わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

【読書会】隅田聡一郎『国家に抗するマルクス:「政治の他律性」について』に関する覚書

数年前からやっている〈マルクス入門読書会〉で隅田聡一郎『国家に抗するマルクス:「政治の他律性」について』(堀之内出版, 2023)を読み終えたので、その記録を残す。この読書会は、日本中世史を研究している友人とふたりで行っている会で、マルクス主義史学の再検討のためにマルクス研究を学ぼうという趣旨で始めたものである。未だその目標にはほど遠いが、目下の研究に直接関わるものでもないので、地道に続けていきたい。

これまで読んできた書籍は以下である。

  1. マルクス「資本制生産に先行する諸形態」『マルクス・コレクション3』収録(筑摩書房
  2. 佐々木隆治『カール・マルクス:「資本主義」と戦った社会思想家』(ちくま新書
  3. 佐々木隆治『新版 マルクスの物象化論:資本主義批判としての素材の思想』(堀之内出版)
  4. 田畑稔『増補新版 マルクスとアソシエーション:マルクス再読の試み』(新泉社)
  5. アンダーソン『周縁のマルクスナショナリズムエスニシティおよび非西洋社会について』(社会評論社
  6. ポストン『時間・労働・支配:マルクス理論の新地平』(筑摩書房)※途中で挫折中

以前「資本制生産に先行する諸形態」を読み終えたさい、内容の復習として隅田さんの論文「マルクス「本源的所有」論の再検討——「資本主義的生産に先行する諸形態」における「私的所有」と「個人的所有」の差異——」(『社会思想史研究』第38号掲載)を読んだということもあり、今回は同氏がちょうど書籍化された博士論文を読むことになった。

基本的にマルクス研究について何も知らない状態から始めている読書会なので、書かれていることの全てが私たちにとっては新情報であった。だが、明晰な筆致のおかげで最後まで読み通すことができた——私たちの知識不足ゆえに、多くの内容を取りこぼし、読み違えながらのことではあると思うが。特に、政治や国家というものが、マルクスの理論にどのように関わるのかという点について大変勉強になった。

以下では、読書会の各回終了後にX上に投稿した感想に加筆・修正を加えつつまとめて掲載しておく(ただし、最後の章とあとがき部分についてはXに投稿していないため、こちらで新たに書いたものである)。


2023年9月4日

冒頭から p.36 までを読んだ。政治を経済に還元するのでも、政治の自律性を強調するのでもない仕方でマルクスを読み解いていくこと目指す。フーコー的方法も参照しつつポリティカル・エコノミー批判との関係で政治の位置を見定めながら、本書の主題である「政治の他律性」の発想を取り出していく。

9月19日

第1章「未完の国家批判:「国家導出論争」再考」
マルクス研究史を振り返りながら、政治の「自律性/他律性」の観点から再構成していくパート。グラムシマルクス解釈をどう受け取るべきか、国家導出論争(この本で初めて知った)をどう理解すべきか、など勉強になる。

10月1日

第2章「近代国家とブルジョワ社会:国家批判からポリティカル・エコノミー批判へ」
ヘーゲルが先立って提示していたような、政治的、国家的領域と、社会的、私的領域の二元主義が近代の特徴であるとすれば、その変革の可能性をどこに見出すことができるのかが問題となる。マルクスは、国家の解消によってブルジョワ社会をも解消するという方針から、ブルジョワ社会の変革によって政治的領域のあり方を変えるという方向へとシフトする。これは、人々の生活や労働のあり方が変革されない限りは、国家形態も維持されざるを得ないという発想に基づいている。

スピノザが『神学・政治論』において、どんなに強い権力でも人間本性に反するようなことを命じることはできないし、もし命じるならば権力自体の危機を引き起こすことになりかねない、ということを述べていた(cf. 上野修スピノザ『神学政治論』を読む』)。こうした制約は、本書で指摘される、国家の租税源泉の制約に関する次の議論にも関わるように思う。

資本の国家はたんに暴力的強制にもとづいて私的所有者(主として賃労働者・資本家・地主の三大階級)から富を捕獲するわけではない。というのも、国家租税の収入源線は、資本主義社会において本質的に剰余価値の一部であるほかなく、資本の再生産および蓄積過程に制約されているからだ」(p. 134)

10月21日

第3章「無産国家:資本主義の政治的形態」
上部構造と土台の連続性を考えるうえで、政治的なものがどのような形で経済的なものに関わっていくかを分析する観点が重要になる。この分析のために、前資本主義体制と資本主義体制、それぞれにおける国家の機能に注目していく章。

前資本主義においては国家が共同的なものの創設に直接関わっていく。これは、国家そのものが生産条件を所有しているからである。他方で、資本主義においては経済的なものの側の運動が(労働者と同様に)国家の無産化を引き起こすことになる。こうして、資本主義体制における国家はインフラ創設などに直接関わることができなくなる。

資本主義国家においては、租税を可能にしてくれる貨幣もまた経済的領域を媒介してしか可能ではない。その意味で国家の財政は経済的なものの領域に制限されることになるのであり、そうした経済領域における素材と価値の矛盾に対応するものとしてのみ国家介入の余地を考えることができるにすぎない。

11月12日

第4章「法=権利形態とイデオロギー批判:マルクスとパシュカーニス」
私的所有のような法=権利がそもそも物象が人格化されたものとして現れてくるものであることが明らかにされ、その上に法イデオロギーが成立していく経過が描かれる。パシュカーニスの重要性を知ることができる章。パシュカーニスの著作『法の一般理論とマルクス主義』は翻訳もあるらしい(古本が高騰している…)。

マルクスイデオロギー批判は、幻想性や隠蔽性の指摘にとどまるものではないというのも重要であるように思う。経済的なものの次元に由来する「法=権利」と、それに要請されて現れるイデオロギーが循環的な関係のなかで互いに深化していく構図の上では、イデオロギーそれ自体が固有の力をもつものとして捉え返される。

12月9日

第5章「近代国家から「資本の国家」への移行:「ブルジョワ国家」の可能性と限界」
ゲルステンベルガー『主体なき権力』を丁寧に紹介しながら、マルクスの国家の形態分析と歴史分析との関係を明らかにする章。歴史的条件の下での国家のあり方が問われていたことがわかる。

資本主義国家をブルジョワ国家と同一視と混同してしまいがちだが、ブルジョワ国家形態をとる資本主義国家というのは、アンシャンレジームから展開してきた歴史的条件の下でのあり方である点に関する指摘はとくに面白かった。理論にとっての歴史性の関係の仕方は、哲学一般の問題でもあり参考になる。

2024年1月29日

第6章「階級闘争と国家形態:「社会国家」の可能性と限界」
労働力の再生産を保障する国家の社会政策は「法=権利形態」を媒介として労働者階級が階級闘争を行うことに由来するものである、という議論が紹介されている。社会政策を行う社会国家の可能性と限界もここで扱われる。

従来の議論が十分に捉えることができていなかったのは、社会国家の過渡的性格であった。社会国家それ自体は資本主義のシステム内部で働くものであるが、マルクス的には、そうした社会はアソーシエイトした社会システムへと移行するなかの段階として捉えられるべきだということになる。

特に、アソシエーションに独自の政治的形態を考察することによって、資本主義国家の一類型である社会国家を所与の前提とした社会民主主義と、アソーシエイトした社会システムへの過渡期として社会国家を再定義する「社会主義的デモクラシー」(Negt 1976)を質的に区別しうるのである。(p. 235)

2月14日

第7章「資本主義世界システムの政治的形態:「資本の帝国」と地政学的対立」

グローバルに広がっている資本主義的な世界市場と国家の複数性の関係について扱われている章。第5章において、政治形態と資本主義の関係を歴史的分析から把握することを行ったのと同様に、そうした分析を国際的な資本主義と諸国家システムについても考える。

制度ということがキーワードになっていて、主権国家体制は、資本主義的政治形態とイコールではないにせよ、その「制度的な表現」であるとされる。歴史的に生じた制度によって具現化されたあり方として、現在のような複数国家と、そうしたものを突破していく世界市場が成立する。

注9で「ちなみに、ミエヴィルのSF小説の代表作である『都市と都市』は、彼の博士論文の「同等な法=権利のあいだで』(Miéville 2005)をモチーフに書かれたものである」とあったので小説も手に入れてみた。まだ最初の方しか読めていないが、見えているのに互いに見えないふりをしながら暮らさなければいけない二つの国をめぐるミステリー小説らしい。

3月17日

第8章「国家に抗するデモクラシー:「アソシエーションの政治的形態」の発明
資本主義社会における民主主義自体が抱えている「退化」契機、すなわち、議会制デモクラシーによって民衆が政治的領域から切り離されてしまう契機を、アニョーリを参照しつつ論じていく。こうした状況に対して、本章では「デモクラシーの非資本主義的形態=社会主義的形態」が検討される。

アニョーリによれば、代議制の本質とは寡頭政であり、代議制をとることによって人民は政治から切り離される。こうした事態は古代ギリシアで採用された民主政、すなわち政治的権利を有する人民による直接的政治参加に対比することができる。近代社会においては資本主義的形態のもとでデモクラシーが発展することになったが、それは必然的な事柄ではなく、資本主義から切り離してリベラル・デモクラシーを構想することの可能性を問うことができる。

ウッドの議論を参照しながら「国家に抗する政治的共同体」を再考していく。政治から切り離されてしまった労働者たちが自分たちをどのように政治的生活へと再び統合していけるのかが問題となる。ここでは、マルクスにおける二つのシトワイアン、すなわち「近代国家の構成員」と「国家に抗する政治的共同体成員」を区別することが重要であるとされる。この後者の成員としての権利を要求し、こちらの側から前者の在り方を再規定していくことが重要になる。著者は次のように本章を締めくくる。

したがって、「国家に抗する政治的共同体」は、商品や貨幣、資本といった経済的形態のみならず、資本主義社会に固有の法=権利形態ならびに国家形態を、漸次的に解消する限りにおいて構成される統治形態と考えることができよう。しかしそれは、法=権利はもちろん政治的共同体そのものの死滅として理解されてはならない。[…]それゆえ、シティズンシップの社会主義的形態がもつ内容とは、政治的自己組織化の構成原理にほかならない。(p. 295)

3月17日

おわりに「可能なるアセンブリコミュニズムへ」

本書が強調してきたマルクスにおける「アナキズム的モーメント」が改めて取り上げられている。マルクスアナキズムは一定程度まで意見を共有する部分がある。たしかに、マルクスは政治的共同体を通して資本主義を廃絶することを目指したが、それと同時に政治的な領域が常に資本主義的形態規定によって侵食されていることを批判していた。そうした侵食に抵抗するためには、第8章でみたように、私たちの政治的な在り方を再構成しなければならないのだろう。

ここでは可能なる共同体として、ゲルマン的形態やパリ・コミューン、さらには農村共同体など、マルクスが向けたまなざしが紹介されている。さらに最後には、現代における「ロジャヴァの革命」が「この革命は、現代の「可能なる」アセンブリコミュニズムの姿であると言えるだろう」(p. 307)と評価されている。私自身は、この革命についてほとんど知らなかったのだが、以上の議論を踏まえて改めて目を向けてみたいと思う。

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