わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

【読書会ログ】第8回『モナドロジー』読書会 §§ 33–36(2015年7月29日)

2024/05/05追記:この記事は2015年頃に開催されていたライプニッツモナドジー』の読書会の当時の記録に多少の修正を加えたものです。内容自体は概ねそのまま維持しています。第8–29回のものが残されているので、それらを順次公開していきます。

第8回モナドジー読書会が開催されました。新規参加者を迎えて5名で、活発な議論が繰り広げられました。以下では、本日の議論の簡単なまとめを掲載します。


まず初めに前回(31節、32節)の復習を兼ねて長綱啓典「ライプニッツにおける充足理由律の射程」2013年『ショーペンハウアー研究』第18号を読んだ。Vincent Carraud, Causa sive ratio で取り上げられていた「原因」と「理由」概念に関する論文で、作出因的な意味での原因概念はこの世界の側に限られ、神においては理由という仕方で「神の原因」が考えられているということが述べられていた。充足理由律ということでライプニッツが考えるのは、クーチュラが述べた「汎論理」性を強調するような意味での理由というよりは、原因の系列の外にまで出て行くことであった。十分な理由の原理とは、例えるのであればある書物の内部の系列をたどることよりも、ある書物の外にその書物が作られた理由を見る。そうした理由は、その書物の外に求められることになる。

Robinetの注によれば、『モナドジー』(以下Mと節番号で表記する)において、M33–35 は M36 が書かれた後につけたされたという。たしかにM32節からM36節に飛んでも問題なく読むことができる。ただし、そうするとM36節で突然「事実の真理」が登場することになってしまうためにその説明としてM33節で「事実の真理」と「思考の真理」をあげているように思われる。また、M34–35 では数学的な仕方との比喩で、M33 の最後に登場した原始的概念がいかなる意味を持つのかを述べる。

モナドジー』第33節について

真理の二種類:思考の真理と事実の真理について。工作舎ライプニッツ著作集のM64注の例を使えば、「シーザーがルビコン河を渡った」と「ルビコン河を渡らなかった」というのは、可能的命題領域(本質命題)においては真とも偽ともいうことができない。渡ったことが真であるといえるのは、存在命題において、つまり事実の記述として「ルビコン河を渡るシーザーが実在し、シーザーを含む世界が実在しているから」ということになる。

ライプニッツによる参照先としてあげられている弁神論の箇所は多数あるが特にいくつか気になったことをあげておく。『弁神論』170節「過去が未来よりも必然的であるかどうか」ということ。ライプニッツによれば、過去が仮定的必然であるのと同様に未来も仮定的必然であるという。過去から未来へと t1–t2–t3–t4 という形で時間が流れているとしよう。t2から見たt1は過去のものであり変えることができないのは一般的な了解である。一方、t2から見たt3が同様に決定されているというのは、結局のところt4から見たときにt3は変えることができないということに由来する。このような見方は俯瞰的なものであるにしても、ライプニッツの内属原理に従えば自然に生じてくる帰結である。そこに人間の視点が入り込んだとき、可能的に他でもありえたことはどのような意味を持つのかは興味深い問題である。

また、M33 であげられた弁神論の参照箇所では、多くの箇所で決定されてはいるが、それは仮定的や道徳的な必然性であり、形而上学的、論理学的な必然性ではないことが執拗に述べられている。たしかに M33 では「事実の真理は偶然的でその反対も可能である」ということが述べらているだけであり、事実真理の様相に関してもう少し詳しい説明が必要だったのであろう。当時、「必然-偶然」「可能-不可能」などの様相概念を言葉の上でしっかりと明示することもライプニッツにとって重要な仕事であった。『弁神論』367節では言葉の多義性が混乱の原因であり、概念をしっかりと区別することの重要性について述べらている。

モナドジー』第34–35節について

原始的な原理や単純概念といった必然的真理を考えるときに還元される先がしめされることになる。読書会では参加者にアリストテレス『分析論後書』における公理、定義、公準などの考えられ方、またそれとは少し異なった形のユークリッド的な定義の区分などを紹介してもらった。公準は「要請」とも言われるという話がでたのだが、ライプニッツ哲学においてはこの「要請」が重要な意味を持つのではないか。というのも、ライプニッツにおける原理や概念は「要請」されるという形で置かれているように思われるからである。

モナドジー』第36節について

今回の読書会では M36 の途中まで議論を進め、無限に関しての議論された。草稿の段階ではライプニッツは「個々の理由に分解していくと無限に細部に至ることができる」と述べていたのであるが、それが「個々の理由に分解していくと限りなく[無際限に]細部に至ることができる」と改められた点を受けて、「無限」と「無際限」について『人間知性新論』における無限の議論を参照した。

無限は真の全体ではないのであり、全体として無限を観念することはできない。

『人間知性新論』2巻17章16節

次の条件が揃えばその観念[永遠の実体的観念、広大無辺性の観念]は真であろうと私はおもいます。その条件というのは、その観念が無限な全体としてではなく絶対として即ち永遠に関して見出される制限のない属性として、神の現実存在の必然性の中で、部分に依存することもなく瞬間の付加によってそれから概念を形成することもなく概念されるという条件です(みすず書房、米山訳。[]は引用者による)。

このように、無限な全体としてではなくて、「絶対」として概念される必要があるのである。この「絶対」という仕方でというのも疑問の余地があるが、今回は時間が来てしまったため終会となった。