わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

【随時更新】ホワイトヘッド『過程と実在』読書会の記録(最終更新:2024/01/13)

この記事は、2020年5月から続けているホワイトヘッド『過程と実在』読書会の記録である。テクストは基本的に Process and Reality: Corrected edition, Ed. David Ray Griffin and Donald W. Sherburne, The Free Press, 1979 を使用し、適宜『過程と実在』山本誠作訳, 松籟社, 1984 を参照している。

参加者は、これまで複数名の入れ替わりがあったが、現在はホワイトヘッドを専門で研究されている博士課程の方を中心に、ライプニッツを研究している私とアウグスティヌスを専門としている博士課程の方の3名で構成されている。毎回交代で担当箇所のレジュメを作成、当日はそれを解説し、互いに疑問点について議論したり補足事項を付け加える形で行っている。

以下の記録は、読書会後に毎回私がツイートしている内容をまとめたものであるが、一部文章を変更している。定期的に内容を付け加えていく予定。


2020年4月25日
来月から昨日ゼミで知り合った人と『過程と実在』を読む読書会を始めることとなった。遂に私もホワイトヘッドを読むのか、驚くべきこと。


2020年5月19日
ホワイトヘッド『過程と実在』の序文を読んだ。「有機体の哲学」としてどんなことが論じられてゆくのか、どんなことが目指されているのかなど、概要を何となく理解した。「出来事」とはなんなのかを知りたい、と思いながら読んでいくつもり。次回から第1部第1章に入る。


2020年5月30日
独特のことを考えているのでいくつか訳語に悩んだりもしたし、どういった哲学の全体像を考えているのかまだまだ未知。とはいえ、哲学書の読み始めというのは大抵そういうものだと知っているので、あまり気にはしていない。


2020年6月7日
第1部第1章第2節を読んだ。想像力による一般化の議論の後に、デカルトスピノザの哲学と有機体の哲学との比較がなされていた。世界に対して卓越した存在者であるような神ではなしに、「創造性」と名付けられた究極的なものが提示される。


2020年6月20日
第1部第1章第3節を読んだ。合理主義が犯したふたつの誇張的独断、すなわち具体性と確実さの誤謬を批判し、むしろマトリクスから出てくる命題を実在に適用することで仮説演繹的に哲学を進めてゆくべきだということが指摘される。哲学の方法論に関する箇所。


2020年7月5日
今日は第1部第1章第4–5節を読んだ。4節までのところで哲学に課された仕事、すなわちより一般的なものどもへと向かうことの必要性と、数学的方法に乗ってしまうことの誤りが指摘される。5節からは少し話が変わり、命題の話が始まる(この途中まで読んだ)。


2020年7月20日
第1部第1章第5節(pp. 11–13)を読んだ。出来事が相互に結びついているのと同様に命題のあり方もそうなっている。突然、神が登場した。ホワイトヘッドにおける神の役割は面白そう。創造性という大原理のうちで世界と神が相補的に働くというイメージを得た。


2020年7月29日
今日は第1部第1章第6節を読んだ。かなり難解な箇所で大変であったが、大枠としては、哲学とは個別的な探究を一般的枠組みの中で捉えるように進歩していくものだということだろうか。哲学に対する評価もこの批判的進歩の基準のなかで為されなければならない。

2020年8月6日
第1部第2章第1節を読み始めて、カテゴリーの話が始まった。私の体調のせいで1時間だけの会であったけれど、actual entity と prehension あたりの話を読んで面白かった。「現実存在なしに理由はない」という理由律をひっくり返したようなテーゼもかっこいい。


2020年8月19日
今日は第1部第2章「範疇の構図」第1節の後半のネクサスの話と、哲学が抽象を説明するものだという主張の箇所を読んだ。現実的存在・抱握・ネクサスという経験的な究極的事実に関して、一見似ているモナドジーとの違いを探しながら読んでみたり。


2020年8月25日
ホワイトヘッド『過程と実在』のカテゴリーが列挙されているところ、難易度設定を EXTREME にした『モナドジー』みたいだ。


2020年8月26日
今日は第1部第2章第2節のカテゴリーがたくさん並んでる箇所を読み始めて、「説明のカテゴリー」の7個目まで読んだ。伝統的実体概念に基づく哲学に自分が慣れ親しんでしまっているので、出来事と生成から出発する哲学に対してぎこちない思考をしてしまう。


2020年9月3日
今日は第2部第2章第2節の続きで説明のカテゴリーを読み進めた。関係や因果に関する議論が面白い。「感じられたもの」が有するコントラスト的統一が関係概念に先行していたり、主体の性格のうちに存する生成のプロセスの条件が目的因と呼ばれたりする箇所。


2020年9月10日
本日は第1部第2章 § 2–3 を扱った。説明のカテゴリーからカテゴリー的制約の箇所へ。この箇所がどういった意味での「制約」あるいは条件なのかは、疑問が残りつつも読み進めてゆく。ライプニッツの混雑した表象の議論に、ネクサスをぶつける箇所など、熱い。

§ 3 の第6カテゴリーでライプニッツの『モナドジー』における「混雑した」表象の理論に言及している箇所があるが、じっさいどの辺を念頭においているのか。たとえば、§ 69 の魚でいっぱいの池を距離をおいてみると混雑して個々の魚の見分けがつかず、群がりとして認識される、という話とかだろうか。


2020年9月24日
今日は、第1部第2章 § 3–4 を扱った。制約のカテゴリーの最後の方は「予定調和」の概念が登場したりとライプニッツを意識した書きぶりで、制約の第9カテゴリー「自由と決定」に関しては、窓を開けたモナドが有する自由の話として理解した。


2020年9月30日
本日は I, 2, § 4 の続きで、主語や基体といった概念に対して批判的な立場を展開してゆく箇所。述語をまとめあげるような基体概念(第一実体)はどうしても独断的になりがちなので、第二実体的な普遍や述語の側から哲学を立て直そうという試みだと読める。

ホワイトヘッド読書会は有難いことにガイド役をしてくれている方がいるので、『過程と実在』を冒頭からなんとか読めているけど、一人で最初から順に読んでいたら絶対挫折していた気がする。第2部とか第3部から読み始めて、最初に戻ってくるのが良いタイプの本。


2020年10月9日
今日は第1部第3章に少し入ることができた。神の本源的本性と結果的本性の話がでてきた。結果的本性は現実からの反作用によって制限されるという話は、ライプニッツ創造論における先行的意志と帰結的意志の議論に重ねて考えることができそうだという雰囲気。


2020年10月18日
第1部第3章第1節を読み終えた。神の原初的本性に関する記述がなされており、概念的抱握や欲求の議論がなされている。潜在性の次元を確保する点でスピノザと距離をとりつつ、神を内在させる意味でライプニッツとも違う、マルブランシュ的だという話になった。


2020年10月26日
第1部第3章第2節を読んだ。社会的秩序と人格的秩序の議論が展開され、あらゆる持続的な対象が社会的なものへと還元されることとなる。法的な対象である人格も、力学の対象である物体もすべて、ある種の社会として回収されてゆくのは、かなり面白い。


2021年2月27日
しばらく休止していたホワイトヘッド読書会を今日から再開した。ホワイトヘッドの抽象概念について先日修論を提出された参加者の方の発表を聞く回で、ブラッドリーからホワイトヘッドへという抽象概念の歴史的関係を教えてもらったり。抽象化が具体化と重なっているという点が面白い。

ライプニッツモナドが持っているパースペクティヴとは何であるのか、と考えるとそれは完全性や判明性の度合いであり、その根源は神という究極理由に辿り着く。ホワイトヘッドの抽象は、このようなパースペクティヴの説明から神を引き抜いて、世界側で説明可能なものとして再提示する装置という感じ。


2021年3月8日
今日から第2部に入る。彼自身の有機体の哲学が、伝統的な哲学と一致するということを示しつつ、独自のことも主張するのがこの部。有名な「哲学の伝統はプラトンの脚注」だという話もでてくる箇所だけど、それはともかく、事実から出発する哲学を宣言する。


2021年3月17日
本日は II, c. 1, § 1–2. 先立つ現実的存在と続くそれとの関係を構成する決断の話がなされていて、いかにしてこの世界の一般的関係が生じてくるのかが論じられている。このあたり、現実化してくるものを制限する神の働きや不共可能性の話にも関わるのだろう。


2021年3月25日
今日は III, 1, 3, ¶ 4 まで読解。プラトンイデアにあたるものとして永遠的対象が提示され、現実的存在に中立的で、所与性に意味を与える潜在性として扱われることとなる。神の知性があらゆる潜在的なものの領域であるという近世的図式と対応するのだろう。

神即自然でもないし、世界の外部に神が存在するという話でもなくて、神が現実的存在として世界の根底にあり潜在性の領域を支えている。近世哲学との大きな違いの一つとして、潜在的なものの現実化の契機が現実的存在の側に与えられているという点が大きいように思う。神を抜いたモナドジー感は強い。


2021年4月20日
今日は II, 1, § 3–4. 存在論的原理から一般的潜在性の必要性が論じられる第三節の最後の部分を読んで、第四節に入った。ここでは、合生が内的に決定され外的に自由であることが論じられる。最善律なき自由な決断の決定論的な制約の歴史として理解した。

なぜ別の流れではなくこの流れなのか、ということ理由は内的な決定的系列のうちには見出されないが、その外部において見出される。ライプニッツはこの外部に神の最善律(や完全性の階梯)を置いてしまったのだが、それを取り払うことで、いかなる制約もない絶対的に偶然的な次元を見出すことができる。


2021年4月29日
ホワイトヘッド『過程と実在』読書会、今日は II, 1, § 5 に入った。前節は、ここではアリストテレス主義的な「普遍/特殊」概念に対して、特殊なものが特殊なものの構成に入り込むタイプの新しい形而上学を提示している。デカルトの「対象的実在性」を重く採るのも印象的な箇所。


2021年4月30日
「神の手の中にあるのなら その時々にできることは 宇宙の中で良いことを決意するくらいだろう」(小沢健二/流動体について)というのが、必然的世界に対して自由を表明するさいの一つのライプニッツ的回答であるのだと思うけど、この回答には、見た目以上に豊かな内容が含まれているように感じる。

われわれの自由というのは、例えば、運命という書類の束が与えられて、その書類のひとつひとつに決意というサインを書き加えてゆくようなものだ、というようなのは、一見ぜんぜん自由ではないように思うのだけど、それでもそれを自由と呼ぶことができるとすれば、それは一体なぜなのかという気持ち。

ホワイトヘッドも似たようなことを、「作用因による決定の上に、創造的強調の決断的刻印を押す」(『過程と実在』II, c. 1, § 4) という仕方で述べていた。単に別でもありうる可能性が与えられているだけにとどまらずに、そういう目的因的なサインが書き込まれることが重要なのだというのは、わかる。


2021年5月6日
今日は II, 1, § 6 に入った。前節でアリストテレスデカルト、ヒュームに対して自らの哲学の違いを提示し、本節ではロックに対する親和性を強調してゆく。ロック哲学を知性や知覚に関わるもの以上に一般化すると、ホワイトヘッド哲学に近いものになるらしい。


2021年5月13日
今日は II, 1, 6 途中まで。ロックの観念を対象と言い換えて、自身の哲学と比較検討してゆく箇所。基本的にはロックの哲学をより一般的なものに拡張するという方向性でやっていて、経験は意識を経験するのではなく、意識が経験を前提するという主張が印象的。


2021年5月20日
本日は II, 1, 6 の途中まで。ロックが単純観念から実体を構成してゆく点に着目しながら、普遍的なものの生成、さらには同一な外的事物と呼ばれるものが複合的なものの連続的な継起であるということを、ホワイトヘッド自身の哲学に合わせて語り直してゆく。


2021年5月27日
本日は II, 1, 6–7 で章も終わりに近づいてきた。 § 6 の終わりはかなりテンションが高くて、多としての宇宙を一なるものとして作り出す個々の現実的存在、そしてそれによって宇宙の多性に付け加わってゆくという、壮大なコスモロジーが垣間見えて良かった。


2021年6月3日
今日は II, 1, 7 途中まで。ロックからの長い引用があったりする箇所で、われわれだけでは難しいと判断して同じ研究室でロックを専門で研究している方を呼んだら参加してくださった。有難い。有機体の哲学が、かなりの部分までロックに乗っていることは分かる。


2021年6月10日
今日は II, 1, 7 の続き。非常に難しくてなかなか進まない。ロックの実在的本質についてロック研究者さんに教えてもらいながら、ホワイトヘッドの永遠的対象との対応関係を考えるなど。永遠的対象が現実的諸存在を導き入れる機能を果たす、というあたり面白い。


2021年6月24日
II, 2, 1 (pp. 61–65)を読み進めた。連続体と感覚与件による知覚(現示的直接性)の箇所。現実は原子的である一方、潜在性においては連続体がありえるのであり、そのような知覚を与えうるものとして感覚与件が論じられる。にしても難解な箇所であった。


2021年7月1日
本日は II, 10, 1 を読んだ。先にこの「プロセス」という章を読んだ方が全体の見通しがよくなるというアドバイスを受けて、いろいろ飛ばしてこの箇所を読むことに。「万物は流転する」ということのより詳細な哲学的探究が有機体の哲学なのだということが分かる。

「万物は流転する」のはたしかに基本的にそうだけど、そのなかにも恒常性をもつものとかもあるよね、という留保。そして、その流転の仕方によって様々な出来事がありうるよね、という分析など。ホワイトヘッドのモチベーションがよく示されている箇所で、たしかに先に読んでおくとよさそう。


2021年7月19日
『過程と実在』「プロセス」の章で、合生とは多なるものが新たな一なるものの構成に「従属 subordination」することである、と語られていて、とてもモナドロジカルな従属システムが有機体の哲学にもあるのだなーという感想を抱いた。ので、秩序について詳しく書かれているというクンツの本を購入。


2021年8月6日
しばらく夏休みだったホワイトヘッド『過程と実在』読書会を再開。全体のまとめ的な「プロセス」章を読んでいて、存在論をベクトルとか流れといった方から立ち上げてゆこうとする気持ちがよく伝わってきた。ライプニッツが曲線だとか微分的なモデルで考えようとしたことと、重ねて考えることができる。


2021年9月3日
今日は延長的連続体の議論であった。潜在的なものの実在性の源泉として、所与の事実たちがある一方で、こうした連続体もまた関わっていることがわかる。可能的なものも含めた実在性の究極的な基礎としての連続体というと、十七世紀的には神の知性っぽい。


2021年9月10日
今日は第二部第二章第二節の最後のあたりを読んだ。ゼノンのパラドクスに関して、単に延長的な分割の話なのではなくて、時間を通じてものがいかにして「サバイヴ」しているのかという点に問題の核心があると述べている。運動ではなく、生成の問題ということか。


2021年10月1日
第2部第2章第4節を途中まで読んだ。ここでは、「現実的生起 actual occasion」や「出来事」といった概念が明示的に導入されている。運動などの出来事は、この現実的生起が集まったネクサスとして捉えれる。そのあと、デカルトの『省察』解釈などが始まる。


2021年10月7日
第二部第二章第四節を読み終えた。デカルトのコギトを現実的生起として解釈することで、有機体の哲学との類似・差異を明確にしてゆく箇所。ホワイトヘッドはここでもデカルトの対象的実在性の議論に注目していて、この点で、自身の対象化理論と重ね合わせる。

延長連続体は「リアルな潜在性」なのか「リアルな潜在性のスキーム」なのかという点が話題に上がった。現実的世界によって制限されている潜在性という意味でリアルといわれている箇所もあるが、それとは少し違う形で連続体はリアルだと言われているように思う。スキームという点をどう理解するか。


2021年10月14日
今日は第2部第2章第5節を読んだ。実体的なものを「真なる原因 vera causa」として置いてしまうことがなぜ生じてくるのか、批判的に検討しつつ、非同一性の哲学を論じる箇所。「人間は理性的である」とかも、単に人間は理性的な傾向がある、という主張に転換する。

ここでホワイトヘッドは「人間は理性的である」というのに対して、「人間というのはただ断続的に理性的なのであり、たんに理性というものに服しているのである They are only intemittently rational——merely liable to rationality」と述べていて、いいなぁと思ったのであった。

ライプニッツも一応は理性が一時的に衰えることを気絶や睡眠ということで語るのだけど、しかしそれは一時的なものに過ぎないということを強調して、そこからの回復を当然の如く受け入れてしまう。なぜ理性は理性へと立ち戻ることができるのか。その辺の仕組みをホワイトヘッドはちゃんと考えている。


2021年10月21日
第2部第2章第6節を読み進めた。時折訪れる要約的な部分。デカルトスピノザライプニッツへの言及がある箇所でもある。ライプニッツモナドは変化(存続)するが、ホワイトヘッドのそれは生成(消滅)するのだという仕方で言及している。

「因果作用とは、全ての現実的存在はそれ自身の現実的世界を住まわせなければならない(every actual entity has to house its actual world)、という原理のひとつの帰結に他ならない」(p. 80)。現実的存在が世界をハウスしているという文章は魅力的であった。


2021年10月28日
今日から第二部第三章「自然の秩序」に入った。秩序は、その現実的存在が有している個別的理念に応じて、無秩序とセットで全体性を構成している。これまでの、のっぺりした先立つ世界の所与の議論に対して、ある種のパースペクティヴをもたらしそうな雰囲気。

現実的存在がもつ個別的理念というのは、その秩序–無秩序に存する支配的構成要素に由来するのだという話も興味深い。支配的とは何か、支配的なものはいかに理念を生み出すのか、など問いが浮かぶ。この辺りをある程度読んでから、クンツ『ホワイトヘッド——秩序への冒険』を読んだら面白いだろうか。


2021年11月11日
今日は第2部第3章第1節の途中。ある合生が充足のフェーズに至ると、それが次の合生に流れ込んでいくというので、充足それ自体の意識できなさなどが語られている箇所。充足へと導く主体的指向の概念も登場する。プロセス的に理解することが強く求められている。


2021年11月18日
第2部第3章第1節の続き。対象的誘因について、ヒュームの引用なども用いつつ説明されてゆく。とくに、感得がベクトル的であり、しかも向こうからこちらへのものだというのが面白い。こちらへ飛び込んできた対象的な与件が、理念に向けて肉付けされ実現される。

ホワイトヘッドの神概念のことは、まだよくわかっていない。あらゆる現実的存在が絶え間なく次の存在へと生成消滅を繰り返していくさいに、ある種の指向を与えてくれるものではあるらしい。少なくとも、なぜカオスではなく個体があるのか、ということの理由はこの神に求められる。

なぜカオスではなく個体があるのかということに関して、それは主体がそのように見ているからだよ、と答える路線も哲学にはあるけれど、こっちにはいかない。むしろ、主体の成立契機をも形而上学的に包摂するような体系として有機体の哲学を打ち立てようとしている。とにかく壮大。


2021年12月9日
今日は II, 3, 2 の途中まで。この箇所では前節までの秩序概念を「社会」に関係づけてゆく。ホワイトヘッドは人格から宇宙まで重層的にそれぞれ社会を構成していると考えていて、そうした社会の成員は自身で他の成員との形相的な類似性を再生産しているとされる。

複数の要素が集まって個体的な社会を形成するというときに、単にその要素間に共通の形相が置かれているという仕方で個体性を説明するのではなくて、その共通形相を実際に生成的派生(genetic derivation)という仕方で再生産する点で個体性を説明している。これは個体の実在性の説明にとって重要。

複数の要素が集まって個体的な社会を形成するというときに、単にその要素間に共通の形相が置かれているという仕方で個体性を説明するのではなくて、その共通形相を実際に生成的派生(genetic derivation)という仕方で再生産する点で個体性を説明している。これは個体の実在性の説明にとって重要。


2021年12月16日
今日は II, 3, 2 を最後まで。ホワイトヘッドをハーバードに招聘した影の立役者である生物化学者 Henderson について教えてもらった。彼の "The order of nature” (1917) という本などは、今読んでいる箇所とかなり強く関係しているだろうという感じ。

この箇所でホワイトヘッドは cosmic epoch という概念を提示する。現在の自然法則のような秩序は、このエポックにしたがって、徐々に変化していくという宇宙観を提示している(このあたりはメイヤスーの事実論性の議論とも関わる)。あらゆるものを「社会」と捉えて変化を描きだすダイナミックさ。

このヘンダーソンという生物化学者は、その前の世代のベルナールに大きく影響を受けているらしい。実際に一般生理学に関する研究書も書いている。ベルナールというと、これまた重要な人で、動植物に共通する生命現象(原形質とか)を描き出すという、一般化プロジェクトを推進していた。


2021年12月21日
既訳の『過程と実在』をみていると、"Causation is nothing else than one outcome of the principle that every actual entity has to house its actual world" という文章を「現実的存在は自身の現実的世界に住わなければならない」みたいに訳されていて、非常に平凡なことを言っているように見えるけど、ここは「現実的存在は自身の現実的世界を住まわせなければならない」というような話ではないかということが読書会で議論されたていた。世界のうちにあるということではなくて、世界が自らのうちにあるということを言わんとしている。どちらも表裏の関係にあることがらであるとは思うけれども。第2部第2章第6節の話。


2021年12月23日
今日は第2部第3章第3節を読んだ。世界を重層的な社会の寄せ集めとして理解する彼の哲学において、無秩序というのがどういった位置づけになるのかということが示されている箇所。プラトンティマイオス』とニュートンの比較もここで論じられている。

こういった箇所を読むと世界を理解する上での進化論登場のインパクトということを感じる。自然が新たなものへと変化してゆく進化論を、ニュートン的な既製品的な自然観ではうまく説明できないということが表明され、その点でプラトンは宇宙時代の発展進化を語っていて偉いのだとされる。

相対的な無秩序を押し進めて理念的な混沌的無秩序を考えてみるというのも面白かった。混沌的無秩序においては、社会が複数両立しているときに、それらを統合する秩序が存在せず矛盾したままになってしまう。この辺は、論理的矛盾ではなく、不共可能な副次的矛盾から世界を考えるライプニッツと被る。


2022年1月6日
II, 3, 4 を途中まで読んだ。宇宙の秩序はどんどん変化していくのだけど、その根底に潜在的に存在する延長連続体やその極めて一般的な定義的特徴である延長的連接などは、変化を通じて一貫している。現在の幾何学はこの一般的特徴の特殊なものとされる。プロセス哲学において重要なのは、変化はもちろんだけど、それでも何かが維持されうるということを支えている原理でもあるだろう。


2022年1月13日
今日は II, 3, 4–5 を読んだ。やっと百ページ目に到達したところ。彼のいうところの社会というものが如何にしてその法則を生成するのか(4節)、そして構造的社会の下位の社会とネクサスの違い、構造的社会の強度がどのように生じるのか(5節)が論じられた。

構造的社会が個体的経験から強度を取り集めること、そして両立不可能な複合性からコントラストをもった(両立可能な)複合性へと強度を高めていくこと。ライプニッツが両立不可能性の篩によって最善世界を選択したことと合わせて考えると、最もコントラストの高い世界こそ最善だといえるのではないか。

また、構造的社会の強度が個体的経験から集められているという点も面白い。最善世界の最善性はモナドに由来するという読みは可能なのだろうか。明瞭には見えてこない道だが、橋本先生が言っていたように個々の悪が世界に最も強く刻み込まれることが最善の特徴ならば、そういう道もあるかもしれない。


2022年1月20日
II, 3, 6–7 あたりを読んだ。自然が存続的に強度を生み出していくことを可能にする構造的社会の二つの方法のひとつめ、平均的対象化に関する議論をみた。環境に対して鈍感であるような社会ほど、それ自体としては強固となる。岩とか惑星が例として挙がる。


2022年2月2日
第2部第3章第8節は、有機化されたモナドジーという雰囲気が強い。従属的/支配的(subservient/regnant)ネクサスという、従属的/支配的(subordinate/dominant)モナドとほぼ重なるであろう概念が登場する。とはいえ、ライプニッツを越え出ている部分も大いにある。

次の節も読んでみたが、反応の起源性(originality)がどのような社会に見出されるかということについて論じられている。ここは難しくてあまり理解できていない。たんなる物理的反応に回収しきれない、新規性を導入することこそ生命の特徴であり、その意味で「起源性」とは生命の別名だとされる。


2022年2月3日
II, 3, 9まで読んだ。「生きている」とは起源性(originality)であり伝統ではない、生きているネクサスというのはそれ自体は何ら存続的存在ではない(存続的なものは伝統的で起源的ではない)とされる。生き物と区別して生きていることそれ自体が語られている。

生き物は存続的な存在者であるが、それは生きているネクサス自体が存続的なのではなく、それと相互的に働いている非有機的ネクサスが作用因的な伝統を引き受けているからだということになる。このような考え方は、生気論者たちの生命原理に関する議論と併せて考えると面白そうだと思っている。


2022年2月16日
II, 3, 10 を読んだ。ホワイトヘッドの生命論が全面的に展開されていて、生命というのが身体を構成する社会の「隙間」に存在しているということ、概念的抱握を通して両立不可能なものを自らのうちに取り込んでいくものだということが明かされている。

「生きている」社会が両立不可能性を取り込むことで自らのコントラストを高めて強度を生産するということが、神の原初的目的であるところの強度の生産ということに結び付けられているという点も重要だと思う。そうした宇宙の一貫的プロセスのうちに生命を位置づけていく。


2022年3月3日
II, 3, 11。「運河化 canalize」という言葉を使いながら、新しさを本懐とする生きているネクサスがいかにして持続的な「生きている人格」を示すに至るのかが論じられている。先立つものを引き受ける運河化と、神の主体的目的によって定められた運河化がある。

ホワイトヘッド曰く、この「運河化」という言葉はベルクソン由来らしい。もっと古くからありそうな言い方だし、どこかで聞いたことある気もするけれど。


2022年3月10日
第2部第3章を読了。秩序と社会に関する形而上学的議論から始まり、有機体や人格性の持続の話なども。構造的な仕方で生物を統一する「支配的ネクサス regnant nexus」と、人格の持続の継起にかかわる「統領的契機 presiding occasion」の議論など面白い。

絶えざる変化のプロセスのうちに、どのように持続や維持や統一という契機を持ち込むことができるのかという方向性から議論を進めていく。この方面から見ていくと、心身問題などの個別の問題も、基礎の部分から改訂されて、問題そのものも別物に変形することになる。引き続き第4章も楽しみ。


2022年4月7日
第2部第4章第1節を途中まで。重要な議論が次々と出てくる箇所。充足の深みは、多様性を構成する「狭さ」と、その背景を構成する「広さ」の結合から生じてくる。行き過ぎた多様性は充足を瑣末なものとして、相互調整の不在による両立不可能性の優位へと至る。

両立不可能性の優位とは、ライプニッツにおいては神が世界を選択するさいに篩い落としたであろう最善世界から漏れ出てしまうものが、世界の中に溢れかえる状態として考えることができる。こうしたことが可能になるのは、ホワイトヘッド的な篩の内在(神の内在)に由来すると思われる。

ここで、「神の内在」による秩序の保証と「世界の広大無辺 immensity」による秩序の完了の不可能についても述べられている。伝統的には「神の広大無辺」であったものが、神から切り離されて世界のものとされる点が重要だと思う。創造性が、神においてではなく、世界においてあることと共鳴している。


2022年4月13日
II, 4, 1 を読み終えた。"chaos is not to be identified with evil" と言われ、調和というのが差異化と同一化から構成されることが示される。とてもライプニッツ的な議論である一方で「調和」ということの内実を考えると、両者の関係は単純ではなさそう。

ライプニッツは神によって設定された全体的調和を前提にして部分的な調和を説明することになるが、それに対して、ホワイトヘッドの場合は、現実的存在の抱握における部分的調和から出発して全体的調和へと向かっていくことになる。つまり、後者においてはまだ現実化していない全体的調和が存している。

この両者の距離の一方で、ライプニッツ的な諸モナドが現に駆動して世界に調和を実現していくという契機を考えると、一気にホワイトヘッドに接近することになる。現実的諸存在の抱握によって、差異化と同一化(判明化と曖昧化)を実効することで、神の目的へと前進するという仕組みは共通している。


2022年4月20日
II, 4, 2 を読み終えた。「純粋感じ批判 a critique of pure feeling」として「思考」ではなく「経験」に定位した哲学を立てるべきだということをカントに対して主張している。感覚知覚に先立つ感覚受容は、それ自体「相互接続性」を含むというのは大事そう。

十七世紀の哲学が一次性質と二次性質を区別した上で、一次性質を知性の対象として、そこにのみ着目した哲学の歴史を作ってしまった点も批判されている。これにたいして、一次・二次よりもさらに遡る原始的な「感じ」から両性質にアプローチする必要があるとホワイトヘッドは考えている。


2022年4月27日
II, 4, 3 を読んだ。永遠的対象のうち最も低次のカテゴリーとして「感覚所与」が導入される。私たちの経験を説明するときの、もっとも基礎的なものとして、それ自体は単純でありつつ、他との関係を潜在的に含むものとして複合的でもあるとされる。

単に感覚所与としての経験は曖昧なものであって、広さを欠いている。こうした経験が深みを獲得するためにはコントラストとそのパターンが要請されるのであり、それを通して感覚所与の潜在的関係が実現されることになる。このあたりは、私たちの経験の根源的部分で語ろうとしていてイメージが難しい。


2022年5月11日
II, 4, 4 を読んだ。有機体の哲学における情緒とその伝達形態としての情緒的エネルギーが物理学的なエネルギー関係の語彙に特殊例化されることが示されている。形而上学は、種としての個別科学の語彙に対して、類的なものを打ち立てることを目指すとされる。


2022年5月25日

II, 4, 5 を読んだ。有機体の哲学の形而上学を身体論として提示する。「眼が見る」という原初的な身体感覚から、視覚として与えられて、さらにそれが様々な補足されて最終的経験となる過程を論じている。形而上学を身体化し、実験的領域へと開いている。

対比として、デカルトが感覚的な認識に精神の判断が関わっているのだと論じる第二省察的な議論を考えてみると、ホワイトヘッドは原初的感覚から精神の判断にいたるプロセスについて、「増幅機(アンプ)」としての身体を通して説明しなおそうとしているように見える。

ホワイトヘッドの身体論が、有機体の形而上学の単なる例示として示されているのか、それともそれ以上の意味があるものなのか、考えてみたい。身体的な用語に、これまで形而上学的用語を対応させているだけだと見ることもできるが、より根深く彼の形而上学に食い込んでいると見ることもできないか。


2022年6月1日
II, 4, 7 を読んだ。身体論を用い知覚作用のメカニズムに関する記述と、そこから導かれる記憶について。現在経験される触覚的経験も、手の神経などを通した因果的歴史を通したものである。こう考えると、そもそも過去の経験と同様に現在もまた記憶的である。

記憶が因果的歴史性の方から語られることによって、過去→現在という時間性の議論を前提にせずに記憶について語ることができる。ライプニッツ的な論理主義にも通じるような、時間ということの解体があるように思う。そのうえで、ホワイトヘッドの未来(と未来における可能性)の問題は引き続き考え中。


2022年6月8日
II, 4, 7 を読み進めた。知覚というもののうちに、過去から未来へと向かう因果的作用性の様態と、まさに見られている現前的直接性の様態とがあり、両者を切り分けつつ両者の絡み合いとしての「象徴的関連」の内実を解きほぐす必要性について述べられている。

因果的作用性の系列に置かれたものを指し示すために「現実的理由 an actual reason」という言葉が用いられている点も重要だろう。「石は確かに歴史を持ち蓋然的に未来を持つ」と直前で言われるように、未来にも関わるものとしての理由が、抽象的潜在性としてではなく、リアルに関わるものとしてある。

この節の最初でホワイトヘッドが、視覚的な知覚との対比で「はらわた的感じ visceral feelings」と述べているものについて、加藤信朗先生の「Cor, praecordia, viscera」という有名な論文を参照したりした。単に内臓感覚というより、viscera という言葉の射程はかなり広い。


2022年6月15日
II, 4, 7–8 を読み進めた。デカルト的な二元論を推し進めることの帰結として、この精神と同時的であるような身体というものについても語ることが難しくなってしまうような事態について第7節の最後で問題提起されたのち、第8節で同時性の議論が展開される。

第8節前半では、同時的な現在とともに、過去や未来に関する時間論が展開される。そのさいホワイトヘッドは時間をふたつの知覚様態から規定していく立場をとる。因果的な様態では、知覚与件として与えられるものを過去、知覚与件に対して知覚者が決定を加えていくことが未来、そしてそれ以外が現在。

それに対して、現前的直接性の様態においては、ただこの現在における一つのパースペクティヴのみが直接的には与えられるという。ライプニッツはこの二つ知覚様態を混合して「現在のうちに過去や未来を見る」ことを考えていたのだと思うが、ホワイトヘッドはそこを切り分けて論じようとしている。


2022年6月29日
II, 4, 8 を読んだ。過去、未来、と「現前化された持続」としての現在の議論がなされている。相対論的に、持続は各現実的生起にとっての直接性に応じて複数化されていて、自らの持続が他の生起と共有されるという事態で私たちの日常的経験が説明される。

普遍的調和のような理由平面をライプニッツ的な神の視点から眺めると現在しかないのだが、そこに過去とか未来とかが生じてくるのは観点としてのモナドの導入によってであるということも併せて考える。モナドが持続を作り出すのであって、それゆえにモナドの数だけ持続があるということでもある。


2022年7月6日
 II, 4 , 9 を読んだ。知覚様態の現前的直接性が身体と関連づけられて論じられている。「知覚は身体の状態の関数である」とされるように、身体状態が変化すれば知覚も変化するし、直接的な知覚を解釈することによって身体状態や先行する媒介的世界に触れうる。

直接的知覚と身体状態との間を「関数」という形で切り離して結びつけるというのは、近くの様態を現前的直接性と因果的作用性という二つの種類に区分して論じていくということの帰結であると思われる。因果作用を分析しても直接性は出てこないし、直接性それ自体は因果作用系列ではない。

心理主義的に解釈されたライプニッツ哲学というのは、現前的直接性のみで世界全体を説明しようと試みる哲学だろう。ただし、表象の完全性の度合いがいかにして生じてくるのかという、事物の本性の次元について考える段階において「なぜこの直接性であり他ではないのか」が問われることになる。


2022年7月13日
II, 4, 9 の続き。身体と現前的直接性の間の体系的連関を考えるさいに、両者の基礎において幾何学的直線を見出そうとする。計測によって定義される直線概念を批判し、むしろそうした計測の背後にある純粋な幾何学的直線を考えることで、連関の基礎とする。

物理的世界から因果的に私たちに与えられるものとして直線を定義するのではなく、私たちの現前と物理的世界の両者の根底にある幾何学的な確実性として(現実的というより理念的な)純粋な直線「延長」を考えようとするというのは、デカルトやマルブランシュに共通する発想といってもよいと思われる。

なぜ、幾何学的延長が現前的直接性として、あるいは物理的存在として立ち現れるに至るのか。そうした現実化の力能は何に由来するのか、この問いを考えようとするときに世界を前に進めるための神の議論が必要になってくるように見える。神は秩序であるだけでなく、力能も備えていなければならない。


2022年7月20日
II, 4, 9-10を読んだ。現在において在る現前的直接性が幾何学的な体系的連関において身体などと対応することの議論に加えて、そうした体系的連関がひとつの同時性を構成する複数の現実的存在からなる延長連続体なうえに乗っかっていることが示されている。

第4章の最後では、近代哲学が概してヒューム的な懐疑論に陥る根本的な問題として、出来事の過去との連関を切り離す方向にあるという点を指摘している。デカルトが連続創造ということで言うような断絶において、ホワイトヘッドは水路づけという仕方での過去との連関を重要視する。この章も面白かった。


2022年8月3日
II, 5, 1 を読んだ。この章からは哲学史篇ということで、まずはロックやヒュームについてホワイトヘッドの見解が述べられていく。経験を説明するときに、単純観念というビルディング・ブロックから複合観念を打ち立てるが、そのさいの想像力に注目する。

想像力の産物を複合観念に限定して考えるヒュームを批判し、その背景にある〈単純観念–複合観念〉の区別を相対的なものとすることで想像力の自由をより広く採るべきだと主張している。ホワイトヘッドが、現実的存在にとっての与件のみならず与件とレレバントな潜在性をも認める点と結びつくだろう。


2022年8月16日
モナドはいつだって同じモナド自身を反復し続けているのだけど、それと同時に常に「新しさ」を生み出し続けている。ホワイトヘッドが、経験の諸相としてヒューム的「反復」や、変化における「新しい直接性」を持ち出すとき(『過程と実在』第2部第5章第3節)、モナド的経験が透けて見えてくる。

ホワイトヘッドは「継起する時間的生起の個別的独立」というデカルト–ヒューム的前提に対立して「対象的不死性」としての反復を強調する。ライプニッツは、デカルト『原理』に対するコメントで「あたかもこの持続の或る部分が他部分から完全に独立しているようだが、これには同意できない」と述べる。

ホワイトヘッド哲学は実体概念を採らないので、ライプニッツ的実体も放棄されそうだが、案外そうでもないかも。デカルト的実体からのライプニッツの距離を考えると、一よりむしろ単純としてあり、内容的な数多性、変化の原理を備えているなど、モナドと呼ばれる「単純実体」の実体性の特殊さがみえる。


2022年8月24日
II, 5, 2 を読んだ。ここでは、ヒューム『人性論』における「反復」概念を重要視しながら、因果概念が形而上学的根拠ではなく経験的な反復に依拠することを強調する。さらに、ヒューム自身が「生気と勢い」による説明を持ち込んだ点の不整合も指摘している。

のちの命題章において、ホワイトヘッドは自然の斉一性をソサエティの安定性として捉え返していくことになるが、普遍的斉一性への批判意識はヒュームと結びついていると考えることもできるだろう。デカルト的な独立性に規定された実体概念では、外的関係を必要とするソサエティの安定を語り得ない。

ホワイトヘッド読書会は、メンバーの一人がカナダに留学する関係で、9月中頃までいったんお休み。再開までの間に、溜まった研究文献を少し読む。有村さんの『生成の美と論理―ホワイトヘッド形而上学』もまだ読めていないが、ライプニッツの共可能性の議論とも関連しているので、早く読む必要がある。


2022年9月15日

ホワイトヘッド『過程と実在』読書会を再開し、II, 5, 3 の途中まで読み進めた。「経験から反復を引き裂くなら何も残らない」「感得は反復を覆い尽くしている」という仕方で、経験が反復と直接性というふたつの側面を持つことが(ホワイトヘッド的な)ヒュームを介して論じられている。


2022年9月23日

モナドジー』の英訳者 Latta が1898年の時点で、『原理』第4節の注として無意識から意識への移行をライプニッツは明らかにしてはいないことを指摘していた。ホワイトヘッドが『過程と実在』第1部第3節の変異のカテゴリーを説明するさいに、ライプニッツを批判するのはこの文脈なのではないか。

Latta, 410頁「無意識から意識的な知覚への移行は、いかなる意味でも明らかにされていない。ライプニッツはもちろん普通の言葉を使っているが、意識的なモナドは無意識的なモナドよりも知覚が混雑しておらず、器官が異なって配置された身体を持つと言うのでは満足できないとすれば、これを彼の体系の用語にどう翻訳すればいいのか分からない」。1989年のAriew & Garber 訳の『原理』では、当該箇所の「relief」を(ホワイトヘッドに馴染み深い)「contrast」という語を用いて訳していて、もしや Latta もかと思いきや「prominence」であった。


2022年9月29日

II, 5, 4 を読み進めた。主語–述語形式の哲学に対する批判のなかで、再びデカルトの「真なるもの res vera」への言及が登場する。序文での内容とほぼ同様で、ホワイトヘッドアリストテレス的第一実体以上の内容をもつものとして res vera を評価している。

ただし、序文で、ホワイトヘッドは「現実的存在」を、性質に対して関係性が優越する限りでの(この意味でデカルトとは異なる)res vera と同一視している。それは、今日の箇所ではデカルトが「res vera の概念は究極的事実の分離を含意しない」ことを自覚していなかったとも言い換えられている。

ホワイトヘッド自身はこうしたデカルトの概念の重要性をジルソン(仲良かったらしい)から学んだと序文の注に書いている。ジルソンが res vera について何を言っているのか調べていたら、クルティーヌの論文 « La doctrine cartésienne de l'idée et ses sources scolastiques » に行き着いた。

クルティーヌは「かくしてデカルト的観念は res vera ac positiva として理解される。「思惟は、観念の形でその内容を知覚するさいに、つねに独自の知解可能な実在性に至る」」(Courtine, « La doctrine cartésienne de l'idée et ses sources scolastiques », Les catégories de l'être, p. 248)と、ジルソンの『序説』注釈書を引用しながら述べていた。

ジルソンの方を見ると『序説』第4部での「観念」について詳細に注解している箇所であった。「まさしく観念とはものであり、その実在性は、私たちがそれらの定義を恣意的に変更しようとするさいの、私たちの思惟に対する抵抗によって証明される」(p. 320)。確かにホワイトヘッドに関連しそう。

あるいは、スコラ的な対象的存在が理拠的なものだったのに対して、デカルトは実在的なものとして捉え返し、それゆえに対象的存在もまた現勢的なもの同様に実在のための原因を必要とすることになった、というジルソンの指摘(p. 321)も、ホワイトヘッドが res vera に注目することに関連しているかも。


2022年10月6日

II, 5, 4 続きを読んだ。ライプニッツラッセル、ホワイトヘッドの「関係」に関する主張の違いが議論になった。個人的には、外的に実在的な関係と、主体に内在的な関係のあいだのプロセスを説明するものとしてホワイトヘッドの議論を再構成できるように思う。

言い換えれば、主体というものを前提とせずに、かつ主体に帰属することになるパースペクティヴを語るということを可能にするのは、時間的幅をもつプロセスなのではないか。つまり、外的事実としての関係から合生を経てその関係を内的にもつ主体が生成されるというプロセスを考えているように見える。

P. Basile の Leibniz, Whitehead and the metaphysics of causation の第2章で指摘されているように、ラッセルが、ライプニッツは基体の概念を捨てモナドを表象の因果系列に解消したほうが良かったと評価している点を合わせて考えると、そのようなライプニッツ哲学はホワイトヘッド的になるだろう。


2022年10月13日

II, 5, 4–5 を読み進めた。観念と意識とを区別しなかったロックに対して、カントは両者を区別したが、「直観は決して盲目ではない」という暗黙の前提があったことを指摘する。つまり、微小表象のような盲目的直観をカントはどのように扱っていたかが問題。

ホワイトヘッドはむしろ、意識なき直観のようなものからいかにして主観的経験が生じるのかを論じる土台を有機体の哲学において打ち立てようとしていた。ただしそれは、抽象観念は外界に由来する単純観念に分析できるというロック的考えとも異なる。

ホワイトヘッドは、ワーズワースの「私たちは解剖するために殺してしまう」を引きつつ、ヒュームの見解を持ち出す。ヒュームの懐疑論が示唆するのは、意識の全体性は観念という部分の総和からなるものではないということであった。懐疑論が示す私の観念と外界の存在の距離というもに由来するのだろう。


2022年10月20日

II, 5, 5 まで読んだ。「感覚のうちにないものは知性のうちにもない」という感覚論に対して、「情緒的調子 emotional tone」の原始的な位置付けを強調する。ここで「直接的媒介 direct mediation」として情緒的調子と感覚が語られるさいの「直接性」が話題になった。

ホワイトヘッドは「現前的直接性 presentational immediacy」という仕方で直接性を語る場合もあるが、こうした直接性とは一体何を意味しているのだろうか。あとここでサンタヤナの「動物的信」が参照されている。彼の哲学が「直観与件」のうちに「直観自体」はないことが暗黙に前提されていると指摘。


2022年10月27日

II, 6, 1 を読んだ。新章「デカルトからカントへ」に入り、最初の節は専らデカルトに関する議論がなされていた。デカルトの三種の実体として精神、物体、神を挙げて、前者ふたつの本質のうちには神への依存という事柄が入り込んでいることを指摘している。

ホワイトヘッドは、とりわけ個体的実体間の関係に注目し、デカルト哲学においてそうした関係の保証元として神を想定しなければならないことを論じる。こうした関係の外在は、デカルト哲学における思惟実体の観念による限定という事態に至る。ホワイトヘッドはこうした哲学の根底をひっくり返す。


2022年10月28日

一般に「経験」概念は自然の秩序や必然的真理に対し後から到来するものとしての立ち位置をもつが、そうした経験概念の裏側にしばしばくっついて離れない現前的直接性という事態がある。その限りでは経験は何よりも先立つ。ホワイトヘッドはこの裏の意味を、逆に、哲学の中心に据えたということか。


2022年10月29日

「死が劃す区分と、死がその刻印を押す有限性とは、逆説的にも、言語の普遍性を、個人という不安定で代替不能な形に結びつける」(フーコー臨床医学の誕生』結論, みすず書房)。19世紀初め死がア・プリオリとなり個人に言語的普遍が結合することと、ホワイトヘッドの対象的不死性の距離は遠くない。


2022年11月10日

II, 6, 3 を読み進めた。現実的存在を世界の基礎に据える存在論的原理において共通世界がなりたっているとすれば、宇宙の任意の事項が任意の現実的存在の構成要素になっているという相対性原理と一致することになる。この相対性によって一元論と距離をとる。

さらに強度的関連性の原理を導入することで、各現実的存在が数的にのみ異なる無差別的反復であることを避ける。各現実的存在に抱握される宇宙の事項は何であれ、〈その〉現実的存在の構成において〈その〉関連性をもつという仕方で個体化されていることになる。

両立可能性と矛盾性の原理は、ひとつの現実的存在のうちで事項の強度的関連性の度合間に相互結合があることを示す。事項間ではなく、事項の強度的関連性間の両立可能性の議論がなされている。「在りかつ無い」ことの矛盾が問題ではなく(うさぎアヒル絵の)「うさぎかつアヒル」がないというような話。

読書会中に、超越論的経験が話題になり、いかにして私たちは人間的経験に基づくのではない経験を語りうるのか考えたりした。ホワイトヘッドならば、それを主体よりも先に経験を据えて宇宙論を立てるという仕方でやっているのだろう。かつ、そうした人間からの乖離をどう捉えるかも重要な話だろう。


2022年11月27日

日本哲学会第2回秋季大会にオンライン参加して、西脇さんの「A.N.ホワイトヘッドにおけるL.J.ヘンダーソン——ホワイトヘッドの進化論受容——」を拝聴。最近刊行されはじめた講義録の成果を用いつつ、生物学からの影響を明らかにするご発表。ホワイトヘッド研究の新たな時代が始まっている。

ホワイトヘッドが当時の進化論から影響を受けつつも、それをさらに形而上学的に展開したものとして有機体の哲学を考えることができるとして、そのときに導入される永遠的対象のような原理は、どのような位置づけになるのだろう。そうしたものも有機構成の帰結として回収できるのかどうか考えたい。


2022年12月8日

II, 6, 3 の続きを読んだ。永遠的対象の働きについて「どのように how」現実的存在が生成されるのかを規定するものとして描き出されているところで議論が盛り上がった。なぜ「何であるか」を規定するものではなく「どのように」なのかという問題を考える。

これまで永遠的対象は形相っぽいものなのかと思って読んでいたのだけど、形相からではなく、構成から存在のあり方を規定するものとして考えるべきことが分かってきた。むしろ何であるかは、現実的存在や出来事そのものの方に配属される事柄であるということにもなるかもしれない。形相は経験から成る。


2022年12月15日

II, 6, 3 を読み終えた。「決断 decision」の概念が結構難しくて、充足概念と区別して語ろうとするとき、もはや決断というの当の主体に属するものというよりは、他の現実的存在への譲渡という意味合いを中心に理解するべき概念であるように思われる。

この段落の最後に「創造過程は律動的(rhythmic)である」という表現が登場し、公共性と私性のスイングが語られている。全体と個が、2拍子的に不連続なものとして往来するのではなく、リズムとしての一連の持続の中で往来することとして創造過程が考えられている。

音楽と哲学の関係は気になる。ジャズが流行りだした1920年代におけるホワイトヘッドの哲学。インプロ的であるといえば、そうかもしれない。不協和音が全体の調和に寄与するとは、ライプニッツの話だが、不協和音の意味は17世紀と20世紀でいかに変容したのだろうか。絵画と音楽の距離も気になる。


2022年12月22日

II, 6, 4 を読んだ。心や経験の「構成」に着目した哲学という観点から、ヒュームやカントもまたプロセス思想のうちに入り込んでいることが語られている。ホワイトヘッドは、存在そのもののプロセスを論じる点で経験論の究極的なあり方となっているのだろう。

2年半以上やっていが一度も対面で開催したことのないホワイトヘッド読書会だが、ついに年明けにオフ会をすることになった。


2023年1月12日

オフ会という形で池袋のコメダ珈琲にて、II, 6, 5 を読み進めた。プロセスの根底には、知性よりもむしろ感得があるということが示されていた。普遍から個体が生じるのではなく、個体こそが普遍を体現するのだという、唯名論的な個体化の文脈を想起させる議論。

終了後、皆で池袋の鯛の鯛というお店に行った。途中、別で行われているホワイトヘッド読書会からも友人が合流し、楽しい時間を過ごした。


2023年1月26日

II, 6, 5 を読み終えた。この章は構成がよくわからないと思っていたのだけど、それぞれの節の役割「実体説批判」「感覚主義批判」「主観から出発するカント主義批判」が最後のところで明らかにされていて、最初に書いておいてほしい情報だと思った。

ホワイトヘッドの「直接性」概念が、主体と与件のものではなく、自らの「感得 feeling」との直接性に関するもので、与件の反復を主体的形式が凌駕し変容させることで直接的なものになるという議論は重要だろう。普通は直接的経験はもっとも最初に与えられそうなものだが、どうやらそうではない。

ホワイトヘッドのカント理解も(正しいのか分からないが)明確に示されている。カント的には、概念を欠いた直観は盲目であり、概念の働きがなければ対象が存在しないことになる(本当だろうか)。ホワイトヘッドはこれを逆転させ、概念なき対象それ自体が先にありそれが主観を成立させると考える。

ホワイトヘッドの直接性概念は面白いと思う。主体にとって最も近いものは達成されるものであって、最初には「second-handedness」として遠くから与えられてくるというのは、重要な観点だと思う。我思うゆえに我あり、なども直接的経験と言われたりするが、実はどこかからやってきたのかもしれない。

ライプニッツにおいても、微小表象という多なるものが、最終的に現前する統一された経験(この経験自体が〈ひとつの表象〉と言ってよいのだろうか?)が与えられると考えるべきだろう。ホワイトヘッドは、微小表象がいかにして意識的表象を構成するかというプロセスに着目し、そこから存在を考える。

155頁、"The philosophy of organism presupposes a datum which is met with feelings, and progressively attains the unity of a subject" という部分が話題になっていた。主体を達成していく datum が feeling に出会われるという書き方。ホワイトヘッドは主体ありきの哲学を立てないのだけど、その背後につねに主観性の構成へと向けた運動が控えている。おそらくここに原初的指向としての神が入り込んでくるのだろうが、これは原初的な巨大な主語の分割のプロセスだということにはなっていないだろうか。


2023年2月8日

II, 7, 1 を読み進めた。哲学史を主観主義的原理と感覚主義的原理の両者から整理していく。感覚的な事実から出発して一般化していくタイプの議論が、デカルトにおいて主観主義的に転倒したのだと語られる。「石についての灰色としての知覚」が出発点となる。

面白いのは主観主義的バイアスを強めたデカルト哲学においても、取り去り難い客観主義的概念が入り込んでいるということ。ホワイトヘッドは、対象的事象性(realitas objectiva)がデカルト独我論を回避するものであると考える。たしかに対象的事象性によって何かが外からやってくる契機が生じる。

ホワイトヘッドは客観主義的常識を重くみる。「私たちは私たちが存在するのと同じ意味において現勢的なものの世界において存在する諸事物を知覚する」というように、私のみならず私に現れてくる諸事物の存在も受け入れている。直接的経験には、私と、私に与えられる多様があるというのはライプニッツ

私たちは「灰色としてのこの石」を経験しているのか、「この石に関する灰色としての私の知覚」を経験しているのか、自分の経験を振り返ってもボンヤリしている。デカルトは主観主義的原理を採用しながら対象的事象性を考えるが、ライプニッツは徹底しているようにみえる。


2023年2月15日

II, 7, 1 を読み終えた。デカルトが主観主義的原理を発見しつつ、同時に実体–属性図式を維持し続けたことは、最終的にヒューム的な袋小路に陥ることになる。ホワイトヘッドはむしろ実体–属性図式を取り去った改訂的主観主義的原理を中心に据えて考える。

ホワイトヘッドによれば、自らの〈この〉感得を普遍とみなさなければならないヒュームの立場に対して、われわれは常識に回帰して、経験される事物の起源的事実としての他の現実的存在との関係を導入する必要がある。関係の導入は、実体–属性図式の優越性を拒絶することになるだろう。

おそらく「我思うゆえに我あり」において「我という実体あり」というところまで考えてしまうのは無批判な伝統の継承であり、むしろ「思う私」という経験の流れのひとつのエレメントが与えられるにすぎないと考えるのが、改訂された主観主義的原理を採用する有機体の哲学ということになるのだろう。


2023年2月17日

無数の映写機が縦横に並んで同じひとつのスクリーンに映像を映し出すようなライプニッツ的な諸モナドの世界と、映写機から映写機へとフィルムが入り込んで影響を与え合うようなホワイトヘッドの世界を想像する。前者はまだギリギリイメージ可能だが、後者はどんな感じの状況になるのだろうか。

モナドは他のモナドそのものを表現するのかどうか。というより、もしモナドが他のモナド自体を表現するということがあるとしたら、それは「モナドには窓はない」などの規定を改訂することなしに可能なのだろうか。


2023年2月22日

II, 7, 2 を読み進めた。ホワイトヘッドが言う「意識」というものが何なのか、まだよく掴めていない。否定的知覚が意識の一般的ケースとして提示されているのだが、これは消極的抱握が含み込むような否定作用とはどの程度違うレベルのことを考えているのか。

小学生が先生を「お母さん」と呼んでしまったとき、すぐに「あ、お母さんじゃなかった!」と否定を付け加えるときの否定的知覚をもつとき、私たちは先生についての典型的な「意識」をもつということか。こうした否定的知覚、「〜かもしれないが、〜ではない」の想像力は宇宙全体に広がる。

でもそもそも(例えば)「先生は熊ではない」ということは大前提になっている。この否定が前提となって私たちの経験が成立するということは「意識」とどのように関係するのだろうか。この否定が「先生は熊であることがありうえるけれど、熊ではないなぁ」と知覚されることが意識には必要ということか。

1978年の Corrected edition でホワイトヘッド『過程と実在』読んでいる。私が持っている版は1979年に出たそのペーパーバック版。そもそも1929年のMacmillan版が誤植だらけだったために78年の版が出たらしいのだが、ペーパーバック版でも78年の版から誤植の修正がなされていることに読書会で気づいた。

161頁目の真ん中あたり "abstract thought" という語について。1978年の最初の Corrected edition では "abstract though" となっているのが、1979年の同じ版のペーパーバック版以降は "abstract thought" に修正されている(特に注記はない)。単にペーパーバック化しただけなのかと思っていた。


2023年3月8日

II, 7, 2 を読み終えた。しばしば私たちは意識に与えられる先立つものとして現前的直接性を想定してしまいがちだが、形而上学的先行性において先立つのは因果的作用性の方である。因果的に私たちに送り込まれてくるものを、高次の段階で抱握するのが意識。

逆に、意識の "the order of dawning"(明けゆく順序)は、現前的直接性から因果的作用性へと向かう。このとき何が光源なのかという話題で盛り上がった。意識は自身で自身を照らすというよりも、むしろ照らし出されることで浮かび上がってくる何かということのように思える。神が見え隠れする。

そろそろホワイトヘッド読書会を始めて3年目になろうとしているので、何かしら成果を出したりしたい。若手フォーラムでワークショップとか開いてみたりしようかな。


2023年3月22日

II, 7, 3, pp. 162–163 を読んだ。もっとも原初的な経験の次元から、或る特定の経験秩序の破壊に至るまで諸段階が短くまとめられている節として読んだ(いろんな読み方ができそう)。節後半の議論では、いかに新たな経験秩序が生成されるのかが示されている。

或る特定の経験が主体的形式のもとに深まることは、そこに多様なものが入り込み、そこに内在的な矛盾が高まるということでもある。この矛盾を両立できない場合、両立可能性への熱意は抑圧されることになるが、この抑圧こそが破壊へのエネルギーとして働く。これが形而上学的レベルで理路としてある。

この形而上学的レベルでの変革への運動は、それ自体は人間意識レベルの話ではなく、むしろ人間やそれ以外の動物が何らかの新しさを生み出すために展開することを可能にしている条件なのだろう。ここでもやはり、主体として表現される運動全体を整序するような「神」が問題となる(第5部の主題へ)。

ホワイトヘッドが主体的形式のもとに経験を語るとき、それは同時に世界そのものの在り方について語っているのだろう。私の変化とは、社会に対する私の変化でも、私に対する社会の変化でもなく、私でも社会でもない出来事の推移として捉え返され、そのなかに主体性や全体性が構成される。


2023年3月29日

II, 7, 4, pp. 163–164 を読んだ。合性の諸段階における決断を主題にする節。合性の段階に「神の決断」を含む「超越的決断」があると語られていて、この決断によってこそ、合性の諸段階に永遠的対象の「全」多数性が関連性あるものとして入り込むとされる。

つまり、神の決断が与えられることによってこそ、私たちは与件を無数の可能な新奇性のもとに捉えることができる(それまでテーブルとして捉えていたものを、新たな仕方、例えばダンスの舞台として捉えるような)。こうした潜在性の領域の付与の上で、内在的決断は主体的形式のもとに潜在性を限定する。

またここで永遠的対象が関係的なものであることが明らかになる。与件とそれを受け取る主体的形式の間で、両者を規定するものとして二重の機能をもつ関係として永遠的対象が提示されることになる。こうした永遠的対象の関係的働きによってこそ、過去は現在に結びつくし、現在は過去を参照するのだろう。


2023年4月5日

II, 7, 4, pp. 164–166 を読んだ。合生の諸段階において永遠的対象がどのような様態で入り込んでくるのかを語っている箇所で、スコラっぽい議論が続く。永遠的対象が関係的なものであるという話を前提にしつつ、その個別的本質が持ち出されてもいる。

永遠的対象の個別的本質は、合生に永遠的対象がどのような様態で入り込んでくるのかという四つの様態の総合的性格として規定されている。言い換えれば、現実的存在にとっての永遠的対象の性格が総合されたものが個別的本質と呼ばれるのだろう(対象同士の関係によって規定される本質と対比的)。


2023年4月16日

II, 7, 4, p. 166 を読み進めた。ホワイトヘッドにとっての所謂「主体」として生成されるものが、「狭さ」(個々の要素の強度)と、そうした個々の要素を高次レベルの秩序のうちへと整序していく「広さ」の調和から成り立つという議論が節の最後で展開される。同部第4章「有機体と環境」の最初では、主体としての充足は、先のふたつに「瑣末さ」「曖昧さ」を加えた四つの項目との連関で語られていたことと、この第4章の二次元的理解というものをどのように結びつけるべきかが議論となった。〈瑣末さ–曖昧さ〉→〈広さ–狭さ〉という二次元性の段階的移行を考え、前者が後者のある種の条件として置かれていると読む解釈をとるのが、さしあたりの理解となる。なににせよ、多様なものが秩序づけられている充足的状態、その調和自体がひとつの主体性を構成するという観点は重要であろう。単純でありかつ関係の複雑を含みこむライプニッツモナドへと繋がる。


2023年4月28日

上田さんの論文「有機体の哲学にとって「進化」とは何か」(https://doi.org/10.32242/processthought.22.0_81)を拝読。「進化」に関する議論の深化として『科学と近代世界』から『過程と実在』へのホワイトヘッドの思考の動きを描き出すことで、その哲学の中心概念として「進化」があったことを示している。ホワイトヘッドの「進化」概念の様々な側面に光を当てており、一本の「論文」というより、個々の側面についてさらに議論を深めた上で一冊の「書籍」として刊行されることに期待するような内容であった。掴みどころが難しいホワイトヘッド哲学だからこそ、こういったタイプの文章は重要になるだろう。


2023年5月9日

II, 7, 5, pp. 166–167 を読み進めた。改定された主観主義原理から「存在(者)」の本性として潜在性や現実的存在を性質づけることなどが、つまり「生成」であることが語られる。主体は、あくまで生成の最終段階において現れる副次的なものとなる。

読み進めるなかで、実体–属性図式(超越的なもの)と主観主義原理を両立させようとする17世紀哲学に対して、前者を切り落として内在的プロセスへと還元することで改定された主観主義的原理を構成するホワイトヘッド哲学の像が明確になってきている。内在性にとっての神の位置がどこまでも問題になる。主観的経験のうちに発見されないものは哲学的枠組みに受け入れるべきではないという主張が、ホワイトヘッド哲学のもう一つの原理となる。では神はどうなのか。生成を導く原初的目的を与え、生成のうちに予想外の永遠的対象(潜在性)を提供する神そのものの経験可能性は問題として残る。


2023年5月30日

読書会の準備でホワイトヘッド『過程と実在』の第5部を読んでいたら次のように述べていた。「定着した秩序が、別時代の夜明けの淡い不調和な光に柔らかく応じることは、世界の善性に属している」(p. 339)。或る秩序から別の秩序への移行において「善」を捉えるというのは重要であろう。善というものを固定された一定の秩序として捉えるタイプの哲学がライプニッツのものだとすれば、ホワイトヘッドは秩序から秩序への移行において善を見出そうとしている。プロセスそのものの善を考えることで、その諸段階における秩序が善なるものであるとしても、過渡的なものとなる。


2023年6月6日

V, I, 1-3, pp. 337-338 を読み進めた。前回まで第2部を読んでいたがホワイトヘッドの「神」概念が気になりすぎるので、主題として扱われることになる第5部を先に読むことにした。今回の箇所は、まだ神は出てこないが、代わりに理念について論じられている。

流動性と永続性のコントラスト、卓越の条件の秩序と生の新鮮さを強ばらせる秩序のコントラストが、理念の理解のために持ち出される。メディチ家礼拝堂のミケランジェロによる像「朝」「夜」「黄昏」「曙」が例として紹介され、流動のなかにおける瞬間に永遠性が宿るという話が出てくる。永続性は流動からのみ取り出される、という議論を、儚さの美学という仕方で解釈する方向性もあると教えてもらった。イデア的ものが流動的瞬間から上昇していくという構図であり、そのようにしてこそ、瞬間は瑣末なものではない重要性を獲得するなぁと、実感としてはよくわかる議論であった。


2023年6月20日

V, 1, 3-4, pp. 339-340 を読み進めた。新しさとは秩序の上に成り立ち、秩序とは新しさの上に出てくるものであるということを、さまざまな側面から語っている。第3節の最後の箇所では、こうした新しさの場としての有機的身体が語られている。

有機的身体において、古いものの因果的伝達が生による新しさの導入と出会うことで、現前的直接的なものへともたらされている。他の箇所では有機的身体の「運河化 canalization」の議論があったが、ここでも問題となるのは「間」であり、脳の間隙にこそ新しさを生み出す生命が存することが前提となる。有機的身体について、構造体そのものに注目するのか、その構造体に含まれる隙間に注目するのかは大きな違いだろう。伝統的に Organism は構造体として捉えられていたように思うのだが、関係的なものへの視点は、隙間への注目を促すことになる。「その間隙は新しさの器官なのである」(p. 339)。


2023年7月4日

V, 1, 4, p. 340 を読み終えた。「悪の本性」について語られている部分であり、ホワイトヘッドの「弁神論」と言っても良さそうな内容が展開されている(本人にそのモチベーションがあったかは分からないが)。究極的悪とは、過去が色褪せることだと言われる。過去が色褪せるのは、新たに生じてくるものが、過ぎ去ったものと相入れずに妨げあうことに由来する。したがって悪の本性とは、この相互排除ということになるが、そうした妨げ合いの程度をできる限り減らすように世界を展開することによって経験の強度が増大し神的目的へと進展していくことになる。

弁神論的なのは悪を神から外的な秩序におく点である。ライプニッツでも、神が悪を容認するのは、創造が最善律の下にあるがゆえに神自身は最善律に干渉できないことに由来する。悪を生じさせざるを得ない秩序を神から切り離すことで神自身を弁護する仕組みを、ホワイトヘッドにもみることができる。


2023年9月20日

メンバーが国際学会から帰ってきたり、留学から帰ってきたりして、久しぶりに再開した。V, II, 1, pp. 342-343 を読み進める。哲学の伝統のなかで、神は三つの側面すなわち「支配者/道徳的エネルギー/究極原理」で捉えられてきた。これらは歴史的なもの。カエサル的モデル、ヘブライ人予言者モデル、不動の動者モデルといったものが神の性格のうちへと当てはめられてきた。これらに加えて、ガリラヤ的なキリスト教における愛の概念をホワイトヘッドは強調する。「愛は支配することもなければ、不動であることもない。道徳についても、やや忘れがち」。

愛ということを強調することにおいて、ある種の目的に基づいた働きでもなければ、支配的でもないし、不動の動者的な原理でもないような、直接的で現在的で個別的な神の働きの次元を見出そうとする。個別的に生成変化するまさにその瞬間瞬間において働くものとしての愛を神の概念に取り込んでいく。


2023年9月27日

V, II, 2, pp. 343-344 を読み進めた。原初的という側面においてみられた神は、潜在性の概念的実現にとどまるといわれる。第一に、伝統的に神は潜在的ではありえないが、ホワイトヘッドはあえて潜在的なものとして概念的に実現している神の側面を描く。さらに、こうした概念的実現によって、私たちがこの世界で出会うあらゆる特殊なものの前提が与えられることになる。つまり、神という統一のもとにあらゆる特殊性が与えられる。驚くべきことに、このような神的一般性に先立つものとして、創造性が持ち出される。神も我々も等しく従う法としての創造性。

あらゆるものは新規性へと傾くというような、神をも従わせる法を考えることは、例えば、ライプニッツの神が従う理由律や矛盾律といった法と対比的に考えることができる。ホワイトヘッド的な法は、ひたすら新たなものへと向かおうとする強迫観念のようにも見える。


2023年10月4日

V, II, 2-3, pp. 344-345 を読み進めた。神の原初的本性として、範疇的条件(制約?)を例化するしつつ打ち立てるという働きが描かれている。これによって、あらゆる現実的存在が生成消滅していくさいのルールを神自らとして展開していくことになる。こうした現象的に働きを通して、神はこの世界にとっての具体化の原理となっている。無規定的な世界から規定的な世界への移行は、神によって創始され、プロセスを通して達成されることとなる。そうした世界において、神は原初的であるのみならず帰結的でもある。世界の派生的結果として神の本性がある。

この辺りの箇所は、キリスト教的な神概念を根っこに持ちつつも全く違うものも導入されてくる。例えば弁神論的問題——神の創造と悪の実在の調停——も解消される。というのも、ホワイトヘッドは世界を善へと推し進める神から、創造性を切り離してしまうから、問題設定自体が成り立たなくなる。ホワイトヘッド的な神と現実的存在の類比も面白い。心的極と物的極があって、通常の現実的存在における合生プロセスは物的極から心的極へと進展することを繰り返す。他方で、神もまた二つの極をもつが心的極から物的極へと反転された形で進む、全永遠的対象の領域から世界とともに限定されていく。


2023年10月18日

V, 2, 3-4 を読み進めた。神の原初的本性と帰結的本性の対比が図式的に示されるなかで、原初的には無時間的(eternal)である神が、時間的世界においては不朽的(everlasting)なものとして世界のなかに現実化して全てをケアしつつ調和を実現している。

ホワイトヘッドの独特なところは、神がたんに時間的世界を動機づけているのみならず、神もまた世界に動機づけられているという点であろう。帰結的本性としての時間的世界へと自ら入り込むことで、変革を被り、神と世界の相互的なやりとりのなかで新しさを実現していくプロセスが描かれている。


2023年11月1日

V, 2, 5, pp. 345–346 あたりを読み進めた。神は、世界を強制するのでもなければ創造するのでもなく、むしろ「忍耐強くはたらく」ことで「保存〔救済〕する(save)」ものとして描かれる。その上で神は世界を導く「詩人(poet)」だと言われてもいる。

プロセス神学に関係する本として "God as Poet of the World: Exploring Process Theologies"(https://amazon.com/dp/0664230768 ) という本を教えてもらった。どのような詩人を思い浮かべているのかわからないけれど、たしかに出来事を保存するとともに世界を導く存在として詩人を考えるというのはありそう。悪を容認するライプニッツの神と、世界に辛抱強く忍耐するホワイトヘッドの神が話題にもなった。前者は全て計算ずくで悪も含まれるような世界を仕方なく自ら選択する神だが、後者は世界との関係のなかで生じてきてしまう悪を引き受け続けるような神であって、両者はだいぶ異なる仕方で耐え忍んでいる。


2023年11月19日

V, 2, 5, pp. 347–348 を読み進めた。永遠性(神)と流動性(世界)の一見矛盾する二つの相は、一方が他方の「完成(perfect, complete)」であるという仕方で理解されるべきものであることが示されている。両者を結びつける完成概念は重要に思われる。

ホワイトヘッドは6つの定立・反定立(例えば、神が世界を超越する/世界が神を超越する)を列挙して、存在の範疇をきちんと捉えるなら両者ともに真であると考える。カントの第三アンチノミーの議論を想起させる。このとき、両方を真にしているのはおそらく「完成」という動的な概念であろう。「完成」は強度を目指すものとして考えられる。だが、強度を目指すとはどのようなことなのか。強度とは尺度にすぎないのではないか。ライプニッツが最善世界を多様性と秩序という尺度で提示するとき、その形式を通して内実を定めるという動機があったように思う。他方で、ホワイトヘッドはどうだろう。


2023年12月24日

V, 2, 5-6, pp. 349–350 を読んだ。「コントラスト」という概念は、単なる関係を超えて、関係項そのものをも含むものである。コントラストを通常の経験を超えて「神と世界」の関係にも適用するという箇所。このとき「創造性」要素が効いてくることになる。

「新しさへの創造的前進 creative advance into novelty」という神でも世界でもないある種の法のようなものが、すべてを覆っている。第6節では、神と世界の関係から「救済」概念へと進む。ライプニッツ的最善世界と犠牲の問題に対して、ホワイトヘッドなりの回答が示されている箇所として読める。ホワイトヘッドは、抵抗し難い「自らを超え出る価値の感覚」が受難を救済へと転換させるのだと語る。ライプニッツが神の視点に求めた「苦しみ–最善」転換の論理を、私たちの経験から語り直そうとするとき、「ありえない、しかしある」事実としてのその感覚に求める。そこに神が入り込んでくる。


2024年1月13日

V, 2, 7 を読んだ。とりあえず第5部のホワイトヘッド的な神についての議論が読み終わった。次回からは、II, 8 にまで戻って引き続き読み進める予定。神が世界に内在していると考えてきたが、内在と超越という区分ではうまく理解できないことが見えてきた。

たしかに神は世界から超越してはいないのだが、しかし、完全に世界そのものであるというのではなくて、神と世界の間に一定の距離が保たれている。世界にとって神は「理解ある一蓮托生の受難者 the fellow-sufferer who understands」だと言われるように、神は世界と共にある、というべきなのだろう。また、現実的存在にとって強度を目指す神の合目的性とはいかなるものなのか、第5部を読んでいて疑問が残る。第4節で登場した瑣末な悪の議論を考えると、ある種の不調和のうちでも、調和に寄与することのないノイズのような悪があることになる。それはどこから、なぜ生じてくるのだろうか。


以上、2024/01/13 現在