わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

研究

デカルト『方法序説』の一般向け講義のご案内(2024年4月14日〜)

大学でも行っているデカルトに関する講義を、初学者の方を含む一般向け講義として、より時間をかけて、より詳細な内容で開講いたします。今回みなさんと一緒に読み進めるメインテクストは、同時代の書籍のなかでも最も有名であろう『方法序説』という著作で…

『モナドロジー』第33–35節に関する些細な(しかし重大な)事実

ライプニッツは『モナドロジー』§ 33 *1において、「思考〔推論〕の真理」と「事実の真理」という二種類の真理を提示している。「シーザーがルビコン河を渡った」および「ルビコン河を渡らなかった」という命題は、現に存在するシーザーに関して言われるよう…

日本ライプニッツ協会第10回大会と『ライプニッツ研究 Studia Leibnitiana Japonica』第5号との紹介

日本ライプニッツ協会第10回大会 2018年11月10日から11日にかけて、石川県金沢市にある石川四高記念文化交流館にて日本ライプニッツ協会第10回大会が開催されました。ちょうど紅葉が美しい季節であり、会場前にある公園でも木々がそれぞれの色に染まっていて…

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第5章より

彼は葡萄の房をつけた葡萄の樹に似ている。葡萄の樹はひとたび自分の実を結んでしまえば、それ以上なんら求むるところはない。

フランシス・ベーコン『ノヴム・オルガヌム』の企て

諸学の現状について、それが恵まれていず、大きく前進していないこと、そして精神が自然界に対して自己の権能を行使しうるためには、以前に知られていたとは、全く別の道が人間の知性に開かれねばならず、かつ別の補助手段が用意されねばならないこと。

アリストテレス『形而上学』と現実的なものの捉え難さ

M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』第4章「アリストテレスのアナロジーの論理」(高田訳)において、アリストテレスがどのように「現実態(エネルゲイア)」を定義しようとしたのかが取り上げられている。というのも、まさにその際に使用されたものがア…

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第4章より(その2)

波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲には水のうねりはしずかにやすらう。

三木清「哲学はどう学んでゆくか」後半

諸君がもし自然科学の学徒であるならその自然科学を、またもし社会科学の学徒であるならその社会科学を、更にもし歴史の研究者であるならその歴史学を、或いはもし芸術の愛好者であるならその芸術を手懸りにして、そこに出会う問題を捉えて、哲学を勉強して…

三木清「哲学はどう学んでゆくか」前半

「哲学ってどうやって勉強したらいいの?」という質問によく出会う。よく言われるように、哲学には生物学や物理学などのようにスタンダードな教科書なるものが存在しない。これを一冊読めばとりあえず大丈夫みたいなものがないのである。一方で倫理学分野の…

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第4章より

今日は『自省録』第4章の比喩を見てみようと思う。章ごとに特徴があるということでもないと思うのだが、全12章の『自省録』を比喩に着目しつつのんびり読んでみようという気持ちである。第4章には方向性の異なるいくつかの比喩が登場する。 第1節:人間の内…

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第3章より

穀物の穂がしだれているのや、獅子の額の皮や、野猪の口から流れ出る泡や、その他多くのものは、これを一つ一つ切りはなしてみればとうてい美しくはないが、自然の働きの結果であるために、ものを美化するに役立ち、心を惹くのである

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第2章より

なぜなら私たちは協力するために生まれついたのであって、たとえば両足や、両手や、両目蓋や上下の歯列の場合と同様である。それゆえに互いに邪魔し合うのは自然に反することである。

エピクテートスが哲学に求めたこと

哲学の始めを見るがいい、それは人間相互における矛盾の認識であり、矛盾の出て来る根源の探求であり、単に思われるということに対する非難と不振であり、また思われるということについて、それが正しいかどうかの何か研究であり、また例えば重量の場合に、…

M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』:アナロジーの種類

昨日も書いた、M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』の「実質的アナロジー」の章において、いくつかのアナロジーの型が紹介されている。アナロジーと一口に言っても、はっきりと定義されているのではないがゆえに、様々な型が存在している。今回はそれを書…

M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』:観測不可能への歩み

科学の理論というものが, 経験的なデータに「説明」を与えるためのものであるならば, その理論を何らかのモデルを用いて理解する必要があるだろうか. あるいは, その理論を馴染みの対象や出来事とのアナロジーによって理解する必要があるだろうか. これは、M…

タイムトラベルな文章

なお、このあと、提喩の定義についてはいくらか込みいった検討に立ち入ることとなるので、わずらわしい定義問題などに関心のない向きは、ここから一五六ページまで飛ばして読んでくださってもさしつかえはない。

坂本賢三『機械の現象学』:「機械」とは何か、そして近代の知識とは何か。

科学の方が機械をモデルにしてつくり出されたといってよく、機械は科学的方法の根拠であるといってもよいのである。したがって、自然的見方の出発点である機械が哲学的分析から離れたところにあり、哲学的考察をいわば拒否しているかのごとき姿をとっている…

高橋澪子『心の科学史』の序説に関する覚書

心理学が一実験科学ないし個別科学として制度的に確立されるのは、周知の通り、いまから一世紀あまり前のことである。しかし、厳密な意味における近代科学としての実験心理学の論理が成立するためには、さらに半世紀近くを経て、一九三〇年代末に完成する「…

宇宙は一匹の生き物だという考え方

宇宙はひとつの生き物で、一つの物質と一つの魂を備えたものである、ということに絶えず思いをひそめよ。またいかにすべてが宇宙のただ一つ感性に帰するのか、いかに宇宙がすべてをただ一つの衝動から行うか、いかにすべてがすべて生起することの共通の原因…

意識とモナドに関する覚書Ⅱ

ライプニッツの『認識、心理、観念についての省察 Meditationes de Cognitione, Veritate et Ideis. 1984』(GP IV, 422–426)という著作は、認識が曖昧であるとか判明であるとかについて定義付けを行っていることで有名である。 簡単に整理すると、まず認識…

形式と発見法-『思考のための文章読本』に関して

花村太郎『思考のための文章読本』(ちくま学芸文庫)というのを最近読んだので忘れないうちに感想を書いておこうと思う。 思考のための文章読本 (ちくま学芸文庫) 作者: 花村太郎 出版社/メーカー: 筑摩書房 発売日: 2016/09/07 メディア: 文庫 この商品を…

意識とモナドに関する覚書

昨日、研究室の先輩に頂いた質問についてしばらく考えていた。その質問は、私が理解した限りでは「意識とモナド(の表象)は区別されるのか」ということである。その場では変な答えをしてしまったように思うし、実はとても重要な問題をはらんでいるような気…