数年前からやっている〈マルクス入門読書会〉で網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』(岩波文庫)を読み終えたので、その記録を残す。この読書会は、日本中世史を研究している友人とふたりで行っている会で、マルクス主義史学の再検討のためにマルクス研究を学ぼうという趣旨で始めたものである。未だその目標にはほど遠いが、目下の研究に直接関わるものでもないので、地道に続けていきたい。
これまで読んできた書籍は以下である。
- マルクス「資本制生産に先行する諸形態」『マルクス・コレクション3』収録(筑摩書房)
- 佐々木隆治『カール・マルクス:「資本主義」と戦った社会思想家』(ちくま新書)
- 佐々木隆治『新版 マルクスの物象化論:資本主義批判としての素材の思想』(堀之内出版)
- 田畑稔『増補新版 マルクスとアソシエーション:マルクス再読の試み』(新泉社)
- アンダーソン『周縁のマルクス:ナショナリズム、エスニシティおよび非西洋社会について』(社会評論社)
- ポストン『時間・労働・支配:マルクス理論の新地平』(筑摩書房)※途中で挫折中
- 隅田聡一郎『国家に抗するマルクス:「政治の他律性」について』(堀之内出版, 2023)
今回は、直接マルクスを読むことから離れて網野善彦が1984年に出版した論文集を読むことにした。網野は、マルクス主義史学とは一定の距離をとりつつも、それでも自身はマルクス主義者であった。そうしたマルクス的な発想がどのように網野の歴史学に入り込んでくるのか、という点に注目するのが今回の読書の目的であった。
網野は、非農業民である海民や鋳物師などに注目しながら、そうした人々が権力とどのように関係を結びながら生活していたのかを描き出していく。そのなかで、非農業民たちは特権を獲得していくのだが、そうした特権が時代の中で被差別の根源となっていくことなどが指摘される。人間にとって、自然的本源的であった土地や移動に対する権利が、天皇などの権力者によって改めて与えられる特権になる事態が人々のあり方を少しずつ変化させていくことになる。
以下では、読書会の各回終了後にX上に投稿した感想に加筆・修正を加えつつまとめて掲載しておく(一部投稿しわすれによる抜けもある)。
2024年3月31日
序章 I, II を読んだ。「I 津田左右吉と石母田正」では、戦後の石母田による津田の「政治嫌い」批判が紹介され、60年代、マルクス主義史学の困難に直面するにつれて、石母田もまた普遍的理論ではないものへ向かい始める研究史が描かれる。
面白いのは、ここで網野が津田の方にかなり肩入れしながら書いているという点。「きびしい現実との緊張関係の中からその史観をきたえ上げていった津田の姿勢」を見習い乗り越えたいとされる。「II 戦後の中世天皇制論」は戦後から本書が出る84年までの研究史概略が整理されていて、勉強になった。
天皇制が存続してきた事実に目を向けることの重要性から研究史を眺める。戦後の領主制論では農民と領主の封建制に注意が向けられ天皇が蚊帳の外におかれてしまった一方で、60年代の黒田の権門体制論は天皇に関する新たな論議を展開した。網野はこれを民衆の側から再構成しようとしているとも見える。
天皇を封建制の外部の瑣末なものとして扱うことで、逆に天皇制の根深さを見えづらくしてしまうというのが網野の基本的な方針のようだ。したがって、むしろ中世の封建制においてもなお天皇が置かれた必然性へと目を向けようとすることになるが、このあたりはマルクスの方針に近いとも言えそう。
2024年4月21日
第1部第1章「天皇の支配権と供御人・作手」を読んだ。網野以前の研究で偽文書とされたものを改めて真正なものとして扱うことで、組織化された供御人と天皇の関わりが鎌倉末期にはすでに現れてきていたことを示す論文。
後半部では、網野はそうした支配のあり方が自由交通の権利を付与するという形であったことを強調し、さらにその点から大地と海原という自然的本源的権利を支配するものとしての中世の天皇を示していく。前半の丹念な議論とは異なり、後半は大胆で驚くが、私のような外野的には後半部も面白い。
御厨や荘園というものが、そうした天皇との関係のなかで現れてきて、天皇も含めたエコノミーを形成していたということ自体も面白い。網野の議論からすれば、天皇というのは上に偶然的にくっついてくるようなものではなくて、社会構造全体との関係の中で必然的に要請されるようなものとしてある。
2024年5月11日
第1部第2章「中世文書に現われる「古代」の天皇」を読んだ。鎌倉期までの供御人文書と比較して、南北朝期以降における天皇の扱いの変化を論じる。室町期以降、伝説上の天皇が職人の由緒として取り上げられるようになっていく。こうした流れについて網野は、南北朝期以降の動乱のなかで自らを天皇との関係のなかで規定することで存続を図る職人組織のあり方を見出す。だが、近世への移行の中で、こうした自己規定の社会的な扱いが逆転し、迫害の対象としての身分を固定化することにも結びついてしまう。
読書会の中で、全体的に、論証のために挙げられている文書が、ほんとうに偽文書ではないのかどうかという点には疑問が残るということになった。
2024年6月9日
第1部第3章「中世前期の「散所」と給免田」を読んだ。先立つ研究では、被差別部落形成史のなかで、散所とは「中世賎民の基本的な存在形態」とされてきたが、この論文はこうした見方が鎌倉期などには当たらないことを論じている。
網野が挙げている文書によれば、散所召次や散所雑色などは、たしかに給免田などが与えられる特別な役職ではあったが、そうであったとしても差別の対象となるような身分ではなかったとされる。重要なことは、後の時代にこうした特権が転倒して被差別的な身分へと置き換わる点にある。
網野の議論のポイントは、差別というものが、人びとの文化的な面から生み出されたものというよりは、そうした特権を認める制度上の在り方から構造的な仕方で生み出されてきたものであるという点にあると読むことができる。
2024年6月25日
第2部第1章「海民の諸身分とその様相」を読んだ。中世の海民を「浪人・職人・下人・平民」という四カテゴリーに分類し、さまざまな方面から漁業に関わる人々が荘園や御厨に入り込み、天皇経済と関係を持っていたことを明らかにする章。
重要そうな指摘として、私たちは「百姓」と言うとすぐに農業に携わる人々を考えてしまうが、この時期における百姓のうちには海民も含まれているし、海民だからと言って土地を持っていなかったというわけでもないという。時代が下るにつれて少しずつ免田などに強く結びついた海民なども出てくる。
職人的な海民が特権を獲得していく重要な契機として、寛平や延喜の改革が重要であったという。これによって、贄人が制度的に整理されて、天皇との関係が強くなっていく。こうして免田が与えられ、荘園のうちで力を増していく海民もいた。だが、農業に完全にシフトしたというわけでもないという。
2024年7月31日
第2部第2章「若狭の海民」を読んだ。「浦」と呼ばれる土地の単位がどのような権門や国衙などとの関係で成立してくることを示した上で、浦が漁場としての共同体となっていく流れを描いた章。支配層と海民の相互性が重要になる。
13世紀半ばの若狭において「浦」の境(あるいはむしろ浦を臨む山の境)に関するさまざまな動揺と、それに伴う百姓たちの権利の明確化が生じる。その根本に網野は「生産力の発展」に伴って安定的な浦に生じた矛盾を考えるが、このあたりの記述はマルクス主義的であると見ることができそうだった。
漁場が成立するなかで、地縁的な共同体が成長していく。そこでは、同時に「漁場に対する個々の百姓の権利が次第に確立」していくことになる。だが、網野が即座に付け加えるように、こうした共同体は「支配者側の積極的な動き」のなかで出てくる。支配者に認められる限りでの「自治」という在り方。
2024年8月10日
第2部第3章「近江の海民」と第4章「宇治川の網代」を読んだ。神社と簗漁業の関係について論じられた第3章では、天皇の御厨子所に由来する簗場が、11世紀後半に神社の支配に入っていく。
こうしたことが13世紀以降の在地領主と神社の間の相論のなかで、改めて持ち出されることになる。文書が残っていない11世紀からの簗場支配について神社は偽文書を作成して、進退権を主張することになる。こうした主張を行わなければいけないこと自体が、神社の本源的権利の衰退を意味することになる。
網野は、堅田における特権についても同章で論じている。このように湖上特権を獲得すること自体を、本来有していたはずの本源的権利の限定として理解することができる。堅田は特権を認められることによって、権利を湖上に限定されるのである。
2024年8月23日
第5章「常陸・下総の海民」を読んだ。霞ヶ浦四十八津と呼ばれる津の自治組織と、そうしたなかから水戸側について安定をはかろうとする人びとの間の栄枯盛衰を描いた章。霞ヶ浦四十八津が共有の浦として使っていた場所を、そのうちの鈴木家が力を持ち水戸と繋がり「御留川」とすること(漁師の立ち入りを許さぬ水戸城主の領海とすること)を注進する。四十八津は最初、こうした動きに徹底的に抵抗していくのだが、少しずつ力が弱まっていくことになる。
1700年代に入ると一気に四十八津や鈴木家の力が弱まっていき、やがて、どちらにしても幕府が定めたことを取り締まるための官僚的組織へと変化していくことになる。自治組織ではなく、官僚組織として生き長らえることを選ぶが、結局は明治に入り津の存在は忘れ去られていくことになる。
2024年8月31日
第2部第6章「鵜飼と桂女」を読んだ。贄人として天皇と繋がっていた鵜飼が、鎌倉以降の殺生禁断のなかで衰退し、そうした鵜飼たちが桂女として資料上現れてくることを明らかにしようとした章。鵜飼と桂女が同一主体であるのかは怪しい。
桂供御人と松尾神人との相論では、桂供御人の刑部丞の妻と呼ばれる人が大胆不敵に振る舞い、武力を引き連れて国の役人を追い払っていた。だが、時代が下るにつれて、そうした女性たちは呪術的で穏便な性格へと押し込められていく。網野は、こうした流れに、天皇制と差別の関係を読み取ろうとしている。
2024年9月17日
第3部「鋳物師」第1章「中世初期の存在形態」を読んだ。平安から鎌倉にかけて、燈炉や大仏をつくるために鋳物師たちが組織化されていく。単に作るだけではなくて商人的な側面もあり、天皇や幕府から自由通行の特権を与えられてもいた。
網野が強調するのは、鋳物師が、特定の支配者や共同体に縛りつけられてはいない「自由」な商工民だったということである。その意味で、鋳物師は自分らの技術を「芸能」、生業を「道」と表現することもあった。だが天皇から特権を与えられ、職掌をもって天皇に奉仕してもいる点で「職人」でもある。
2024年10月5日
第3部第2章「中世中期の存在形態」を読んだ。もともと遍歴という性格を持っていた鋳物師たちが、関所の乱立とともに諸国往反の特権が揺らぎ定在するようになっていく。このことにより、守護や地頭との結びつきが強くなる。
一国的な鋳物師集団が形成されるなかで、血縁的な関係から地縁的な関係へと移行し、その土地とのつながりを示すような伝承が後から作り出されていくことになる。こうした権威づけの動きが、偽文書などを生み出す契機になっていく。次章ではこうした偽文書を扱うことになる。
---第3部第2章記録抜け---
2024年11月12日
終章「I「職人」について」を読んだ。網野善彦はしばしば、非農業民をすべて職人と見做したというように批判されたりするけれど、そうではないようだ。この箇所では、限られた史料から可能な限り他の語彙との差分や共通点を探っている。
佐藤進一が官庁業務についての「家産化」(家の財産にしていくこと)から生まれたのが「職」や「務」であるとしていたのを、網野は芸能や道々者にまで拡張して考えている。道や芸能や職といった概念が、中世社会の請負・世襲による家業や職能の家産化のなかに置かれているという仮説は興味深い。
2024年11月19日
終章II「「社会構成史的次元」と「民族史的次元」について」を読んだ。歴史区分を考えるさいに、生産諸関係、法律的・政治的制度に則して考える社会構成史的次元に対して、網野はもうひとつの歴史観として民俗史的次元を提唱する。
民族史的次元から歴史をみるさいに、中世における南北朝動乱期は、人々の習俗なども含めて大きな転換があった時期として時代の分割点となる。本書全体を通して見てきたように、こうした人々の習俗の変化は、天皇による権利の付与、そうした特権の差別への転化、などの問題と切り離すことができない。
以上。