わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

朝起きられない人のために

だいぶ寒くなってきた。起床の際も心地よい布団の中から一歩でも外に出ようものなら、冷たい空気にまとわり付かれ、静かに震えることになる。私なんかは、できることなら布団の中で1日過ごしたいと思いながら日々を暮らしている。布団の中で1日過ごしながら、いろいろな活動ができれば最高なのだが、そうもいかないのがもどかしい。

ところで、マルクス・アウレリウスが『自省録』の中で、起きれない人のためのアドバイスのようなものを書いてくれている。

 明けがたに起きにくいときには、次の思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果たすために私は起きるのだ。」自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。それとも自分という人間は夜具の中に潜り込んで身を温めているために創られたのか。「だってこのほうが心地よいもの。」では君は心地よい思いをするために生まれたのか、いったい全体君は物事を受け身に経験するために生まれたのか、それとも行動するために生まれたのか。小さな草木や小鳥や蟻や蜘蛛や蜜蜂までがおのがつとめにいそしみ、それぞれ自己の分を果たして宇宙の秩序を形作っているのを見ないのか。

マルクス・アウレリウス神谷美恵子訳『自省録』岩波文庫, 1956, p. 62.

マルクスの言葉はいつでも強い。「人間のつとめ」の存在を信じているものには、起きることにためらいなんてないのかもしれない。多くの人にとっては「やるべきこと」を知ることの方に困難があって、なすべき人間のつとめを明確に持つことは難しい。少なくとも、今心地よいということは確実なのだから、そちらを選択するのも悪くないのではないかと、そっと思ったりするのだ。

それでも、「休息をしてはならない」わけではない。それには限度があるということなのだ。なるほどたしかに、過度な食事や飲酒や運動は心地よいものではない。心地よいものは過ぎればやがて苦痛になる。「ところが君はその限度を超え、適度を過すのだ。しかも行動においてはそうではなく、できるだけのことをしていない」。寝ることは限度を超えてでもするのに、やるべきことはできる限りのことをしようとしていない。なんとも耳に痛い話である。

そして、マルクスはこのように自分の分を果たさない人々は、結局自分自身を愛していないのだという。

結局君は自分自身を愛していないのだ。もしそうでなかったらば君はきっと自己の(内なる)自然とその意思を愛したであろう。他の人は自分の技術を愛してこれに要する労力のために身をすりきらし、入浴も食事も忘れている。

同書 p. 62–63.

自分を愛することは、自分の技術を愛することとは違うかもしれない。それでも、その技術を磨くことが自分のやるべきことだと信じた人々にとっては、まさに技術を愛することは自身の自然を愛することでもあるのだろう。寝ることが自身の役目だと思う人はきっといつまでも寝ていても良いのだ。しかし、マルクスはその寝ることの「受け身な姿勢」を批判している。行動するために生まれてきたのだろうと。

自身の自然が世界の自然と調和するということは、世界のうちで自身の自然の役割を決定することでもある。その役割のために朝起きなくてはならない。ただし結局、私たちは何をするべきなのか、その確固たる部分を見つけるために苦労したりするのだろう。あらゆることはやるべきことに見え、あらゆることはどうでもよくも見えてくる。何を選べば良いのだろうか。だれもそれを教えてくれない。