わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

【週報】4月29日〜5月5日註解

※ブロック引用されている文章は、特に記載がない場合には自分のSNSからの引用

総括

連休中は明治学院大学以外の勤務がなかったので、普段とは違った時間感覚で過ごすことができた。友達と深夜の新宿の徘徊してみたり、反戦更新に参加したり。できれば、今後の講義準備も進めたいと思っていたが、いざやろうとすると、どうしても進まないので諦めた。もしかすると、数週間後に自分が話す内容を前もって考えるという作業は、直前に考えるよりもだいぶ負荷が高いのかもしれない。もちろん講義に向けて数カ月前から本を読むというようなことは問題なくできるのだけど、じっさいに講義資料を作ったり話す内容を確定するのは、あまり前もってできるタイプではないようだ。

哲学

私が哲学論文を書くときの過程

私が哲学の論文を書くときの手順。問いを立てて、仮説を考える。その仮説のために必要な根拠になる要素を洗い出す。テクストのうちにそのような要素を見出せるかどうかを検討する。仮説が十分に論証できればよし、十分でなければ仮説を変更するか、仮説のうちどの部分までを論証可能かを提示する。

先行研究は、仮説を論証するさいのテクストの読み方に関連して引用されることが多い。「Aという解釈者は、この部分を〜〜と読んでいて云々」などと紹介して、自分がその解釈に同意するかどうかを明確に示す。同意しない場合にはなぜそのように読めないのかを示すために別の論証を持ってくるなど。

じつは哲学研究の場合、研究領域や研究対象によって、だいぶ作業の手順が違うのではないかと思う。ここで挙げているのは、私が「ライプニッツに関する」論文を書くときの手順であって、おそらく他の内容について書くときにはだいぶ違う手順をとることになるだろう。ライプニッツ研究の場合、テクストの性質上、さまざまなものを横断的に読んでいく必要がある場合が多い。というのは、同じ主題についてさまざまな箇所で少しずつ述べるということがあったり、それぞれのテクストで言っていることが違ったりするという事情があるからである。そのため、事前に問いや仮説をかなりきっちり立ててからテクストを探索するという方法をとることになる。

現前そのものへと目を向けること

全てが現前していること。「モノがあり、声が聞こえる、その時点で作品は成⽴している。そこにおいてコンセプトは常にある種の余剰であり、さらに⾔えば、それを再び声として取り込むことすら可能になっている。もはや秘められたものに特権的な居場所はないのである」(三浦「決然とした声を私が聞くとき:村上美樹「オブジェクトの声を聞く旅に出ること」のための⼩論」より)

コンセプトを無効化しようとする村上さんの展示も、犬が人間の言葉の意味ではなく身振りに注目することも、エスノメソドロジーが現れてきているものを分析することも、どれも繋がっているように思う。現前するものへと回帰することの重要性を考えなければならない。

ライプニッツ哲学もまた現前するものへと回帰する哲学の一種であるように思うことがある。微小表象とは、すべてがそこにあるということだから。ただ、その上でやはり現前しきらないというか、現前させるている当のモナドはどこにも現れてこないという影がある。この影もまた改めて大事かもと思う。

数年前に天理市で行われた村上さんの展示を訪れて、レビューとして——レビューというより個人的な手紙みたいなものだけれど——文章を寄せたことがある。そのときからずっと考えているのは、裏側というものを無効化して、表面への眼差しを徹底化することである。奥深さを読み取るための表面ではなくて、表面そのものをそのまま享受するような眼差しの在り方を考えることはできないだろうか。

私の考えでは、表面への眼差しを徹底化することは、同時に、その背後の世界を徹底化することでもあるように思う。つまり「表面/背後」の断絶を徹底するということこそ、表面を表面たらしめ、背後を背後たらしめることになる。両者の間の交通不可能性を語ったのはライプニッツであり、その間には予定調和といういかなる因果関係もない対応のみが存すると考えていた。

読んだもの

山田俊弘『ジオコスモスの変容: デカルトからライプニッツまでの地球論』勁草書房, 2017.

『ジオコスモスの変容』を読んでいる。私たちが「地球」というものを何だと思うか、ということは大事だろう。哲学が私たちの常識から出発して、それを説明する論理を提供するものだとすれば、私たちの常識の最たるものとしての大地が何物であるかによって哲学もまた変容することになるのではないか。

友人と一緒に読んだ。「地球」そのものが思想史のなかで問題化してくる経緯が描かれていて、学ぶところの多い著作である。デカルトやフックなどの化石や地震に関する議論を背景にしながら、どのようにステノの『プロドロムス』が出てくることになったかが語られていく。ステノは「固体のなかの固体」ひとつの大きなカテゴリーのうちに含めるかたちで、鉱物や化石、地層というものがまとめている点はとても面白い。こうした発想は、そのまま生物個体のうちでの個体の発生という生物学的な議論と接続することを容易にするし、じっさいステノはミクロコスモスとジオコスモスを類比的に考えていたようである。

論文 Goldie, Peter. (2009). “Narrative Thinking, Emotion, and Planning.”

文学・フィクションの読書会に参加。非現実的エピソードに私たちが関わることについて、ナラティブが重要な役割を果たしているということについて論じている Goldie[2009] を第3節まで読んだ。「ナラティブ時間」概念を用いて未来の可能性を考える部分が気になっている。

感想。自分がどういう状況に置かれているかの物語的位置を設定するところから、特に自分の未来についてどのような態度をとるべきかを考えることは、ある意味では、ライプニッツにおける「劫罰に処された者」や、マルクスにおける疎外された労働者の行為にも繋がる議論だなと思って話を聞いていた。

論文の詳しい情報はこちら。美学とフィクションの読書会に参加して読んだ。ナラティブという概念を使うこと自体に反対する論者もいるそうだが、この論文では、そうした概念によってこそ私たちは非現実的エピソードに関わることができるのであり、そうした現実的働きをするものとしてナラティブの重要性を訴えている。

活動

The Five Books モナドジー講義の参加募集開始しました

ライプニッツ哲学はビックリするような内容で面白いので、みなさんドシドシご参加ください!「モナド」という概念はとても難解ですが、予定調和説や生き物に関する議論と一緒に考えてみると少し光が見えてくるのではないかと考えています。一緒に悩みましょう。

6月2日から毎週日曜日20時開催。『モナドジー』を扱うのは1年ちょっとぶりで、3回目となるけれど、毎回たくさんの参加者が集まってくれて有り難い。まだまだ募集しています。詳しいシラバス等は以下の記事にまとめてあります。

philoglasses.hatenablog.jp

モナドジー読書会のログを更新

9年ほど前に開催されていた読書会に関して、当時のログを順次公開します。第7回以前と第30回以降は、私の怠惰で残されていませんが、それ以外の部分を少しずつ記事にします。

私が修士課程にあがってすぐのころにやっていた『モナドジー』の読書会の記録が、べつのブログに非公開の状態で残っている。日本語が適当なので、すこし修正しながら順次公開していく予定。すべての回が残っているわけではないのが惜しいところだが、ある分だけでも公開したい。第8回をとりあえず更新した。

学術バーQに遊びに行った

御徒町に最近新しくできた「学術バーQ」に初めて行った。先客の人が、アウグスティヌスラテン語を読んでいて、大変に学術的なバーであることだなぁと思った。内装もまだ出来たばかりで、新築の香りが漂う心地よい空間。イベントを開催するのに良さそうな席の配置で、今後どのように展開していくのか楽しみ。

その他

中学のとき、友達の家のガレージでバンドの練習していたら「うるさい」って警察が来たのが、初めて警察とまともに触れ合った瞬間であった。たしかにドラムはさすがにうるさいとは思う。

このときのことは時々思い出す。あのとき警察官は「私もむかし音楽の経験があるのでわかるのだけどね」という、〈気持ちはわかる〉的な仕方で近づいてきた。当時の私は今よりもずっと素直だったのでこうした擦り寄りを少なからず嬉しく思ってしまったが、今では警察官が下手に出てくる態度をあまり好ましいものとは考えていない。

しらたまちゃんと旅の道中で出会ったものを報告し合う。私は、ヤギの髭の立派さを、向こうは枝にぶら下がるアオムシの懸垂を。

この人の眼に映る世界が好き。枝にぶら下がる青虫の懸垂を見つめる眼を、私も見習いたいと思う。そういう気持ちを保存しておきたくて、簡単な曲を作った。

「最近見たこと聞いたこと」 ねずみのあまやどり
じっと世の中をみつめている
雨の日も眠らずに ちりとりのしたで
あおむしけんすい
風に揺れる枝にひっつき
いつかチョウになるとき
レーニングが生きてくるね