わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

自然の秩序と人間の秩序

2018年1月30日のツイートを見返していたら——記憶にはないのだけど——私はクラーゲスの『リズムの本質』を読んでいたようで、次の一節を引用していた。

人間あるいは人間の精神がはじめて形のない塊から直観像の世界をでっちあげるのだ、と人間に教えこんだのはどんな高慢ちきやろうか。現象世界——すなわち、多義的な外来語を選ぶなら、自然——は、宇宙のもっともはるかな星雲塊やうずまき星雲から、極微のバクテリアあるいは滴虫にいたるまで、つねにすみずみまで形のととのった姿をしている。そして、それを混乱させ、攪乱させ、ときどきはおそらくまったくの「混沌」状態に陥らせる仕事が人間のためにのみ残されていた!この真理がわからなかったとはいよいよ恥ずべきことである(クラーゲス『リズムの本質』第二章「拍子の仮現性」杉浦實訳)

世の人々は、世界がのっぺらぼうな塊でしかなく、我々人間がそこに秩序を持ち込んで形あるものとして認識するのだと考えている。そんな教えを説くあいつに、クラーゲスは「高慢ちきやろう」という盛大な言葉をお見舞いする。彼曰く、宇宙のはるか向こうから地球の小さなバクテリアたちに至るまで、人間がそこに居るかどうかにかかわらず、最初から秩序だった仕方で存在しているのである。人間に残された仕事とは、そうした秩序を混乱させ撹乱させ、混沌にさえ陥らせることである。

創造とは、そもそも神にのみ許された奇蹟のようなものであった。0であるところから1なるものを、不在から存在を、単なる可能性から現実性を、あらゆる創造はトンデモナイ飛躍を抱えているのである。

では、創造されたもののひとつに過ぎない人間が何かを作り出すことはどのように理解するべきなのか。事実、人間はさまざまな道具を、機械を、社会を、文化を、芸術を作り出してきたし、今日もどこかで何かが生まれているだろう。そうした場面に存する、生み出す行為と生み出されたもの、とは何であるのか。クラーゲスが先の引用で述べていたのは、それが秩序を乱す行為であり、ある種の混沌状態こそが作り出されたものだということである。

自然の賛美。自然こそが秩序であり、自然へと私たちを適合させることがより良く作ることであると述べること、アリストテレスから二十世紀に至るまで、あるいは二一世紀においてさえ、そのような思想がのっぺり拡がっている。私もまた自然の美しさを信じてはいる。畏るべき整合性によって支配された世界に私もまた翻弄されている。

だが同時に、私もまた、人間もまた自然の一部であり、自然本性を備えた存在であることを思い出さずにはいられない。人間と自然との間に確固とした境界線がないのと同様に、人間の作り出すものと自然の作り出すものと間にも境界線はないのではないか。言い換えれば、私たちが何かを作ることは自然の秩序の撹乱などではなくて、自然の秩序そのものなのではないか。

魚が泳ぐことに適した流線形をしていること、鳥が飛ぶのに適した形をしていること、それが自然の秩序というものである。そして、人間は何かを作ることに適した形をしている、これもまたひとつの秩序であって、それ以上でも以下でもない。

思考は繰り返す。それでもやはり、人間が何かを作り出すものは、自然の秩序以上の何かなのではないか。いやいや自然の秩序を混乱させているにすぎない。うーん、でも結局自然と人間はひとつなのである。ひとつ答えが与えられてもなお、この反復へと導くものは何なのだろうか。それが人間の自然本性なのか。