【読書感想文】野矢茂樹『心という難問:空間・身体・意味』講談社, 2016.

野矢茂樹『心という難問:空間・身体・意味』(講談社, 2016)を読み終わったので、簡単な感想と読書メモをまとめておく。厚い本だと思って読み始めたが、具体例が多く、サクサクと読み進めることができた。だいぶ昔に読んだ同著者の『哲学の謎』(講談社学術新書)も面白かったので、お勧めしたい。

  

全体に関する感想

「他人の心や意識はどうやってもわからない」と「意識は物理的に理解することができる」、これらの極端な見解を行ったり来たりしながら、日常というものが成り立っていたりする。本書が最終的にたどり着くのは、経験というものはある程度は公共的でありながら、ある程度は私秘的なものであるという、なんとも煮えきれない解答である。しかし、その解答までの道のりで提示された眺望論や相貌論といった理論は、我々の経験の公共性の起源を描き出すものであったし、それと同時に、私秘性の源泉を洗い出す作業でもあった。われわれにとって語り得るものとは何で、語り得ないものとは何であるのか、その範囲を明確にすることは、少なくとも、哲学にとって重大な作業のうちのひとつであろう。

ところで、第1章を読んでいるときに補足としてメモしたことがあった。『花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも』という作品が、なぜこの作品の表紙としてとりあげられているのか、このことの理解をこの読書の成功/不成功の基準にしようというのである。果たして本当のところは(それこそ野矢氏の意図というものは)完全には理解しかねるが、とはいえ、まさにそのことが表現されていたのではないだろうか。公共的な仕方で経験はある程度は「裸にされて」いくのだが、そうして「さえも」取りこぼさざるを得ない部分として「心」が逃げ去っていくということ、これがデュシャンの『大ガラス』を通じて言われていたことだと、私は理解した。

各章に関する読書メモ

第1章「漠然とした問題」

われわれは、ときどき自分だけが実在し他人は「意識なき」哲学的ゾンビに過ぎないというような気分になることがある。あるはずだ。そのこと自体はいいのだが、ゾンビ+意識が普通の人間だとすると「ゾンビ」だとか「意識」という語は何を指しているのか。

補足。そういえばこの本の表紙の背景は駒場博物館にある『大ガラス』と通称されるデュシャンの作品。正式名称『花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも』。これがカバーに選ばれた理由が最終的にわかったら、この読書が成功だったということにしよう。

第2章「素朴実在論の困難」

知覚について我々は通常「私が見ているこの机は机の実物」だという素朴実在論的な考え方を持っている。それは単なる知覚イメージではなく、実在そのものなのだ。しかしながら、錯覚論法はこれに対する強力な反論となっている。

誤った知覚がなされるさいには意識のうちの知覚イメージが実在と異なると説明されるが、ならば正しい知覚もイメージに過ぎないのではないか。誤った知覚において、実在と意識の二元論にたつなら、正しい知覚の際も二元論に立つべきである。野矢はこの錯覚論法を最終的に乗り越えることを目指す。

第3章「二元論の困難」

ここから知覚イメージと実在に関して二元論の立場をとっても、意識一元論の立場をとっても(次章)困難が生じることが順に示されてゆく。二元論的困難の根源は実在からの知覚イメージに対する因果的関係を適切に捉えることがどうやっても出来ないという点にある。

 われわれが「りんごがあるなぁ」と知覚イメージを抱くとき、ならば実在のりんごがその原因になってるだろうと思うのだが、そのような知覚イメージのうちをいくら探してもそのような実在にたどり着くことはできない。知覚と実在は全く違う次元に属しており、知覚のうちから両者の関係を記述できない。

第4章「一元論の困難」

二元論が外的実在との間の根源的な断絶を抱えていたのとは異なり、一元論はその知覚イメージが整合的であればそれを正しい知覚として、その整合的なまとまりを持った知覚イメージの集合こそを実在とみなす。それゆえ、実在は知覚の背後にあると考えられるわけではない。

しかし一元論は存在それ自体を捉え損ねてしまう困難がある。現にある知覚だけから可能な知覚Aを取り出す作業は「条件CのもとでAが知覚される」という形式をとることになるが、その条件というのは「Aが知覚される条件のもとで」という言い方に陥る。また一元論は他者の意識の存在を認めることが難しい。

第5章「他人の心という難問」

ここまでの議論を少し離れて、他人の心を認識する際の困難について考えてみる。例えば、他人が感じてる痛みをどのように捉えることができるのか。一つには、痛みとは内面的なものではなくて相手の表情や振る舞いのレベルに生じてくるものだという行動主義がある。

他方で、痛みとはある特定のタイプの感覚なのだという感覚説がある。行動主義では自分の痛みまで振る舞いのレベルで考えるという立場になってしまったりする。だが、感覚説も自分の痛みを見本にして他者の痛みを理解するとすると他者の痛みそれ自体は理解されない。ここに袋小路がある。

第6章「知覚の眺望構造」

ここから野矢氏本人の理論が展開されてゆく第二部がスタートする。知覚を考える上での三要素として、空間的位置、身体、意味があげられ、この賞ではとりわけ空間においていかにして我々は視点を持ち対象を認識しているかという点が知覚的眺望論という名で論じられている。

知覚的眺望論では、知覚に存する条件的な要素として有視点的把握(パースペクティブ)と無視点的把握(地図)が取り出され、両者が相互に参照されながら我々の知覚が成立していることが明かされてゆく。ここで他我認識の懐疑の根源であった「誰が」ということが問題にならないのは重要な点だろう。

第7章「感覚の眺望構造」

前章で見てきたような空間的な眺望に加えて、本章では感覚的な眺望が提示される。中心的なテーゼは、すなわち「感覚と身体状態の間に成り立つ、このア・プリオリ連関図式こそ、感覚の眺望構造にほかならない。つまり、感覚的眺望の眺望点とは、身体状態なのである」。

感覚説が身体抜きの純粋な感覚を論じ、行動説が感覚抜きの身体的現れのみを論じたのとは異なり、野矢の感覚的眺望においては、身体は感覚の条件として存在している。それは「私」「あなた」のようなものよりも公共的なものとしてあり「私があなたと同じ感覚を得る」ということを可能にしてもいる。

第8章「知覚的眺望と感覚的眺望」

ここまでで見てきた二つの眺望について合わせて考えてゆく。例えば、見間違いという出来事は知覚的眺望における無視点把握と有視点的把握の間の差異であると説明されるが、痛み間違いは感覚的眺望において最初から視点が固定されているため間違い得ない。

後半では色が実在的なものであるかが論じられる。高校の頃、国語の教科書に『哲学の謎』の冒頭の夕焼けは赤いのかという話が載っていて、ずっと考えていた。感覚的眺望のみによって捉えられるべきものではなく、見ていない時にも実在するという「べき」ものとして提示されている。ここは難しい。

第9章「相貌と物語」

ここまでの眺望論があくまで公共的な次元での話だったとすれば、この章で論じられる相貌論は極めて一人称的な次元での世界観を提示している。われわれの世界の認識の仕方に逃れ難く張り付いている「意味」や「価値」といったもの、そういうものが「物語」として語られる。

眺望的に認識された対象は、物語への位置付け方によって異なる相貌を見せる。将棋のルールを知っている人と知らない人とでは、同じ対象でも異なるものとして見えてくるのである。だから、眺望論的に同じような条件に置かれたとしても、対象は多様なものとしてわれわれに現れてくる。

第10章「素朴実在論への還帰」

第9章までで第2部「理論」が終わり、ここからは第1部で示されていた問題に対して回答が始まる。素朴実在論に対する強力な反論として錯覚論法が持ち出されていたが、今や、眺望論と相貌論とから構成された理論によってその困難を乗り越えることができる。

錯覚論法は、錯覚を知覚と同種の経験として扱うことで、知覚を実在とする素朴実在論に対して、全て知覚イメージなのだと反論する。これに対し、錯覚を知覚とを別の相貌のもとでいかなる共通項もないものとして捉え返すことで、公共的な実在が知覚によって経験されることを保証しつつ、錯覚を許容する。

第11章「脳神話との訣別」

野矢が提示する眺望論の立場に立つならば、脳が知覚を生み出すという脳神話は否定されることになる。その際、大森荘蔵の「脳透視論」が援用してゆく。サングラスを通して世界を見ているように、脳を通して世界をみている。

脳に異常が生じたさいに起きる有視点的眺望の変化に伴う因果関係は、無視点な脳科学によっては記述され得ない。また、知覚とは我々の経験の全体なのであるから、そこから外に出て経験の原因を探り当てることは、経験の内部では不可能でもある。眺望の原因そのものにはいつまでも出会うことがない。

第12章「他我問題への解答」および「結び」

単純な二元論において経験の十人十色性は、ここまでの野矢の試みによって「空間・身体・意味」という枠組みで捉え返され、他者の経験の絶対不可知性は解体されることとなる。

他者の経験と全く同じものを我々は経験できないにしても、両者の間には公共の眺望地図と呼ばれるような、公共的な次元が用意されている。個別の心といったものは、この眺望地図に統合され得ないものとして、固有の地位を有する。未統合なノイズと、公共的眺望地図の「あわいに漂うもの」が心となる。