わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

【読後感想文】美馬達哉『感染症社会:アフターコロナの生政治』人文書院, 2020

全体に関する感想

感染症という現象が持つ意味を、過去・現在・未来の時間的に、そして生物学的事実を超え分野横断的に、幅広い視野から描き出した著作であった。現在の状況は、自らのリスクマネジメントに関して、あるいはさらに、どの程度のリスクマネジメントを社会に対して求めるかということをめぐっても、各人が自ら判断し決めなければならない事態となっている。そうでなければ、社会による統治と個人の自由の間に存する(ことが顕在化した)アフターコロナの生活は、真に自由なものではありえないだろう。本書は、ここに書かれたことを受けて自ら考えるための道具であり、もはや微かに霞んでしまっているかに思われる「自由」を求めて進むための武器であるといえよう。以下、各章ごとの感想やメモである。

第1章「感染症という妖怪」

人文知の役割として、現象を解釈し理解可能な仕方で我々に提示し直すこと、があると私は考えている。この本は、社会的な要素が多分に入り込んだ感染症という現象の可能な解釈を導いてくれそう。

美馬さんが2003年のSARSのときに書いて未だに多くは進んでいないとしつつ今回の本でも引用している文章「〈感染症〉とは何よりも政治学の対象であって、医学と生物学の対象ではない」(23頁)があるが、同様のことを17世紀にもライプニッツが既に指摘していたことをコメントしておきたい。

「確実な予防措置はいまだに医師諸氏によって見出されていないので、政治に基づく予防措置に訴えざるをえない。それだけが効果を確認されているものである。それはつまり伝染病を避けることである」(ライプニッツ『ペスト対策の提言』長綱訳, 工作舎,リンク先PDF 208頁)。 

第2章「COVID-19の誕生—パンデミック以前」

章のタイトル通り「誕生」が語られているが、それはウイルスの生物医学的な誕生経緯にとどまるものではない。むしろここで強調されているように思われるのは、感染症という現象が我々との関係から生じてきたということである。

とりわけ、社会の既存システムであった国境を使って新型コロナウイルス流入を食い止めようとしたことが、感染症にまつわる言説を「誕生」させることになったという指摘がなされている。我々の感染症に対するある種の理解の仕方は、生物医学的にというよりもむしろ、政治的に構成されているのである。

第3章「コロナウイルスは存在する」

ウイルスがそれ自体で確固たる仕方で存在していても、それに対する我々の認識は一義的に定まらない。前章が政治的側面に注目しより広い意味での感染症現象に目を向けていたのに対し、ここではウイルスそのものと人間の関係を描く。

例えば、学術論文におけるウイルスの描かれ方は国境の影響を受けており、薬の対象としては製薬の資本主義的側面から理解されねばならない。また、ウイルスは、抗体検査やPCR検査といった原理的に異なる様々な仕方で認識されるし、より表面的に、不顕性感染と現に病む人とでは違った仕方で現れてくる。

「「クラスター対策」は、「クラスターつぶし」などとも言い換えられていたとおり、生物医学的な対策だっただけではなく、クラスターを引き起こした原因とされた空間や人間を「悪」や「病魔」とみなして排除する道徳的な対策としての側面を色濃く持っていた」(美馬 2020, 100)。

第4章「感染源の図像学クラスター対策とスーパースプレッダー」

本章では感染症あるいは感染者に関するある種のイメージと、それがどこからやってくるのかということが取り上げられる。犠牲者はある種の悪人として捉えられ、非難されるのは病原体ではなく人間なのだ。

こうした「犠牲者非難のイデオロギー」とSARSの際の「スーパースプレッダー」は密接に結びついている。現在では「スーパースプレッディング」と呼ばれ、人ではなく事柄ベースの語り方に変化している点は、人々のイメージに大きな影響を与える。対策が無用な非難に向かっていないか注視する必要がある。

第5章「感染までのディスタンス」

総じて感染からの距離をどのような観点から考えるかを論じる章であった。距離の取り方にはある種の思想が反映される。ウイルスとの距離に関して言えば、例えば、集団免疫を獲得する方向に向かうのか、封じ込めるのかが問われるだろう。

単にウイルスとの距離だけでなく、人間との距離もまた大きな問題となる。恐怖を装置として人々の距離を管理することもまた生政治の一環であるが、捉えきれない距離のニーズ(介護や支援)をいかに守るかが問われてもいる。この章は同著者の『現代思想』の論考とも繋がっていると思われる(後で確認したらあとがきに各章の初出がありました)。

第6章「隔離・検疫の哲学と生政治」

生政治と言ってもその内実には様々な形態があり、それは時代の科学的あるいは文化的テクノロジーと結びつきながらより効率的に人口集団を管理・調整することを目指すものである。現代特有の生政治とは何であろうか。

規律訓練、人口集団の合理的統治、人種主義(広く言えば、国境単位での管理やDNAによる人口の選別まで含むだろう)等による生政治に加えて、情報監視の生政治が登場している。監視はもはやパノプティコンとは異なる次元にあり、我々は喜んで自ら監視される。シェアが正義となるのである。

第7章「2009年には喜劇として、2020年には悲劇として」

2009年の新型インフルエンザは、WHOにパンデミックの宣言までさせたが、結局それほどの健康危機を引き起こすことなく杞憂に終わった。このリハーサルが2020年には悲劇として(まさに)再演されているのである。

リスクマネジメントということに関して、新しい生活習慣という考えは個人レベルでの努力を強調する一方で、その反作用として社会として行われるべき医療システムの改善などを後景化させてしまう。個人の努力は際限がない上に、感染を個人的な問題に還元し、感染者を排除する論理へと結びついてゆく。

他方で、恐怖心から国家に強い統治を求めるならば、個人の権利は容易に制限されうる(我々自身が非常事態宣言を求めるのだ)。個人の努力と国家による統制の間の、微妙なラインで我々は我々の生活を守らなければならない。

エピローグ「感染症映画をみる」

最後に単なる生物学的事実としての感染症ではなく、どのような意味づけをもってその現象が捉えられてきたかということをめぐって、いくつかの感染症映画が紹介される。想像力は現実を予測するのみならず、未来への指針を与える。