わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

米虫正巳『自然の哲学史』読書会の記録

2021年7月2日から10月2日にかけて全9回でおこなった米虫正巳『自然の哲学史』(講談社選書メチエ読書会のメモです。特に後半の、現代においていかなる自然哲学が可能なのか、という問いのもとに紹介されるシモンドンとドゥルーズの哲学は勉強になった。

プロローグ

本書で取り上げることになる「自然のイメージ」
a) 自然と人為の区分を前提とした自然のイメージ
b) 一なる全体としての自然のイメージ:自然を無秩序や混乱として見ることも可能
→ 「哲学は自然を思考しなければならないが、それを自然に思考できるわけではない。哲学が自然(Nature)を正しく思考するということは、自然に行われることではなく、むしろ自然を思考し損なうように仕向ける自然=本性(nature)に逆らって、言わば半自然的に行われなければならないのである」(6–7)。

第一部 〈自然〉と〈人為〉:古代から一七世紀へ

第一章 古代ギリシア哲学の自然と人為(1)——プラトンの場合

「自然が技術の起源であるというよりは、むしろ技術の方が自然の起源であり、自然が技術に先立つというよりは、むしろ技術の方が先立つ」(26)
→ さらに、プラトンにとっては自然と技術という対立自体が妥当性を失っている。自然は技術的で、技術は先なるものである限り自然的なものである。

第二章 古代ギリシア哲学の自然と人為(2)——アリストテレスの場合

技術は自然に対して、対等な地位をもつのではい、ある種の模倣であり二次的従属物
自然と技術の差異は、自身の変化の原理をうちに含み込んでいるかどうか。こうした区別は、各著作のなかで一貫して示されている。アムランからの引用「言い換えれば、それがどんな自発性も欠いているという劣等生によって自然的存在から区別される」(37)。

第三章 古代ローマ期から中世までの自然/技術

プラトン的立場とアリストテレス的立場がもつれ合う仕方で、各哲学者たちの思考の中に入り込んでいる。

第四章 自然の逆説——フラシンス・ベーコンと自然/技術の問題(1)
第五章 非自然的なものの自然性——フランシス・ベーコンと自然/技術の問題(2)
第六章 デカルトライプニッツ、そしてスピノザ——ベーコンの反復者たち?
第七章 自然/人為という区分の手前で

第二部 問い直される自然/人為と〈一なる全体〉という自然の浮上:狭間としての十八世紀

第一章 ディドロの技術論——十八世紀における自然と人為(1)

(1)ディドロはベーコンの技術論を高く評価しており、同様に、自然と技術の二分法を退けようとしていた。(2)ディドロのテクストには技術を二次的なものと見做すようなものも存在するが、よく読むと「むしろ技術が自然を自然として完成させるということも起こり得る」[104] ということを主張している。そしてシモンドンは十八世紀の科学の進展が「技術者たちに楽観的な大胆さと連続的な進歩への信頼をもたらした」[107] と診断する。

第二章 ルソーにおける自然と技術——十八世紀における自然と人為(2)

(1)ルソーは一般的に自然と人為の対立を主張している。(2)しかし、デリダのルソー解釈によれば、ルソーは、パロール(自然的)を一次的、エクリチュール(人為的)を二次的なものとして主張しながら、意図せず両者の区分の妥当性を掘り崩してしまっていた。(3)さらに、ルソーは積極的に技術が自然の一部、あるいは自然は技術の一部であることを主張している。「技術が生まれるのは、人間とその自然環境というこれら二つの自然の間の遭遇からである」[Rousseauによる, 116]. 

第三章 アリストテレス再考

(1)プラトンアリストテレスの対立は本当に存在するのか。(2)アリストテレスの有名な文言の全体「一般に、一方で技術は自然が行うことのできないことを成し遂げ、他方で技術は自然を模倣する」。自然の模倣は不完全な自然を補完するために行われるという点で、「アリステレス的な二次的な自然」という観念は作り上げられたものにすぎない。(3)哲学とは、ギリシア以来、常識的な〈自然のイメージ〉との戦いの歴史であり、哲学内部にも入り込んでくる〈自然のイメージ〉への抵抗の歴史でもある。

第四章 〈一なる全体〉としての自然(1)——ディドロダランベールの夢』

(1)ディドロは〈一なる全体〉としての自然という観念を提示する。(2)こうした自然は妥当なものなのか、モーペルテュイは世界霊魂を認めることで無神論に陥ることを指摘する。しかしディドロは〈一なる全体〉としての自然という選択肢を取る。このことは個体化の原理に関する問題を引き起こす。これもまた不合理な〈自然のイメージ〉なのである。

第五章 〈一なる全体〉としての自然(2)——前批判期のカント哲学

概要:生気論(ディドロ)にせよ機械論(カント)にせよ〈一なる全体〉としての自然という観念に至る。自然/人為という区別とは異なるものが、十八世紀に登場してくる。

第三部 〈一なる全体〉ならぬ〈自然〉:再び十七世紀から十九世紀へ

第一章 「神すなわち自然」——スピノザと自然の問題

(1)ニーチェスピノザは、表面上対立しているが、自然のうちに秩序や善悪といったものが存在しない(非実在論)という点で同じ。(2)スピノザにとって自然は〈一〉でも〈全体〉でもない。たしかに所産的自然においては自然は全体であるとされるが、能産的自然としてみる限り、それは実体として部分を持たず、それゆえに全体でもあり得ない。(3)また、スピノザにとって能産的自然としての神は一性をもつが、その内実をみるならば、その本質について〈一〉ということはできないとされる。こうして神=自然は〈一〉でもない。従って、スピノザは〈一なる全体〉としての自然という自然のイメージをすでに批判していた。

第二章 〈一なる全体〉としての自然を語らないこと——カント批判哲学

(1)カントは自然を「質料的に見られた自然」と「形相的に見られた自然」とに区別する。『天界の一般自然史と理論』において〈一なる全体〉として質料的自然が肯定されていたが、批判期においてはどうだろうか。(2)批判期カントは、質料的自然について論じるとしても、それを「我々の内なる諸表象の総体」として理解し、その総体としての統一は形相的な自然によって与えられるものでしかない。こうして、質料的自然はそれ自体として、独立に存在するものでも〈一なる全体〉としてのものでもあり得ない。(3)1755年の『天界の一般的自然史の理論』と批判期のカントの違いは、フーコーの古典主義時代と近代の区別に対応するのだろうか。

第三章 十八世紀に哲学史的断絶は存在したのか

(1)フーコーによれば、近代のエピステーメーでは自然は生物学の対象としての生命に吸収され問題にならなくなってしまう。しかし、「言語学・生物学・経済学」という恣意的な三つ組で自然をめぐる哲学史を考えてよいのだろうか。(2)〈一なる全体〉としての自然に対する抵抗は、カント以前のヒュームにも見出すことができる。(3)フーコーはヒュームにも言及しつつ、それでも批判的問いの一般化はカントによってであることを強調する。だが、一般化ということは逆にヒュームとカントの間の連続性を認めることでもあるはずだとして、米虫は古典主義と近代の間に自然概念に関して断絶はなかったとする。

第四章 〈一なる全体〉としての自然の復興?——カント以後

(1)シェリングの自然哲学においては、自然はそれ自体活動性をもつ主体であり、我々自身の精神も含めて全て自然的な有機体として自己組織化してゆくものとして捉えられている。こうした見方はカント『判断力批判』にも由来するものであり、自然目的によって自己組織化する諸表象の総体を越える(第一批判とは異なる)存在としての自然をカントは提示していた。(2)ただし、カントの有機的自然は〈一なる全体〉として客観的実在まで含意されているわけではない。これに対してシェリングは、「自然を〈我々が知る〉のではなく、自然がアプリオリに〈在る〉」(204–5)とまで言う。ヘーゲルは、「自然はむしろ解消されない矛盾」(206)だと主張することでそれ自体では〈一なる全体〉ではなく、精神へと移行することで〈一なる全体〉がありうると考える。シェリングもまた、一なる全体としてのみ自然を見ていたわけではなくて、それをカオスに結びつけてもいる。

第五章 「カオスすなわち自然」——一つの到達点としてのニーチェ

(1)ニーチェは自然の脱人間化/人間の自然化を目指した。(2)脱人間化された自然は「カオスすなわち自然」と呼ばれる。自然を人間的な見方(機械である、生物である)や、人間的価値から切り離す。そしてこうした自然を人間の側にも適用することにニーチェの核心がある。一なる全体という観念も同時に粉砕される。そもそも自然は〈一なる全体〉として在ったことはなく、カオスとしてのみ存在してきたものである。これこそ思考すべき自然なのである。

幕間 いかに自然を思考するか——デリダという事例

(1)デリダによれば、代補の概念で自然を理解するならば、自然は常に欠如と過剰を抱えており、そうした欠如や過剰の終わりのない解消のなかで自然が捉え返される。自然はそうした非自然的なものを付け加えた取り去ったりすることでのみ自然であり続けるのであり、その意味では代補そのものであると言える。こうした代補は、自然と人為の区別に先立つ根源的な〈自然〉として理解することができる。(2)また〈一なる全体〉としての自然の観念もまた、デリダマルクスの亡霊たち』で言われるような「一以上」の概念から理解するならば、存在することは常に「一以上」および「一未満」であり排中律が妥当しないし、全体が全体として成立するためには代補が必要であるが、常に非全体が要請されるという意味で全体もまた不可能である。結局、〈一なる全体〉としての自然はあり得ず、むしろそれは「差延としての=差延における自然」として理解されなければならない。

第四部 自然かつ人為としての非人間的な〈自然〉——二〇世紀以降の自然のあり方

第一章 生命と技術——ベルクソンとカンギレム

〈自然〉をめぐって現代とそれ以前にどのような歴史的変化があったのか。(1)ベルクソンにとって非有機的道具の製作は知性の能力であり、生命の進化によって人間に与えられた「生物の業=技量」によって可能になる。(2)カンギレムは技術は科学に還元不可能であることを強調し、その根を生命の活動の内に見出そうとする。対して科学は技術を事後的にのみ捉え、科学によって人間は生命から分離される(科学による生命への立ち返りもやはり事後的なものとなる)。

第二章 〈自然かつ人為〉としての自然

(1)カンギレムは技術と生命の間に連続性を認め、それが科学によって断絶されることもあるという見方をとる。ベルクソンの場合、技術を知性に由来させることで生命の運動に逆らうものとしてしまう。(2)『道徳と宗教の二源泉』においてベルクソンは科学から切り離された意味での道具の発明・製作を論じる。他方で、カンギレムの方は技術もまた生命との分断を含み、科学は生命への接近が可能なのではないかと考えを改める。つまり、技術とは生命に逆らうものであり、同時に生命と連続的なものである。問題は「生命かつ技術」ということ。

第三章 哲学に追いついた歴史

(1)「自然かつ技術(人為)」ということが問題になり得たのは「自然」概念の変容があったからではないか。十九世紀末までの間に見出されるのは、物理–化学的次元における人為との連続性であった。(2)タルドもまた自然かつ人為としての〈自然〉を描いてはいたが、しかしSFとしてであり、未だ見ぬものとしてそれを描いたにすぎなかった。(3)そうした〈自然〉が現実のものとして現れてくるのは、ベルクソンとカンギレムの間の時代、分子生物学革命とその後の生命科学の進展において(1956–1966)であるとされる。その時期において技術的対象は独立したものとしてではなく、技術に科学が浸透しそれ自体で自律的なものとして人為と自然の区別を不明確なものとする。自然をめぐる現実が哲学に追いついた。

第四章 非人間的な〈自然〉——コペルニクス的転回を越えて

(1)カント哲学は「経験の可能性」を「対象の可能性」と同一視することを前提としている。(2)〈人間学〉のまどろみに由来するこうした事態を脱し、自然が非人間的なものであることが二〇世紀半ばには明らかになった。自然を非人間化することで、人間自身もまた問い直されることになる。

第五部 現代的な自然哲学の条件:シモンドンと自然哲学の可能性

第一章 現代における自然哲学の条件

(1)サン=セルナンによって現代自然哲学の三条件、すなわち「自然の非–飽和」「物理–化学的次元だけでなく生物学的次元にまで延長されたこと」「「技術圏」を作り上げ、「生命圏」を変様させている」。(2)シモンドンの個体化論の特徴:個体化プロセス優先、前–個体的存在の措定、前–個体的存在からの個体化、個体化の継起としての内的共鳴(形を与える出来事=情報によって生じる)、個体はいつでも途上にある。

第二章 前–個体的存在と個体化

(1)前–個体的存在は潜在的ではあるが、同時に実在的なものであり、準安定的なものとして齟齬状態とその解消によって個体化が生じる。(2)技術論は個体化論を前提としている。技術論における前–個体的存在にあたるものは〈人間と世界〉からなるシステムといえる。機械は人間と世界の媒介として位置づけられており、相互個体化が生じることとなる。

第三章 シモンドンと自然の概念

(1)シモンドンの哲学は現代的な自然哲学に適合するものであるか。技術論の文脈における「世界」は「自然」と言い換えることができ、この線でサン=セルナンの議論をシモンドンの技術論は先取りしていた。(2)技術的対象の媒介によって働きかけられる自然とは異なる、前–個体的存在としての自然について。同一性も一性も持たない、個体化が生じる場でありながら個体に残留し続ける自然。(3)自然は常に個体化の余地を残すという意味では「非–飽和」でありながら、個体化につぐ個体化をするという意味では「過飽和」である(サン=セルナン以上の議論がある?)。そういう自然概念がシモンドンによって提示されている。

第四章 〈一〉以上のものとしての自然

(1)技術論と個体化論を合わせて考えてみると、自然は、前–個体的存在としての〈人間と世界から成る集合〉に先立つものであり、非同一的な関係概念として〈一〉以上のものとしてあるようなもの。(2)自然から考えるということでシモンドンは客観主義を意図しているのではなく、むしろ「超–客観主義(transobjectivisme)」であり、主観や客観が発生してくる次元に存する自然概念を考えようとしている。(3)現代にふさわしい自然哲学をシモンドンにみることができるが、これはサン=セルナンが擁護するような自然神学を伴うものではない(自然神学を含む自然哲学者としてのホワイトヘッド)。〈自然神学なき自然哲学〉としてのシモンドン。

第六部 来たるべき自然哲学のために:ドゥルーズと共に〈自然〉を思考する

第一章 自然概念の第一の局面——〈自然/人間〉以前の「機械」

(1)シモンドンの自然概念は不十分なものであった。前–個体的存在それ自体の把握できなさに関する疑問を置いても、自然は非–全体でありながら全体であるというような曖昧さあがること、さらには「人間の自然化」を強調しながら「現代の人間主義」の意義を両立させようとする逆説。こうした曖昧さを除いて自然哲学を徹底した哲学者としてドゥルーズをみる。(2)ドゥルーズは存在する全てが「機械」であり、自然と人間の間にもいかなる本性的差異も認めない。このとき「機械」とはどこまでも続く「様々な切断と流れ」によってことを行うものであり、独立した要素の間の反復的コミュニケーションによって一体化しているようなものである。このような機械が、機械か生物かという二者択一以前に置かれている。さらにこうした機械は、生物こそ本来の意味で妥当するものとして語られる。それは、自己形成かつ作動であるようなものが先立ち、単なる作動であるような非生物は二次的なものだからである。この意味で、物質的世界と生命的世界は対立しない。(3)ドゥルーズにおいて、人間は機械とのコミュニケーションによって、人間もまたその部分機械となる集合が形成するのであり、これはシモンドン的な「人間が機械と機械の間にオルガナイザーとして介入する」という事態と共通している。こうした絡み合いによって、あらゆるものが他のものとのコミュニケーションによって一体化して相互にポテンシャルを引き出し合う可能性を有する。こうして機械こそが現実的なものの一義性を構成する。(4)こうした〈自然/人間〉の二分法への批判は、ドゥルーズ最初の著作『経験論と主体性』(1953)の頃から見ることができる。ヒュームにおける人間本性の議論を通して、自然的なものと人為的なものの対立の非本質性を明らかにしている。

第二章 自然概念の第二の局面——〈一〉でも〈全体〉でもない「機械圏」

(1)生産する諸機械の連結するプロセスが「自然」と呼ばれている。そうした諸部分は一つの全体にはまとまらない総和として作動するのであり、全体性は諸部分に対して常に外から付け加わるものとして与えられる。(2)〈一〉と〈全体〉の拒否に関しては、ガタリとの共同作業以前にも見ることができる。『意味の論理学』(1969)では、〈一〉でも〈全体〉でもない〈自然〉が「と」という接続によって表現されることが示される。またドゥルーズ自然主義は人為/自然への批判を含意している。(3)アジャンスマンという概念が『千のプラトー』において導入される。共立するものの配置によって文化や時代さえも構築されるのであり、ここに「普遍的機械主義」を設立するのである。ここには超越的なものないという意味で、内在平面的な機械圏による哲学が考えられている。

第三章 〈自然〉のカテゴリーの提示としての自然哲学
エピローグ