わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第4章より(その2)

前回は『自省録』第4章から幾つかの比喩を取り出してみた。今回は、同じ章から一つだけ、しかしとても力強い比喩を取り出してみようと思う。

波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲には水のうねりはしずかにやすらう。「なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!」否、その反対だ、むしろ「なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない」である。

マルクス・アウレリウス『自省録』第4章第49節、神谷訳)

 この節の冒頭の比喩は『自省録』の中でも有名な比喩の一つである。情景が目に浮かぶようである。

ここで、「岩」は人間の暗喩であることが明らかであろう。「波」はなんの暗喩だろうか。ここでは明らかには示されていないが、何か人間に降りかかる災悪の暗喩だと理解できるのではないだろうか。

この比喩のあとで述べていることが実にポジティブで驚く。「何があっても押し潰されない私、運がいい」って、すごい心の強さである。まさに波にもまれても動じない岩のようである。この比喩で不思議なのは、一文目では激しく波が打ち付ける様子が描かれているにもかかわらず、二文目では「水のうねりはしずかにやすらう」と描かれていることである。これをどのように理解するべきなのか。

この比喩において、激しい波と静かなうねりが同居していることは、まさにマルクスの言いたいことを示しているのかもしれない。

人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。

 マルクスは人間の本性以外の失敗は不幸ではないと考えている。「本性の失敗でないもの」こそが、岩に打ち寄せる波のようなものであろうか。そうであるとすると、この比喩における激しい波と静かなうねりの同居は理解できるかもしれない。激しい波は人間の本性の外側での出来事であり、一方で静かなうねりは人間の本性においての出来事であろう。

人間の本性は外界からは隔離されたもののように語られることになる。はたして、これが可能なのか私には疑問なのであるが、しかしもし可能であるのならば幸福は我がものであるように思う。

今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころにするのを忘れるな。曰く「これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。」

幸運とは、「ひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙遜であり、自由であること」などを自身の本性のうちに保持することであるとマルクスは考えている。このような本性を有する限り、波がいかに押し寄せようとも、あたかもしずかにやすらううねりの中に立つ岩のようであり続けることができるのである。