「いろいろ、ありがとう、そしてよろしく」。これは、私を研究の道へと誘った橋本先生から届いた最後のメールの末尾に付された一言である。2017年4月、橋本先生は亡くなった。がんだった。私が修士課程に入学して半年くらい経った2015年の秋頃から、抗がん剤治療のために入院していた。まだそれほど悪くない頃、私も見舞いに赴いたことがある。最近の研究状況などを報告する私の話を、抗がん剤の副作用のためか、額に汗をにじませながら静かに聞いてくれていた姿を覚えている。いま改めて振り返ってみると、私の大学院での日々は、この「よろしく」という言葉に応えるためにあったとさえ思う。
私が後に執筆することになる博士論文の副題は「ライプニッツ哲学における有機体論と形而上学の相関的展開」というものであった。修士論文では、この副題に含まれる「有機体論」を中心的なテーマとして扱った。したがって、修士論文を準備する時点で、博士論文に直接つながる研究をすでに始めていたと言ってよい。周囲の院生たちを見ていると、卒業論文から博士論文に至るまで同一のテーマを掘り下げ続ける人もいれば、修士論文ののちに方向転換し異なる内容で博士論文を執筆する人もいる。私自身は、卒業論文で扱った主題をいったん脇に置き、「有機体論」を中心とするライプニッツ読解へと進むことになった。
どのような経緯でこの新たなテーマを選ぶことになったのだろうか。過去の記録を読み返してみると、どうやらここにも橋本先生の影響があったらしい。修士課程1年目の2015年初夏、ある学会の帰りに、橋本先生と町田さん——『初期ライプニッツの信仰と理性』の著者——に連れられて私はサイゼリヤにいた。私のメモにはそのとき橋本先生が語った次の言葉が記録されている——「若いライプニッツの〈化体〉に関する議論は1700年代の〈有機体論〉につながっているのかもしれない」。
その翌年4月、大阪大学で開催された日本ライプニッツ協会の春季大会で、私は生まれて初めての学会発表を行った。発表題目は「ライプニッツ哲学における二重化された有機体」というもので、個体としての有機体においてこそ、自然法則と自由の一致が実現されるのだという点を論じようとした。ところが、大きめの会場で登壇した私はすっかり緊張し、質疑応答ではまともに答えることができなかった。いまから振り返れば、発表内容も不十分な箇所だらけで、当時の私の認識としても、お世辞にもうまくいったとは言い難かった。もちろん、発表内容も質疑応答もある程度は慣れの問題であり、このような経験も無駄だとは思わない。
いずれにせよ、発表を終えた修士課程2年目の夏頃、私は修士論文のテーマを決定した。実際のところ、標準的な進度からすれば少し遅い。修士課程の標準修業年限は一般に2年であり、奨学金や授業料免除などの制度も、その年限を前提に整備されている。2年を越えると支援が乏しくなりやすい——もちろん例外も多いので、必要がある人は各制度を確認してほしい。したがって、多くの学生は2年で修士論文提出を目指すことになるし、私もそのひとりであった。
結局、その年は修士論文を提出することができなかった。全体の三分の二を書き上げたところで、なお読まなければならないテクストが溢れていた。提出日を過ぎてから、指導教員の鈴木先生に提出できなかった旨を連絡し、ひとまず書き上げたところまでの草稿を送付した。
修士課程2年目までは奨学金とアルバイト収入があり、さらに授業料も全額免除されていたので、何とかやりくりできていた。ところが3年目になると授業料免除の申請も難しくなり、奨学金も打ち切られた。私はいくつかのアルバイト——朝5時からパン屋で働き、午後は別のアルバイトをしていた——をかけ持ちしながら、修士論文を書き進めることとなった。
2017年4月の夕方、千駄木でのアルバイトを終えて大学へ歩いて向かっていたとき、一通のメールが届いた。橋本先生の訃報だった。しばらく立ち尽くしたあと、ふと顔を上げると、小学校の傍らに植えられた桜が夕日に照らされ、散り始めていた。もう長いこと橋本先生には会っていなかったし、送ったメールの返事も届かなくなっていた。前年に修士論文を書き上げていれば、少しくらいは読んでもらうこともできていたかもしれない。そんなことを考えながら、ゆっくりと大学までの道を歩いたことを覚えている。
その年の12月、私は8万字程度の修士論文「後期ライプニッツにおける有機的物体とその機構」を書き上げ、提出した。3年目ということもあり、比較的早い段階で草稿を整えることができたので、何人かの知人に読んでもらう時間も確保できた。卒業論文のときもそうだったが、今回もやはり、これだけの長さの文章を執筆するのは初めての経験だった。コメントを参考にしながら言い回しを直し、説明の順序を入れ替え、足りない部分を補って、何とか完成させることができた。
「いろいろ、ありがとう、そしてよろしく」という橋本先生の言葉を、私は繰り返し思い出す。「有機体論」というテーマも、橋本先生から教えられたものだった。あの修士論文は、そのようにして残された課題に対する私なりの回答であり、そして相変わらず不十分な回答でもあった。ライプニッツの有機体論の内実をある程度まで明らかにしたとはいえ、なぜライプニッツ自身が有機体論を論じなければならなかったのか、その真意までは読み解けないままにとどまった。課題は山積みのままだった。
こうして翌年4月、私は博士課程に進学することになる。研究の道を歩み続けることは、自分自身に課したある種の義務のようなものだったといえる。それは今でも変わらない。哲学はたしかに面白い。だがそれ以上に私にとっては周囲の人々から託された「やるべきこと」のひとつなのだ。
(続く)