自由」な商工民だったということである。その意味で、鋳物師は自分らの技術を「芸能」、生業を「道」と表現することもあった。だが天皇から特権を与えられ、職掌をもって天皇に奉仕してもいる点で「職人」でもある。

2024年10月5日

第3部第2章「中世中期の存在形態」を読んだ。もともと遍歴という性格を持っていた鋳物師たちが、関所の乱立とともに諸国往反の特権が揺らぎ定在するようになっていく。このことにより、守護や地頭との結びつきが強くなる。

一国的な鋳物師集団が形成されるなかで、血縁的な関係から地縁的な関係へと移行し、その土地とのつながりを示すような伝承が後から作り出されていくことになる。こうした権威づけの動きが、偽文書などを生み出す契機になっていく。次章ではこうした偽文書を扱うことになる。

---第3部第2章記録抜け---

2024年11月12日

終章「I「職人」について」を読んだ。網野善彦はしばしば、非農業民をすべて職人と見做したというように批判されたりするけれど、そうではないようだ。この箇所では、限られた史料から可能な限り他の語彙との差分や共通点を探っている。

佐藤進一が官庁業務についての「家産化」(家の財産にしていくこと)から生まれたのが「職」や「務」であるとしていたのを、網野は芸能や道々者にまで拡張して考えている。道や芸能や職といった概念が、中世社会の請負・世襲による家業や職能の家産化のなかに置かれているという仮説は興味深い。

2024年11月19日

終章II「「社会構成史的次元」と「民族史的次元」について」を読んだ。歴史区分を考えるさいに、生産諸関係、法律的・政治的制度に則して考える社会構成史的次元に対して、網野はもうひとつの歴史観として民俗史的次元を提唱する。

民族史的次元から歴史をみるさいに、中世における南北朝動乱期は、人々の習俗なども含めて大きな転換があった時期として時代の分割点となる。本書全体を通して見てきたように、こうした人々の習俗の変化は、天皇による権利の付与、そうした特権の差別への転化、などの問題と切り離すことができない。

 

以上。

【週報】落ち着きのない日々【5月13日〜5月19日註解】

※ブロック引用されている文章は、特に記載がない場合には自分のSNSからの引用

総括

冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ』(岩波現代文庫)や赤阪辰太郎『サルトル』(大阪大学出版会)などを読んでいるが、まだどちらも途中なので読み終えたら感想を書こうと思っている。冨原さんの本は不思議な感じの文章で、ヴェイユが書いていることなのか、それとも冨原さんの考えていることなのか(おそらく前者なのだろうが)、読んでいるうちに分からなくなってくる。ヴェイユも迫力のある文章を書く人だと思うけれど、それと同じくらいの気迫で地の文が書かれているので、なかなか読み進めるのに体力がいる。

授業準備と野外活動で日々が終わってしまう。なにか焦っているような気持ちがしてならないが、もう少し落ち着くべきではないかと思う。落ち着いてゆっくり考える時間をとるように意識しておく。

考えたこと

世界観に関するフェチ

「今日はどんなことがあった?」と聞くと、「長い毛の猫が歩いていたよ」とか「木から毛虫がぶら下がっていたよ」というような返答をしてくれる友達がいる。なんというか、パースペクティブを抜き去った純粋な出来事を語る人っぽくて、こういう言葉を聞くたびに興奮する。

私たちはふつう内面化された観点から物事を眺める。だから、今日あったことを語ろうとするときにも、自然と〈自分にとっての〉出来事というものを語ろうとしてしまう。だが私というものに固定された観点を抜き去って物事を眺めてみると、誰にとっての出来事でもないような、出来事それ自体みたいなものが浮き出てくることになる。

自分に起きたことではなくて、世界に起きたことを語ること。実はあらゆる出来事がそのような仕方で世界のうちに生じている。もちろん、観点というのもひとつの事実であるし、ひとつの出来事であると言うべきだろうが、それでも観点を希薄化することができるとすれば、けっこう面白いことであると思う。

現実そのものは過去と未来を含んでいるのだろうか

徹底的に現実に根付いて考えることは、現実から自らを切り離すこととセットになっていると言うべきだろう。私たちが生きる歴史の突端に精確に根付くためには、すでに生じた出来事を捨て去って現実から距離を取ることが必要だし、その上で現れてくる現在をあるがままに受けとることが求められる。

すでに生じた出来事たちから自らを引き離すためにこそ、過去を振り返る必要がある。現在をあるがままに受け取るために、どのような偏見のなかに自らが置かれているのかを知らなければならない。

「現実そのもの」があるのかどうかは分からないが、そうしたものに向けて生きようとするならば、その現実から一旦距離をとる必要があるように思う。まさにこの現在としての現実は過去から到来したにせよ、その過去とは違うものとして到来してきたものである。そうだとすれば純粋な現在を捉えるとは過去なしに現在を見るということではないだろうか。

と考えていたが、例えばライプニッツのように、現在とは、過去も未来も含み込むようなものであると考えるのだとすれば、現在をそれ自体として捉えるとは、あらゆる歴史の全体を捉えることと同義であることになるだろう。けっきょくのところ、過去も未来も現在も、すべてがひとつのものであるということになってしまう。とはいえ、私としては、そのように考えるのも変な感じがする。

大きさを持たないものが、大きさをもつものの性質を含む話

ライプニッツが非延長的魂のうちに物体的延長が表現されうるのはいかにしてなのか、ということをゾフィーへの書簡の中で比喩を用いて説明している。弧を無限に小さくしていって拡がりをもたない点になったときでさえ、拡がりをもった直線が作っていた直角の性質を点のうちに見出せるという話。

画像

これはある種の比喩なのでよく考えると分からない部分がでてくる。つまり、たしかにこのように弧を無限に小さくしていくと点に至る。だが、そのとき本当にその点に直角と同じ性質が含み込まれていると言えるだろうか。そして含み込まれているとしては、それはいかなる仕方でなのであろうか。こうしたことについては、ライプニッツはここでは曖昧なままにしているように思う。

読んだもの

ホワイトヘッド『過程と実在』第2部第9章第1節(途中)

ホワイトヘッド『過程と実在』読書会にて、II, 9, 1 を読み進めた。命題について「半影部分(penumbra)」という考え方が提示され、命題とは純粋な可能性としての永遠的対象の抱握(どこにでも現れるような「赤さ自体」みたいな)ではなく、むしろ特定の現実との関係を含み込んだものだとされる。

こうした命題観からすると、たとえば「ワーテルローの戦いでナポレオンが勝利する」という有り得た単称命題は「勝利」という永遠的対象が仮定的が関係するネクサス全体に入り込むことであるとされる。ライプニッツが悪をひとつでも引き抜けば最善世界は全く異なるものになると述べるのと同様だろう。

述語は関係であり複数の主語に対等に結びついて、ある現実的存在の場(軌跡 locus)のうちに置かれるというのも重要な指摘。「AとBは親子である」は、Aからは父あるいは母である、Bからは子であるという観点がとられうるが、命題の次元で述語それ自体に観点を結びつけず、合生のうちで観点が定める。

ライプニッツにおいて常に述語が主語に内在しているという内属は、言い換えれば、述語は常に特定のひとつの観点から眺められたものであるとして理解することができるのではないか。他方、ホワイトヘッドは、こうした観点の次元を一旦抜き去って、命題を理解することで実体–属性図式を解体する。

ホワイトヘッドによれば、あらゆる潜在性のうち、特定の現実から導かれそうなリアルな潜在性を指示するものとして「命題」という概念が用いられている。完全な現実と、完全な潜在の間に、半影部分という形で現実と結びつけられている潜在性が存する。

ホワイトヘッドの命題の考え方において、述語はすでに最初から関係的なものとしてある(ラッセルと同様だろうか)。ライプニッツが述語は主語に内属していると考えたのとは対照的である。ライプニッツの場合、すでに最初からモナドの観点が用意されているため、あらゆる関係というものを内的なものとして扱うことができてしまうのだが、ホワイトヘッドはそうした観点を所与のものではなく、むしろ合生の産物として考えている。この点が両者の述語への態度の違いを生み出すのだろう。

ライプニッツにおける述語と観点の関係については、以下の論文が参考になりそうなので後で読む。

Vermeiren | The Perspectival Nature of Leibnizian Relations | Journal of Modern Philosophy

小熊英二単一民族神話の起源』第12–13章

第12章「島国民俗学の誕生——柳田国男」と第13章「皇民化優生学——朝鮮総督府日本民族衛生協会・厚生省研究所ほか」を読んだ。第3部に入った。国民をいかに統合的に理解するかということに関して、それぞれが異なる根拠に基づき考えていたことがわかる。

柳田は民俗学的な文化の側面から、島国日本をひとつの全体として捉える装置を取り出そうとしてくる。地方的でありかつ列島に共通のものとしての「稲」への注目もこうした文脈のなかで出てくるものである。優生学的な根拠から、厚生省が全面的に日本人の純血化を目指している様子も印象的だった。

1943年には厚生省研究所人口民族部から、3000頁を越える『大和民族を中核とする世界政策の検討』という資料が100部だけ政府内で配布されたという話にも驚いた。朝鮮総督府創氏改名や内鮮結婚を積極的に進めようとするなかで、優生学の側では純血化を強く主張している、この温度差は何なのだろうか。

日本人の民族がどこから来たかということにせよ、皇民化政策にせよ、優生学にせよ、文化的統一装置にせよ、近代国家が前提とする「国民」というものを創るということのために、さまざまな論理やエビデンスが用いられることが重要なのだろう。

活動

学術バーQでのゲストバーテンダー

5/19(日)18:00〜に、御徒町にある学術バーQでゲストバーテンダーとして立ちます。プラトンデカルトスピノザライプニッツ、カント、コンディヤックマルクスホワイトヘッドヴェイユハイデガーフーコードゥルーズなどが好きです。お話しできると楽しそうですね。お待ちしております。

学術バーQにて、おふたりのお客さんとスタッフの方と、みんなでマルクスフーコー、そして一ノ瀬先生の『死の所有』の話をしていた。今日のテーマは「労働」と「死」だった。

立たせてもらった。前に学問バーKisiの方にも来ていたお客さんや、初めてだというお客さんなどが来店。当日は、フーコーマルクスの話、そして所有やお金、死がテーマになって盛り上がっていた。お客さん自身がホワイトボードを用いて自説を紹介してくれたりして、けっこう楽しい時間を過ごすことができた。お賃金は売り上げの3割だということなので、それなりに集客が見込めないと仕事として立つのは難しそうだなと思う(今回の私の回は電車代にも満たなかった…)。

橋本先生のお墓参り

今日は、かつて読書会や講義に参加していたメンバーで集まり、橋本由美子先生のお墓参りにいく。手を合わせて、言葉をゆっくり思い出すと、自分がいま考えるべきことが見えてきたりする。未だに色々なことを教わっている。

相手が死んでも、やっぱり相変わらず友達であったり恋人であったり先生であったりするのは、ちょっと不思議だけども、それが現実というものである。

年に1度こうして皆でお墓参りに行く。先生が生きていたときと同じように人々が集まって、いろいろな話をする。窓開けて哲学をしましょう、と言っていたことを思い出す。

世の中

「間接差別」初の認定 男性が大半、総合職だけ社宅制度 東京地裁判決

「事実上男性のみに適用される福利厚生を続け、女性に相当程度の不利益を与えた」運用は、均等法の趣旨に照らして間接差別に該当すると判断した。(朝日新聞デジタル

間接差別については後期の授業でも「差別の哲学」について紹介するなかで扱っているので、初の認定があったという事実を新たに盛り込む。

digital.asahi.com

入管収容死、再び賠償命令 - 国の過失認定、東京高裁

nordot.app

離婚後の「共同親権」導入へ DVや虐待の懸念など払拭できるか

自分たちの理想を当事者たちに押しつけようとする民法の改変が、これだけの批判があるなかで、そうした批判にまともに答えることもないままに決定されてしまったことについて、有権者として将来の世代の人々に申し訳ない気持ちがある。

www3.nhk.or.jp

ゲノム解析で日本人の遺伝的起源と特徴を解読

「これらの結果は、日本人の祖先に関わる縄文系、関西系、東北系の三つの源流の起源を示唆し、「縄文人の祖先集団、北東アジアの祖先集団、東アジアの祖先集団の三集団の混血により日本人が形成された」という…」。

小熊英二単一民族神話の起源』でも100年前あたりの混合民族論が紹介されていた。科学的に混合民族であることは間違いないとして、その上で日本人がどのように統一性を考えるのかが気になる。混合民族が統一されているのは天皇による統治のおかげだという神話から、現代はどのように変化したのか。

univ-journal.jp

その他

絶版の本

マルブランシュ入門として使えそうな和書(アルキエのものや木田直人さんの新書「ものはなぜ見えるのか」など)が手に入りづらくなってしまっている。とくに新書は電子書籍でもいいので手に入るようになってくれると講義で取り上げるために助かる。

新しいマルブランシュの入門書が出てくれてもよいと思うのだけれど、その前に本邦でもマルブランシュという名前がもう少し有名になってくれる必要があるのだろう。

ゑでぃまぁこん《蜃気楼の中、あなた》

新しいミニアルバムを手に入れた。いつも夢の中のような音楽を聴かせてくれる。私たちは現実を生きるときに、夢の方から現実にアプローチしているのではないだろうか。

画像

 

 

【週報】分解って大事と思った【5月6日〜5月12日註解】

※ブロック引用されている文章は、特に記載がない場合には自分のSNSからの引用

総括

大変な1週間であった。振り返ってみるとたしかに色々なことがあった。もう少し落ち着いて過ごしたいという気もするし、5月後半はのんびり過ごそうと思う。

考えたこと

大学で学んだ哲学の技術

大学で哲学の講義や演習に出て学んだことは、哲学の知識と、自分で哲学の知識を得るための様々な方法であったと思う。哲学には数100~1000年単位の無数の蓄積があり、この蓄積から知識を取り出すことで、新たな知識の礎とすることができる(ライプニッツ達は泥から黄金を取り出す「永遠の哲学」を目指した)。

最近はもっぱら教える側の仕事ばかりで、大学の講義や演習に出る時間がない。とくに演習では哲学書を読むための技術が教えられているので、できればもう少し訓練しておきたいのだけど。学問分野によって書物をどのように取り扱うかということに大きな差があるということは重要だと思う。私はそんなに経験があるわけではないが、例えば、科学史(思想史)系の演習に出たときには、哲学の演習では絶対に考えられないほどの速度で文章を読んでいくことには驚いた。その時代の全体像を捉えるということに重きを置くならば、そのように読むしかないのかもしれない(もちろん精読する場面もあるのだろうけれど)。

17世紀的な現象の基礎づけ

並行してふたつの論文を書いている。どちらも「現象の基礎づけ」がテーマ。一方で私たち一人一人の経験の側から出発し、他方でモナドの側から出発して現象の事象性を明らかにする。結局のところ、両者はその最深部において「内的直接的経験」「能動的根源的力」という部分で一致するとみている。

「その現象はこの世界にきちんと備わったものである」というとき、私たち自身のうちの観念と外界との「対応」や、観念相互の「整合」を考えるという方向性がありうるが、じつのところ、それらをひとつのものとして扱いうる次元が17世紀哲学の存在論には潜んでいるのではないかと考えている。

スピノザにおいても観念の真理性が対応説的なのか整合説的なのか、という問いが立てられることがあるが、そもそもそうした問題の立て方自体がおかしいということがあるという。知性の力によって成立するような真理性というものが考えられている(この辺の話は、上野修スピノザと真理」『スピノザ考』収録)。ライプニッツもそういうところがあるなと考えている。観念として現れてくるものを、どのように基礎づけるかというときに、結局は、モナド自身の根源的力に訴えることになるのではないだろうか(それが経験としては内的直接的経験として現れてくる)。このあたりは考え中。

観念の二側面

学生さんに「対象的実在性 realitas objectiva」のことを自分なりに説明してもらったら、麻雀牌のようなものだと言われて参考になった。たしかに牌はみな同じ材質で出来ているという点で同じものでありながら、それぞれが異なる表象性・対象性をもっているがゆえに区別される。

毎年この時期は授業でデカルトなどを取り上げながら「対象的実在性」と「形相的実在性」について説明している。観念がもっているこの二側面は、前者がその観念が何かを指し示しているという在り方であり、後者が観念そのものが思惟のうちに〈在る〉というときの〈在る〉ことの重みのようなものを意味していると思われる。対象的実在性について学生さんの一人が「麻雀牌のようなものだ」と言ってくれて、なるほどと思わされた。

読んだもの

ホワイトヘッド『過程と実在』第2部第9章第1節(途中)

「命題」の章。ホワイトヘッドがいう命題とは、真偽の判断に関するものよりも広く、むしろそうした命題に対するあらゆる態度を引き起こす「感じの誘因」という役割が第一に与えられている。真偽はそうした態度の一種であるといえる。  

文学や福音書を読む際に、私たちは通常の意味でそこに書かれた命題の真偽を問題にしてはいない。むしろ、美的感じや宗教的感じの誘因として接しているといえる。こうしたすべての事柄を包括する「命題」は、誘因として、現実的存在が何に向かって合生していくかという目的を与える働きをする。

ホワイトヘッドが考えている「命題」というのは基本的には、私たちに関係するさまざまな可能性の領域だといえる。さまざまなリアルに感じられる命題のうちで、あるものだけが次の瞬間に現実のものとして実現していく。そうした可能的な命題を引き受けるかどうかということを、常に現実的存在は問われているということになる。

あまり慣れない議論なので、どうにも理解が追いつかないところもある。この章は「命題」についてずっと語られていくようなので、のんびりと理解していければ良い。

山本直樹『レッド』シリーズ(漫画)

登場人物もときおり「総括がわからなくなった」と呟いていたが、本当に最初から最後まで総括とは何なのかが分からずに終わった。

新左翼の人々が連合赤軍としてあさま山荘事件を引き起こすまでのアレコレを描いた作品。シリーズは全部で15巻ほどだが、内容の重さと読み進めたくな気持ちの重さによって、数ヶ月かけて読んだ。冒頭から登場人物の多くに1〜15までの数字が振られていて人物の頭の上や背中にくっついている(読み進めていくとすぐに分かるのだが、この数字はその人物が何番目に亡くなるのかを示している)。永田洋子(『十六の墓標』の人)をモデルとする赤城たちのグループと、植垣康博をモデルとする岩木たちのグループが連合してから、どんどん人々が亡くなっていく。「総括しろ」と言って縛られ、「がんばれ!」と言って殴られて、「革命戦士になれずに敗北した…」と言われながら死んでいく様子はだいぶ悲惨なので読む場合は覚悟した方がよい。

【お勧め!】藤原辰史『分解の哲学——腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社, 2019)

ネグリとハートの「腐敗」論、フレーベルの積み木論、チャペックの描く人類の臨界、屑拾いという生き方、生態学における分解者、修理論。分解のさまざまな側面を歴史と思想と人生のプリズムを通して描き出す最高の一冊だった。

生成や生産を第一のものとして、腐敗や分解を見えないところに追いやっていけば待っているのは窒息である。現代社会はこうした窒息を遅延させるためのさまざまな技術を開発して誤魔化しながら生き存えているようにみえる。分解そのものを生成のための条件として社会のうちに再配置する必要がある。

フンコロガシが糞を食べて、直ぐに糞として排出する——糞の糞もまた微生物たちの餌となる——という話は示唆的であった。私たちは自分たちのゴミを循環させることを拒んではいないか。さまざまな事物の最終地点になるような特権を気取ってはいないか。人間としての存在性そのものを考えさせられる。

数年前に友人が書評を書いていて、読みたいなと思っていたのだが、やっと読むことが出来た。私たちは作り出すことや「生成」という事柄にばかり眼を向けるが、その背後では黙々と誰かが分解してくれている。そういう循環をきちんと受け止め直す必要があるように思う。

【お勧め!】岡野八代『ケアの倫理——フェミニズムの政治思想』(岩波新書, 2024)

「ケアの倫理は、女性たちが自らの言葉で、女性たちの経験から編み出した、形容詞なしのフェミニズム思想に他ならない」(326頁)。執筆に7年かかったことに納得の内容と熱量。ケアで世界を塗り替えたくなる。

正義論が前提にする公私二元論自体の解体を目指すものとしてケアの倫理が考えられている点は勉強になる。

「したがって、「ケアか正義か」といった問題は、 むしろケアと正義をめぐって構築されてしまっている強固な二元論を見直すことをフェミニズムに要請しているのであり、正義への関心から切り離されたかのような単なるケアリングを超えて、女性や男性にそれぞれ特定の道徳的役割や領域を振り分けるジェンダーステロタイプこそが克服されなければならないのだ」(166頁)

学部生の頃に出ていたゼミでギリガン『もうひとつの声で』の原文を皆で読んでいたことがある。そのときには正義論に対抗する立場なのだな、という認識だったのだが、どうやらそこからもう1歩進む必要があったようだ。公私の二分法ということ自体が既存の正義論によって形作られてきたものであるとすれば、私的領域の倫理が大事なのだ、ということ以上に、公私の二分法そのものに従ってケアと正義が配分されるという状況がすでにおかしいものであるといえる。むしろ、ケアの倫理から出発するような正義論によって、既存の正義論を塗り替える必要があるのではないか。

最後に進むにつれて話は壮大になっていくが、説得力がある。国際的な安全保障や気候正義などにもケアの倫理が関わっていくことで、これまでとは異なる仕方での問題解決が可能になることが提示されていく。こうした本が登場してくれることは本当に有り難いことだと感じる。

網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』第2章「中世文書に現われる「古代」の天皇

鎌倉期までの供御人文書と比較して、南北朝期以降における天皇の扱いの変化を論じる。室町期以降、伝説上の天皇が職人の由緒として取り上げられるようになっていく。こうした流れについて網野は、南北朝期以降の動乱のなかで自らを天皇との関係のなかで規定することで存続を図る職人組織のあり方を見出す。だが、近世への移行の中で、こうした自己規定の社会的な扱いが逆転し、迫害の対象としての身分を固定化することにも結びついてしまう。

読書会の中で、全体的に、論証のために挙げられている文書が、ほんとうに偽文書ではないのかどうかという点には疑問が残るということになった。

読書会で読んだ。それまで偽文書として扱われてきた供御人文書を、本物のものとして読み直すことで供御人と天皇との関係を描き直そうとする章(前の章もそうだったけど)。ただ本当に取り上げられたものが偽文書じゃないのかという点については、もう少し説明があっても良さそうだと感じる(素人の感想だが…)。

活動

日本ライプニッツ協会の会計監査業務

読書会を少し早めに切り上げて南大沢へ。東京都立大学にて日本ライプニッツ協会の会計監査業務を行う。久しぶりに多摩モノレールに乗る(運賃と位置が高い)。

会計監査のために数年ぶりに東京都立大学(前に行ったときはまだ首都大学東京だったような気がする)に行った。そんなに多くもないレシートや領収書とじっさいの会計報告を照らし合わせて間違いがないことを監査する作業。印鑑を押して終了。将来的にはオンラインで出来るようになると嬉しいが、計算が合わないときなどは、実際に現場に行って作業するのが早いといえば早いのだろう。

渋谷での反戦行進

渋谷行進、後ほど行きます。私は情報保障のためのスピーチのリアルタイム文字起こし(UDトークの編集)をお手伝いする予定です。

行進に参加していた学生さんと話していて、私たち一人一人の声がひとつのコールになってしまうことの危うさが話題に上がった。100人が「戦争反対」と声をあげるとき、その4文字に対して100通りの態度や意味が込められているということは覚えておくべきだろう。それでも4文字を皆で唱える必要もある。

その意味で今回参加できなかった人々から事前に届いていたメッセージを eri さん が行進中にひとつずつ丁寧に読み上げてくれる時間があったのはとても良かった。やっぱりみんな全然ちがうことを考えていて、それぞれの仕方での願いがある。それは歩いていた人たちも同じだったことだろう。

mainichi.jp

ボランティアとしてUDトークの編集をしながら最前列付近を歩いていたら毎日新聞の記事に写真が掲載されていた(だいぶ険しい顔の私が撮影されているが、基本的にはもう少し穏やかな顔で歩いていたはず)。先導する車の荷台には、キラキラのヒラヒラで飾り付けられた「ハッピーハウス」が乗っかっていて、青葉市子さんなどが花を街路の人々に配ったりしていた。終了後、横断歩道を渡ろうとしたら青葉さんが向い側から歩いてきたので思わず手を振って「おつかれさまでした」と言ったら、手を振り返してくれた。

哲学オンラインセミナーを閉会するための準備

帰ってきて、午後は哲学オンラインセミナーのミーティングと、オンデマンド講義の録画作業。ルーロー飯たべてねむい。

哲学オンラインセミナーのSlackで閉会イベントの登壇者を募集し始めました。とくに、哲学オンラインセミナーを通して開催された(少しでも関わった)読書会グループに成果報告や読書会の様子を紹介してもらおうという「読書会の会」の登壇者を探しています。

昨年からずっと進めているが、何かを「終わらせる」という作業は本当に手が進まない。「始める」に対して「終わらせる」ことが難しいのは、おそらく私のうちに「始める」ことばかりを偉いものとして考えようとする偏見が宿っているからなのではないかとさえ思う。終わらせなければ他のものを始めることはできない、ということをもっときちんと見つめる必要がありそうだ。

The Five Books デカルト方法序説』講義(全4回)終了

The Five Books での『方法序説』講義全4回を無事に終えた。デカルトという人をよく表しているような著作で、哲学者の実像に触れながら哲学に入門できる面白い著作だと思う。2週間ほど休んで、6月2日からはライプニッツモナドジー』を関連する書簡なども合わせて読みすすめていく予定。

今回で『方法序説』を扱うのも4度目であったが相変わらず楽しく読むことが出来た。参加者の方々からも「楽しかった」という声が寄せられていて、私はとても嬉しい。

世の中

精神障害、なお残る差別条項 公園・プール・庁舎など利用制限、全国に333件

精神障害があると、公共の場所に入ることができないという規則が、今も残っている場合があるという。千葉県警と神奈川県警でも、そうした制限条項が残されているが、改正の予定はないという。

その他

非常勤の授業は基本どこに行ってもアウェイでの試合という感じがする。

非常勤講師で生計を立てる場合、基本的にいろんな大学に出ていって仕事をする必要がある。毎度いろんな場所に行くこと自体も精神的な疲れを引き起こすし、単純に移動が大変というのもある。どこかでたくさん授業を持たせてくれるならそれが嬉しい。

夜に友人とポッドキャスト録音(お試し)をすることになったので、大きなマイクを抱えて講義に向かう。何の話するか決めていないけど、お楽しみに!

録音までしてみたが、真面目な話ばかりしてしまって、どうにもラジオ的にしゃべるというのは難しいということがよく分かった。真面目なら真面目で真面目さに全振りしてもよいが、それはそれで大変なので悩ましい。今回は公開せずにもう1回とりなおすかも。

池袋・ポポタムへ、鬼頭祈さんの個展を見に寄った。ユーモラスな生き物への視線が心を明るくしてくれる。

かわいい作品がたくさん展示されていた。今後も注目していたい作家さん。

よく恩師が「哲学者のテクストの毒気にやられる」ということを言っていたが、ときおり実感することがある。「それでもやめられない」とも言っていたが、これもわかる。読めば読むほど世界が灰色になるが、そこに留まりたいとも思うような不健康さがある。

5月18日に恩師のお墓参りに行く予定なので、また少し考えてみようと思う。