わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

【災害ボランティア】石川県珠洲市での活動の記録(2024年3月11日)

危険 UNSAFE

この建築物に立ち入ることは危険です。立ち入る場合は専門家に相談し、応急措置を行った後にしてください。

——被災家屋に貼られた応急危険度判定の赤い用紙

2024年3月9日–10日に金沢市内のしいのき迎賓館にて日本ライプニッツ協会第9回春季大会が開催された。ちょうど北陸応援きっぷ(往復の新幹線と4日間の北陸フリーパスがついている)の発売期間でもあり、これを用いて埼玉から金沢へと向かうことにした。学会自体は土日で終了し、そのあとは特に予定もなかったので、能登半島地震の災害ボランティアに参加することにした。以下では、準備から帰宅までの一連の出来事を思い出せる限りで記録しておく。

準備(3月5日–8日)

学会発表の原稿に頭を抱えながら現実逃避をする。発表を終えて開放された自分を想像しながら、終了後の予定を考えていた。不意にテレビでみた能登半島の様子を思い出し、災害ボランティアについてインターネットで調べる。「珠洲市災害ボランティアセンター」のサイトにアクセスすると、福井市内から珠洲市までのボランティアのためのバスが運行しているという情報を見つけることができた(こちら)。朝4時30分に福井県立大学駐車場に集合し、9時頃に珠洲市に到着、16時ごろまで現地で活動し、20時30分ごろに出発地に戻ってくるという行程のもの。被災地にボランティアに行くのは初めての経験だったので、自分に何ができるのかも分からず、応募するかを悩んでいた。

原稿を書き進めては、ボランティアのサイトを眺め、ということを3度ほど繰り返したところで、ようやく行くことを決心した。元来、私は決断が早いタイプの人間ではない——というより様々な可能性を比較することを好む——ので、これは比較的早い決心だったといって良いだろう。

災害ボランティアの仕事は、瓦礫の撤去やゴミの運搬などである。活動するための持ち物が応募サイトに掲載されていた。作業用手袋、踏み抜き防止インソール、ヘルメットは自宅に用意がなかったため急遽 Amazon で購入した。全部で5000–6000円くらいで揃えることができた。ちなみに、ミドリ安全の耐切創手袋はタイトなので大きめのものを買うのがよい。私は最初Mサイズを購入したが、装着してみると少し小さめだったので改めてLサイズを購入した(私は身長170センチ男性、手のサイズは普通だと思う)。

靴はレッドウイングのクラシックブーツ。現場によっては泥だらけの場所を歩くこともあるので、できれば長靴などがあればよいが、今回は学会後の参加なので長靴は持っていくことができなかった。着替えも最低限しか持込むことができなかったが、できれば替えのズボンなどもあると安心して作業できたと思う。瓦礫の粉塵も考えるとマスクもきちんとしたものがあると良いだろう。

前日(3月10日)

学会で研究発表を行い(発表内容はこちら)、17時ごろまでシンポジウムに参加。翌日の集合場所の福井県立大学は、福井駅から少し離れた場所にあるということもホテルクージュ福井を予約。特急しらさぎ福井駅まで移動して、そこからバスで宿泊先まで40分ほど移動。夜だったこともあり到着したバス停からさらに25分ほど歩く必要があった。

ホテル前に辿り着くと巨大な恐竜(ティラノサウルス?)のオブジェが入り口前に設置されていた。入り口を入ると、身長と同じくらいのサイズの恐竜の卵や小型恐竜の置物が迎えてくれた。福井といえば恐竜だし、せっかくなら友人が働いていた恐竜博物館にも行きたかったが、今回は時間の関係で断念した。

当日の移動(3月11日4–9時)

朝4時半に福井県立大学第三駐車場に集合ということだったので、3時過ぎに起床。前日にコンビニで買っておいたコーンパンを食べてコーヒーを飲んだ。残りふたつのパンと飲み物をリュックに入れて、3時50分頃にホテルを出発した。川沿いの土手を歩いて集合場所に向かう。街灯などは全くないので道は真っ暗であった。星はよく見えるにせよ、あまりにも心細い。まだ寒い道を、携帯のライトで道を照らして時折すれ違う車に轢かれないように気をつけながら進んでいく。4時20分頃に集合場所に到着した。

駐車場には大型のバスが一台停車しており、その横には福井県庁から来ているという若い担当職員が参加者の確認をしていた。挨拶をしてバスに乗り込む。すでに十数名の参加者が乗車しており、軽く会釈しながら進み真ん中あたりの座席についた。ざっと見たところでは参加者の年齢層は高めな印象で、30代前後の人は私ともう1名くらいであったと思う。男女比は明らかに男性の方が多かったが、女性の参加者も数名いた。

最終的にこの日は21名が集まり、出発。バスのマイクを用いて、県庁職員がボランティアについての説明を行っていた。加賀ICから高速道路に入る。消灯したバスの車内から外を眺めているとやがて海沿いの道に出た。少しずつ白んできた空に照らされて海が輝き始めたころ、最初のトイレ休憩のためのサービスエリアに到着した。

のと里山海道に沿って進んでいくと、だんだん道の凹凸が激しくなる。ところどころ道路が崩落してしまっていた。崩れ落ちたアスファルトを跨ぐようにしてガードレールが宙吊りの状態になっているは印象的であった。穴水町に近づくと道のひび割れなども酷く、まっすぐ走れる道はほとんど残っていなかった。障害を左右に避けながらゆっくりと進んでいく。

穴水町に入ると、墓石が倒れたり、横を向いたりしているのが目に付いた。壁の崩れた家や、ブルーシートがかけられた屋根も多くある。「危険 落下物注意」と書かれた赤い紙が玄関に貼られている家もあった。張り紙の赤さが色褪せてきていて、地震発生からもう2ヶ月以上の月日が流れていることを感じる。家によっては黄色い紙に「要注意」と書かれたものが貼られてもいた。

穴水町内の道は少し渋滞気味であった。バスの運転手によれば、渋滞は通勤ラッシュによるものだとのことであった(帰りもちょうど帰宅ラッシュの時間帯で混んでいた)。こうした状況であっても働かねばならないし、働くこと自体が救いだということもあるだろう。土砂崩れで大量の土砂と杉の木が畑に流れ込み、道路脇を流れる川の上にも橋を架けるように横たわっていた。

穴水町を抜けて、のと里山空港でトイレ休憩。このバス移動では、この場所が最後の水洗トイレとのことであった(珠洲市のボランティアセンターでは仮設トイレが設置されているのみである)。ここから50分ほどで目的のボランティアセンターに到着するとアナウンスがあった。この日は天気も良くて気温もだいぶ上がってきていた。

現地(3月11日9–16時)

珠洲市災害ボランティアセンターには、大きなガレージにパイプ椅子や机が並べられていた。到着すると、まず説明や仕事の割り振りなどが行われた。前方のホワイトボードには、その日にどこでどのグループが何の作業をしているか、どのトラックがどこに出ているのか、などの情報が一元化されて書き込まれていた。壁には宮城の人々からのメッセージや小中学校からのイラスト入りのメッセージなどが飾られているのも印象的であった。

福井県からの参加した私たちは「チームふくい」と書かれた黄色いビブスに、名前や所属(この場合は「福井県」であった)などを書いたシールを貼り付ける。他の団体は赤いビブスを身に付けるなど団体ごとに見分けがつくようになっていた。

説明を受けた上で、この日、私たちの団体に割り振られた依頼は三つ。高齢者の家の片づけ、瓦礫の運搬、倒壊家屋から出たゴミの撤去という仕事を、約7人ずつ3グループに分けて担当することになった(高齢者の家の片づけは体力に自信がない人でも問題ないとのことであった)。特に、瓦礫の運搬やゴミの撤去は、軽トラックや2tトラックを運転できる人員が必要である。私は運転できないのだが、倒壊家屋のゴミの撤去グループに入り、軽トラックの助手席に乗って移動させてもらうことになった。

福井から既に何度か参加しているという60代前後に見える優しそうなおじさんが運転する軽トラックに乗せてもらう。まず、最初から荷台に積まれていた瓦礫を鉢ヶ崎海水浴場の駐車場に作られた災害ゴミの仮置き場へと運び込む必要があった。ボランティアセンターから20–30分車を走らせていく。何軒かに一軒は倒壊しており、倒壊しておらずとも壁がはがれ落ちたり屋根瓦が落ちているのが目に付いた。電柱や信号などは斜めに傾いており、いくつかの信号は機能しなくなっていた。道路は、いたるところ段差ができており慎重に車を走らせる必要がありそうだった。

災害ゴミの仮置き場には、入り口で登録証を見せて入る。広い場内は、ゴミの種類によって区域分けがなされており、壁材やブロック、木材、家電、畳、布団など、それぞれの場所に運び込む必要があった。瓦礫を軽トラごと移動させて、荷台から現場に設置された大きな袋に移していく。現場に多くの作業員が駐在しており、どこに運べばいいかわからないようなゴミがあった場合には作業員に聞くと教えてくれる。ゴミの仕分けはけっこう厳しく、例えば泥まみれの瓦礫などはリサイクルがむずかしいので別のところへと運ぶ必要があった。一通り積み荷を降ろして、現場へと向かう。

私たちのグループの担当現場は大谷町であった。珠洲市街地は能登半島の東側に位置するが、西側の海岸もまた珠洲市に含まれている。大谷町はこの西側にある町で、大谷峠を越えて向こう側へと行く必要がある。途中まで軽トラを走らせたところで、大谷峠の入り口が閉鎖されてしまっていた。カーナビを再設定し迂回路から大谷町へと向かう。こちらの道も寸断されており、途中からは土を盛った上に鉄板を敷いた仮説路を通って現場へと向かう。基本的にどこも一車線であり対向車とは譲り合って前に進んでいくような形であった。途中、自衛隊の車両とも何度かすれ違った。

現場は特に被害の大きな地域に見えた。軒並み家は倒壊しており、そこに裏から土砂が流れ込んでいるというような状況で、何もかもが破壊されてしまっている。土砂に埋もれた金属製の鍋蓋がぐにゃぐにゃに変形して埋まっていた。原形を失った車のボディも近くに転がっていた。土砂崩れがいかに大きなエネルギーを持っているのかを思い知らされる。現場の土砂の一画には、少し古くなった花束と、まだ新しい花束がひとつずつ置かれていた。後から聞いて知ったのだが、ちょうど同じ場所で自衛隊が行った救出活動が東京新聞の記事になっていた。

私たちの仕事は、倒壊した家屋の横にある公園に出された家具や瓦礫をトラックに積み込んで災害ゴミの仮置き場へと運ぶことであった。細かいものについてはできる限り仕分けして荷台に乗せていく。問題は、泥だらけになった畳で、水を吸ってものすごく重くなっていた。グループメンバー総出でひとつの畳を持ち上げて、猫車も使いつつ皆でトラックまで運び込んでいく。地面はぬかるんでいて靴は泥だらけになり、人によっては全身泥だらけになっていた(雨の日などはさらに大変だと思うので、やはり長靴と着替えは必須だろう)。

現場である程度作業したところで正午となり、30分ほどの昼休憩をとった。持ってきたお茶とコロッケパンを食べ、他の参加者の人たちと少し会話をする。ブラブラ周囲を散歩してみたが、どこもかしこも壊れ、崩れ、元の形を失っていた。昼食後、すぐに作業を再開して引き続き廃棄物を積み込んでいく。

一通りゴミを積み終えて、再び災害ゴミの仮置き場へと戻る。重い畳を何枚も積んで重くなった軽トラで山道を走る。明らかに行きとは違うエンジン音がした。仮置き場では、駐在の作業員に仕分け方を教えてもらいながら少しずつ移動してゴミを捨てていった。金属製の運動器具や、鏡など、よくわからないものも多かったが、概ねすべて引き取ってもらうことができた。

時間があればもう一往復したかったが、ゴミ置き場は15時までに受付をする必要があることから、難しいと判断してボランティアセンターに戻る。14時過ぎにセンターに戻り16時ごろに来るというバスを待つことになった。ご自由にお持ちください、と書かれた段ボールにスポーツドリンクやお茶が入っており、せっかくなので一本もらった。

センターのパイプ椅子でのんびりしていると、同じグループだった参加者に話しかけられ身の上話を交わす。どうやら福井の大学職員らしく、同じ大学の教員と一緒に参加したのだという。そして、なぜかこの二人と記念撮影することになった——帰りのバスの離れた席からLINEで、二人に挟まれぎこちなく笑う私の写真を送られてきて、少し愉快であった。ボランティア中は、プライバシーの問題などもあり基本的には現場で写真を撮ることなどが禁止だったので、私にとって貴重な写真となった。

福井への帰路(3月11日16–20時30分)

帰りのバスも行きと同じ道を通って戻っていく。疲れてウトウトしながら、時折くる地面の凹凸による衝撃で目を覚ますことを繰り返していた。途中で二度サービスエリアに立ち寄り飲み物や食べ物を補給しながら、予定通り20時半頃には福井県立大学の駐車場へと戻ることができた。バスから降りるとき、運転手が労いの言葉をかけてくれた。運転手にとっても大変な道のりだっただろうと思う。

バスを降りて参加者たちが解散していく。歩きで集合場所まで来ているのは私だけで、他はみな車に乗り込んで去っていった。私は早朝と同じ道を歩いてホテルにもどる。21時前にはホテルに到着しホテルの食堂で1杯のビールとボルガライス(福井のご当地グルメらしい)を食べた、シャワーを浴び、就寝した。

感想

災害ボランティアに参加してみたものの、大したことはできなかったように思う。重機を操縦できるわけでもなければ、軽トラさえ運転できない。ただ皆と一緒に重い畳や瓦礫を持ち上げて、次の日には筋肉痛になっていただけであった。私にできたことは微々たるもので、甚大な災害にとって無に等しい働きだったかもしれない。

だがおそらく、そうした無力感とこそ戦わなければいけないのだろう。もちろん軽トラくらい運転できるようにはなりたいと思うが、自分にできることを諦めてはならないとも思う。何もできないということはおそらくあり得ず、どんなに小さくても何かができる。

帰りのバスから外を眺めていたら、夕日と曇り空で、夢のような雰囲気に包まれた七尾北湾を見ることができた。とても美しい景色だった。軽トラを運転してくれたおじさんは、この場所の復興には何年もかかるだろうと言っていたが、もしその日が来たならば改めて観光に訪れたいと思う。それまでにまた、ボランティアとして手伝いに行くこともあるかもしれない。

最後に私自身の考えを少しだけ書いておきたい。

1755年にポルトガルリスボン付近を震源とする大地震が起きた。津波による被害も含めて数万人が亡くなったという。次の年、ヴォルテールは「リスボン地震に寄せる詩」を発表している。

おお、不幸な人間たち、おお、呪われた地球
おお、死すべき者たちの恐ろしい群
「すべては善である」と唱える歪んだ哲学者よ
来い、すさまじい破壊の様子をよーく見るがいい

ヴォルテールリスボン地震に寄せる詩」光文社古典新訳文庫, 2015, 232頁

歪んだ哲学者とは17世紀の著名な哲学者ライプニッツのことである。この世界は最善であり、この世に生じる悪はすべて善への義性であるという最善説を唱えたライプニッツに対する、ヴォルテールの痛烈な批判が上の引用である。ある意味ではこの批判は正しいと思う。

だが、ライプニッツはそうした善を手放しで信じていたわけではない。たしかに、この世界は最善だとライプニッツは述べていたが、それは他でもなく私たちが現に生きているこの世界のことであった。私たちは自分が善いと思うことをするしかない。そうした行いがどんなものであれ、それらがこの世界を最善へと導くものだというのがライプニッツの最善説であった。最初からこの世界が最善なのではなく、私たちの振る舞いとともに最善の世界が作り上げられていくのである。

私はこの世界の向かう先が最善であるのかどうかを知らない。頑張れば必ず善い世界が訪れるとも思っていない。それでも、他の人のために何かをしたいと思ったならば、自分自身が善いと思うことを行うしかないだろう——各々の善が一般には「悪」と呼ばれることもあるかもしれないとしても。そうした各自の善の積み重ね以外には世界の善性はないのだと、私は信じている。