第5章はなかなかインパクトのある比喩が出てくる。第28節の「腋臭のある人間に君は腹を立てるのか。息のくさい人間に腹を立てるのか。その人間がどうしたらいいというのだ」という話など、突然出てきて驚いた。たしかにそれはその通りだと思うのだけれど。今回はそんな第5章の中から1つだけ比喩を見てみることにしよう。
彼は葡萄の房をつけた葡萄の樹に似ている。葡萄の樹はひとたび自分の実を結んでしまえば、それ以上なんら求むるところはない。あたかも馳場を去った馬のごとく 、獲物を追い終せた犬のごとく、また蜜をつくり終えた蜜蜂のように。であるから人間も誰かによくしてやったら、〔それから利益をえようとせず〕別の行動に移るのである。あたかも葡萄の樹が、時が来れば新に房をつけるように。
マルクス・アウレリウス『自省録』第5章第6節(岩波文庫、神谷訳)
この直前で、マルクスは三様の人々を挙げている。善事を施し見返りを求める者、見返りを求めないが心で密かに相手を負債者のように考える者、そして自分のしたことを意識しない者である。上にあげた比喩で葡萄の樹に似ているとされたのは、3つ目のような人々である。それを踏まえれば非常にわかりやすい話であろう。
「葡萄の房をつけた葡萄の樹」はその後その葡萄に何ら気を配ることはない(ように見える)。それらの葡萄が地面に落ちて自ら芽を出すかどうかは、葡萄自身の問題であって葡萄の樹の問題ではない。葡萄任せというものである。しかし、なぜそうするのが良いとされるのだろうか。葡萄がそうだからといって、人間もそうするべきだということにはならないのではないか。
ここで重要になってくるのが、第5章に目立って散見される(もしかすると、他の箇所でも見られるかもしれない)他の生物と人間のアナロジーである。例えば、第1節では「小さな草木や小鳥や蟻や蜘蛛や蜜蜂までがおのがつとめにいそしみ」と述べているし、先ほど引用した箇所では馬や犬や蜜蜂が登場していた。それらの生物たちはみな人間の模範となる存在として取り上げられている点に注目したい。
マルクスは別に理性的動物としての人間を貶めたいわけではないはずである。実際、第16節では「生物は無生物よりも高く、理性を有するものは単に生きているよりも高い」と述べている。それにもかかわらず、人間の模範として理性を有していない生物たちが挙げられているというのはいかなる事態なのであろうか。
はっきりした答えはわからないのだが、マルクスが第14節で次のように述べていることが興味深い。
理性と論理の術はそれ自体において、またその固有の働きにおいて自足せる能力である。それは自己に特有の原理から出発し前に置かれた目標に向かって進んで行く。それゆえにこのような行動は「まっすぐな行為(カトルトーセイス)」と名付けられる。それはまっすぐな道を行くことを意味するのである。
理性と論理という術はそれ自体で「自足せる能力」であるという。第5章でマルクスはもう一つ重要な比喩を提示している。それはまた次の記事で扱おうと思うのだけれど、そこで全体の中にはめ込まれた部分として全ての存在者を考えている。だとすると、自足する術を持つ理性的存在者が全体にはめ込まれるという事態が生じていることになるだろう。そのような自足は、理性的存在者の優れた点でありながら、しかし他の生物たちに劣ってしまう原因にもなりうるのではないか。また次回、もう少し考えることにしよう。
- 作者: マルクスアウレーリウス,神谷美恵子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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