今日は『自省録』第4章の比喩を見てみようと思う。章ごとに特徴があるということでもないと思うのだが、全12章の『自省録』を比喩に着目しつつのんびり読んでみようという気持ちである。第4章には方向性の異なるいくつかの比喩が登場する。
第1節:人間の内なる主と呼ばれるものを、「火」に喩えている。
小さな灯ならば、これに消されてしまうであろうが、炎々と燃える火は、持ち込まれたものを忽ち自分のものに同化して焼きつくし、投げ入れられたものによって一層高く躍り上がるのである。
(マルクス・アウレリウス『自省録』神谷訳)
人間の内なる主が自然に従っているのであれば、この「炎々と燃える火」のように他のものに適合していくというのである。人間のうちなる主が、どれだけ火と類比的に語られているのかが気になるところだ。つまり、火は「他のものを取り込む」というだけではなく、「熱い」とか「ゆらめく」とかさまざまな性質を有しているわけだが、そのうちの全ての性質が人間の内なる主と同じであるとは考えづらいということである。
第3、4節:宇宙と国家の類比
また宇宙は国家に似たものであるということがどれだけ多くの事実によって証明されているかを思い起こすがよい。 (同、第3節)
もし叡智が我々に共通のものならば、我々を理性的動物となすところの理性もまた共通のものである。であるならば、我々になすべきこと、なしてはならぬことを命令する理性もまた共通である。であるならば、法律もまた共通である。であるならば、我々は同市民である。であるならば、我々は共に或る共通の政体に属している。であるならば、宇宙は国家のようなものだ。 (同、第4節)
宇宙は生き物であるということを考えるならば、人間身体もまた国家に似たものであり、人間=宇宙=国家という類比関係が存在しているようにも思われる。ただし、この類比を成り立たせる類似性が、どれほど推移性(人間=宇宙、宇宙=国家という前提から人間=国家を導き出すようなこと)を有しているかは疑問である。
第6節:イチジクの比喩
このような人々であってみれば、彼らの手で自然にこういうことが起こるのは止むをえぬ話である。これをいやだというのは、無花果が酸っぱい汁を持っていなければよい、というのと同様である。(同)
どうやら無花果という果物は古代ローマではありふれたものだったようである。無花果が酸っぱい汁を持っているってどういうことなのか、私はよくわかっていない。誰か知っていたら教えて欲しいところ。
第15節:香の粒の比喩
沢山の香の粒が同じ祭壇の上に投げられる。或るものは先に落ち、或るものは後に落ちる。しかしそれはどうでもよいことだ。 (同)
この話は、前節の話から続いている。前節では全体の一部として存在し、自分を産んだものの中に消え去っていくということが語られる。その一部であるということは、それぞれさまざまな境遇に置かれるということであるが、どうなろうが「どうでもよいことだ」とマルクスはいう。個人というものは全然重視されていないように思われる。でも、重視されていない個人は、それでも個人ではあるわけで、そういうものの在り方を考えるのは面白いことだと私なんかは思うのである。
第44節:日常茶飯事なものを表す比喩
あらゆる出来事はあたかも春の薔薇、夏の果実のごとく日常茶飯事であり、なじみ深いことなのだ。 (同)
これは非常に美しい比喩である。しかし表現している内容は不思議なことを言っているように思う。どんなに新しいように思われる出来事も結局日常茶飯事なのだとマルクスは考えている。例えば第36節では、「宇宙の自然は現在あるものを変化させ、同じものを新しく作り出すことを何よりも好む……現在存在するものは全て将来それから生ずるであろうものの種子なのである」と述べている。ここには、変化というものに対する独特な考え方を見ることができる。「同じものを新しく作り出す」ということは、同じものでありながら、その相貌を変化させるということであろう。だから、それぞれが種子のように未来のことを含んでいて、少しずつ展開していくということになる。「日常茶飯事」とか「なじみ深い」ということの意味が問題であろう。一体何を表現しているのか。今述べたような他の箇所のことを考えるのであれば、「普通の流れである」というくらいの意味で考えるのがよいのかもしれない。あらゆる出来事は、種子のようにすで含まれていたからこそ、「春の薔薇」や「夏の果実」のように、毎年当然のように生じてくるのである。
『自省録』第4章にはもう一つ素晴らしい比喩があるのだが、少し長くなってしまったので、次の記事で書くことにしよう。