【読書感想文】酒井健太朗『アリストテレスの知識論:『分析論後書』の統一的解釈の試み』九州大学出版会, 2020.

酒井健太朗『アリストテレスの知識論:『分析論後書』の統一的解釈の試み』(九州大学出版会, 2020)の各章に対する私のメモと、全体に関する簡単な感想をまとめておく。本書は博士論文(2018)がもとになっているということもあり、新しくて野心的でありながら、詳細な議論が展開され、高い熱量を包蔵した著作であったことを、まず述べておきたい。

  

全体に関する感想

題名にもある通り本書では、『分析論後書』が全体として何をしているのか、という問題に関して統一的な答えを提出しているように思われる。アリストテレス自身のテクスト上の混迷だけでなく、研究史上の混迷をも乗り越えて、ひとつの筋道をつけるような一冊であった。10の章に対応する、あるいは4の部に対応する個々の議論においては、丁寧に先行研究が批判検討され酒井氏自身の見解が示されている。ややもすると複雑な議論のつながりの中で迷子になりかねないところを、適宜挿入される「前節では〜」という指標や、「第○部では〜」というマップによって助けられた。ありがちな比喩になってしまうが、著者とともに山を登るような感覚の本であり、最終的に頂上(「結論」)から見下ろす全体は、清々しいものがあった。

本書を読んで、アリストテレスのバランス感覚を思い知った。知識というものの客観的なあり方を論じつつも、それが常に「われわれにとって」のものであるということは重要である。後にカントがなしたような仕事とは別の方向から、知識の客観性が担保されているようにも思われる。すなわち「専門家」およびその共同体によって共有された言葉への着目という点である。これには驚かされた。それを読みながら、私の頭のなかには17世紀にアカデミー的な学問共同体を構想していたライプニッツの姿があった。

ライプニッツが立つ代数的な思考の次元においてもまた、記号とはある種の省略であり、より高い知識へとたどり着くための道具となっているといえよう。原理や原因がどのようになっているかをいったん脇に置いて記号として対象を扱うことで、毎度毎度その「実在的定義」を参照する必要を取り除くのである。このことは学問の協働ということを容易にするし、それを進展させるという点では必要不可欠でもある。

アリストテレスの(とりわけ『後書』における)知識論が教えてくれるのは、まさに個別学問を始める前に知るべき方法論であり、ある意味では学問一般(形而上学に対する態度と、他の学問に対する態度は異なることが第10章では示されてはいたので、そこには区別が必要ではあるのかもしれないが)に対する態度であったように思う。「哲学研究は、より大きな一般性に向かっての航海である」とホワイトヘッドは述べたが、アリストテレスの「オルガノン」(学問の道具)は、そのような一般性を提供する道具ともなるものであろうか。

普段はアリストテレスの関するものを読むことはあまりないので、慣れない読書で大変ではあったが、多くの刺激をうけることができた。酒井氏の本をきっかけにして、今後は、この辺のトピックにも少しずつ触れてゆきたいと思う。感謝、感謝。

各章に関する読書メモ

「序論」

『分析論後書』に関する硏究史の簡単な整理とその解釈上の困難に関する紹介、本書の目的が提示される。「『後書』の有用性と限界点を指摘し, 可能な限り統一的なアリストテレスの知識論を抽出することを目的とする」(9)。何についてどの観点から一貫性を見出すかが重要になってくる。

研究史における『後書』の他のアリストテレス著作間での位置づけのコンセンサスのなさに加えて、その本自体の内容がもつ「手稿の蒐集」(9)とも言えるような統一感のなさ、この二つの側面に対してある種の秩序を与えてあげることが、この本でなされるべき課題であると理解した(読了後、この課題は果たされたと感じた)。

第1章「『分析論』における「分析」の意味」

アリストテレス知識論を、分析と総合という観点から掘り下げてゆくために、本章では特に「分析」概念が明確化される。古代数学で用いられた分析概念は、アリストテレスにおいては幾何学にとどまらず一般言明や行為にまで拡張されている点が指摘される。

『後書』における「探究」概念が分析と同様のものであることが示される。月と触をつなぐ中項「地球の遮り」を見出す作業こそが分析であり、こうして与えられる原因の探究を進めることで因果的な定義を最終的に決定することが目指される。また中項の発見は論証(推論)に組み入れられ総合されもする。

第2章「必然性・自体性・普遍性:『後書』第1巻第4章–第6章」

論証的知識は必然性を要求するが、その際の必然性をアリストテレスがどのようなものとして考えていたのかについて、本章では自体性と普遍性の概念を軸にして論じられている。最終的に必然性の程度を許容する知識の在り方が提示される。

アリストテレスは自体性の概念を「何であるか」に関わるような形而上学的なものを超えて、より拡張されたものを考えている。そこでは、釣り合いの取れた普遍という論理的必然性が入り込むことで、形而上学的必然性だけでは不完全なままである論証をより理想的なものへと仕立て上げることが可能となる。

第3章「基礎措定と定義」

論証の原理に含まれる措定は、基礎措定と定義とに区分される。本章ではそれぞれの内実を明らかにした上で、単に基礎措定から定義への一方的な関係ではなく、相補的な関係があることが示される。基礎措定は、論証以前に論証に登場する被定義項の存在を措定するものである。

他方、定義は基礎措定によって置かれた類の存在を踏まえ、それが何であるか(「QはTである」)を示すものである。「アリストテレスにとって学的論証の探究は存在するものか進行する」(72)ため、基礎措定は重要な役割を果たすが、定義なしに基礎措定は働くことができないため両者は相補的だとされる。

第4章「類と自体的属性」

本章では『後書』第2巻第13章が検討される。とりわけ、混雑した仕方で示されている類と最下の種、自体的属性等の関係を明晰なものとし、その作業を通して、アリストテレスの知識論におけるこのテクストの位置づけを示すこととなる。また他のいくつかの解釈も批判される。

ここでの論証とは、複数の類に関するものではなく、ある特定の類において自体的な属性を明らかにするものである。例えば、幾何学の類において、線などの最下の種の定義から付帯的に生じる事象の自体的属性を示す作業が論証となる。この方法論は知識論において論証を超え探究にも拡張可能性を持つ。

第5章「「名目的定義」の問題」

第2部は『後書』第1巻の論証理論が中心的に扱われてきたが、ここからの第3部では第2巻の探究論へと話題が移ってゆく。本章では探究の端緒となるところの「名目的定義」が、アリストテレスが提示する他の3つの定義とともに提示され、それぞれの関係が明らかになる。

従来の研究では名目的定義そのものの重要性が低く見積もられることがあったが、この定義を、探究の端緒、つまり現象に関して原因(中項)までを含んだ「完全な定義」へと辿り着く前段階「部分的定義」として解釈することで、その重要性と必要性を明確にしている。

第6章「『後書』における「意味表示」と「ある」の問題」

対象となっている概念の意味と存在の関係を検討する章。「種語の意味を(存在するものの)指示や本質に関係するもの」(116)として捉え、意味と存在の結びつきを強くとる現代本質主義に対して、ある解釈者はその関係を弱くとってもいる。

本章では、アリストテレスの意味論が現代本質主義と(同一ではないにせよ)近いものであることが示される。このことは、彼の論証が単に言葉の上でのものではなく対象の実在を含意するものである、ということにも関わってくる。「存在」と「何であるか」により食い込んだ概念」(129)としての意味表示が提示される。

第7章「アリストテレスの探究プログラム」

「Xがあるかどうか」という探究が、いかにして「Xという事実」と区別され、「Xは何であるか」という問いに先立つのか、が本章で論じられることである。まず「Xという事実」の探究はデータ収集であり、「あるかどうか」は名指されるものの存在の探究である。

また「Xが何であるか」に「Xがあるかどうか」が先立つのは部分的定義を知るということにおいてである。さらに不確定な仕方ではあるが名指されたものの中項が予測されるという意味で、あるかどうかの問いは中項探究と重ね合わされる。ここまで第3部の議論を通して、論証と探究の相補性が明らかになる。

第8章「意味と思考」

『命題論』の解釈から語の意味が実在に由来すること、さらに虚構的対象(ここでは合成名詞=山羊鹿が検討される)に関しても間接的な仕方で実在への参照を有している。このような意味論を『感覚と感覚されるものについて』のテクストから拡張する可能性を探ることとなる。

実在そのものへの参照なしに、すでに共有されている言葉によってその対象の意味内容を獲得することができる。このことは「すべての人の協力から真理の入り口に立つことができる」というアリストテレスの楽観的真理観の前提となっており、言い換えれば彼の意味論が知識論の背景となっていることを示す。

第9章「第一原理の布置—経験と知性」

この章では、『後書』第2巻第19章に関して、経験からいかにして第一原理や基礎に置かれる類といったものが導き出されるのかが論じられる。さらに、そのことから経験的な事柄と知性的な事柄との関係も論じられることとなる。

事実のリストを連言的に有しているがその原因を把握していない状態が経験である一方で、それらの基礎に置かれる類を原理として認識し、その真理性から知識を確実なものにできる状態を知性とすることになる。このような意味で、アリストテレスは経験主義者でありかつつも、知性主義的でもあるとされる。

直接本章には関係ないが、ライプニッツが『モナドジー』第28節で述べる経験派の医者への批判を想起する。表象の連結が記憶による場合には経験的である一方で、精神はそれを理性的な根拠に基づいても把握する。明日も夜が明けることの判断は誰もがしているが、天文学者においてのみ理性的なのだ。

第10章「『後書』は誰が読むべき著作か」

ここでは少し議論が変わって、これまで語られてきた論証や探究の方法論的な記述が、どのような人々に向けられたものであったのかが検討される。聴衆の明確化は、読解の上で重要であり、それに基づいて内容を差し引いたり付け足したりして解釈する必要があるだろう。

『後書』の聴講者は、個別学問の専門家ではなく、推論や論証について体系的な知識を持たない者であり、彼らに学問の方法論を教えることが目指されている。この方法論は形而上学には避けるべきものとして、それ以外の学には適用されるべきものとして、個別の学以前に学ばれるべきものである。

結論

確実な知識とは何か、10の観点を巡ってなされてきた議論が、異なる順序で配列されまとめ直されることで明晰に提示される。アリストテレスの考える知識論は、外在主義的でありながら、認識主体が何に「信を置く」かということに関わるような内在主義的傾向をも持ち合わせたものであった。

そのような知識は、専門家集団に由来すると同時に、そこに属する一人一人の認知能力「徳」にも関わるという点で、個人主義的でありながら「社会化された認識論」にも親和性をもつ。個人的には、こういった学問観と、スコラの討論形式や近世的アカデミー、啓蒙時代の百科全書との関係など気になった。