【読後感想文】山本信『哲学の基礎』北樹出版, 1988.

全体に関して

本書はもともと放送大学の教科書として書かれたものであり、教科書としての初版は1985年、その後1992年に改訂版が公刊されている。著者の山本信は『ライプニッツ哲学研究』(東京大学出版会, 1953) という名著を二十代のうちに執筆し、その後、哲学に関して幅広く(とりわけ形而上学に関して)活躍した人物であると、私は認識している。

哲学一般に関する入門書がどのようであるべきか、という問題に対するひとつの回答としてこの本を読むことができる。冒頭で山本は次のように述べている。

哲学は、求めなければどこにもないが、気にし始めればいたるところにある。

哲学のなかには無数の分野があり、それぞれにおいて綿密な議論が繰り広げられている。それらをひとつひとつ学んでいくことは時間をかければできる。だが、それ以前に、なぜ哲学的な問いを考えなければならないのか、という部分でつまづく人も多いように思う。哲学など無くても生きていけるし、哲学を学ぶことが直接的に人生を豊かにしてくれるというわけでもないとしたら、なぜ哲学を学ばなければならないのだろうか。

哲学を始める一歩手前に存するこの問いに対して、なんらかの答えを掴み取れるように案内することが、哲学一般の入門書に課せられた使命のひとつであろう。山本は哲学史家であるから、過去の哲学者たちの歩みのなかに、哲学的問題に乗っかるためのヒントを見出そうとする。哲学の歴史は、哲学的な問いそれ自体と、そのような問いを発見する方法との見本市のようなものである。

そうして哲学の門の前に立ったならば、人は自身でそれを求めることができるし、求め始めれば、いたるところに哲学を見出すことができるのだろう。

 

    

 


読書メモ(各段落の最後に付されている番号は大体の頁数)

「哲学そのものは、名詞で名ざされる特定の内容の知識や理論としてでなく、哲学的にものを考えるという知性のあり方を示す副詞、あるいは哲学するという動詞としてのみある」。とはいえ「真理の探究としての哲学が、詭弁的な謎解き遊びや独善的な処世訓などに」終始するべきではない。 17

最近話題の「哲学史の意義」が第2章である。意義は二つ。1、自身の意見を支えるのは事実による検証でもなければ形式的な論証でもないがゆえに、その洞察力を哲学史から学ぶべし。2、哲学の本質的な歴史性。当時の歴史的規定において哲学史を学び、現在に新たな形で問いを立て直すべし。

哲学の諸部門について。 1価値論、1.1認識論・1.2論理学。 2存在論、2.1特殊的・2.2一般的。 3価値論、3.1宗教哲学・3.2美学・3.3倫理学。 これらの諸部門は普通は同列ではなく主従関係においておかれる。それゆえ、言語表現の意味に関する論理的分析に全てを吸収する立場などがありうる。 39

subjectはもともと「主語」であり「述語」と対概念をなしていた。存在論的には「事物が示す様々な性質や状態の根底にあって、それらを支え統一しているもの」であり、「主体」や「実体」とほぼ同じ意味をになっていた。objectumは「前に置かれてあるもの」であり相対的な現れであった。 –60

subjectumとobjectumの対概念は18世紀半ばごろまで古い用法にとどまっていたが、とりわけカントにおいて「認識するはたらきの主体としての人間のあり方」を示す用法としてSubjektが使われるようになっていく。ここに思考体制の原理的転換が表現されている。 60

「「観念論」といえば、現在の世間的な言葉づかいではたいてい悪口として使われており、現実から遊離して言葉の上だけで観念をあそぶ空虚な理論、といった意味合いで理解されることが多い。しかしこの名称はまったく逆のことをも意味しえた。… 69

…すなわち、われわれのもっている諸概念を根底から検討し批判するとともに、新鮮な観念体系を提起して思想の惰性をゆりうごかし、時代を推進してゆこうとする主体的、創造的な思考態度のことだったのである」 69

「…主義」と「…論」が似たような意味で使われている問題について。観念論とかは観念主義とかだと、あまり落ち着きがよくない。しかし「…論」には「特定の事柄を主題的に取り扱う理論」という意味で使われることもあり、「存在論」「認識論」なんかの「…論」と紛らわしい。改善を望む。 71

近世に現れてきた他のすべての問題に先立つような認識論は、「自分自身の認識能力について反省するという形をとりながら、それに照らして既成の理論の根拠を検討しなおす」ものであった。それ以前の哲学に対する批判という形で登場し、近世哲学を大きく特徴付けることとなる。 73

唯名論的立場そのものからは、次の時代を担う合理性の体系が出てくるわけではない」。既成の秩序、すなわち全時代の合理性の体系にたする批判としての認識論からの批判は、さらに進んだ新たな「実念論」へと結びつく必要がある。それが主体性の形而上学であった。 –80

「合理主義」を考える上で問題なのは「いうところの「理性」がどのような役割を演じ、何をもって「合理的な」ものとするか」ということ。「ある形態の合理性が世間に受け入れられ、さらにはそれが自明のものとして常識化していくことが、思想史的に一つの「時代」を画するのである」。 81

近世的な合理主義の特徴は能動的・自発的であるところにもとめられる。その合理性は古代ギリシアにおける「理法を観想し受容する態度」とは異なり、「世界の合理性はわれわれ自身の理性のはたらきによって構成され実現されるべきもの」という立場となる。この後めちゃくちゃカントしてる。 –92

第9章近代科学の思想史的意味。近代の合理性のもう片翼「知識の客観性ということに真理と存在の基準をおく考え方」について。近代科学の方法とは「等質的に無限にひろがった空間という宇宙像のもとに、現象そのものの変化と差異を、諸事物の共通の因子を用いて記述する」というもの。 100

自然学と物理学はどちらも « physica » である。アリストテレス流のphysicaが諸実体の本性によって説明されるべき自然の学だったのに対して、「実体の不変の本性のかわりに、現象の変化の法則を求める」学問が整備され「物理学」となる。 –102

科学的思考について。「現象の背後の本質や形相といった事柄にかかわることを避け、現象そのものの変化と差異だけを問題にする方法論」。さらに実際に検証されることのみが「知識にとって積極的な内容」であり、実証主義的な立場が取られる。科学的思考における感覚的事実の重要性。 103

« positivism » 。コントの「実証主義」であるが、そのもともとの語義は「措定的、肯定的、積極的」というものでしかない。同時期の後期シェリングが同じ語を使う時には全く異なる意味であった。また自然法-実定法のpositiveとも違う。コントは「実証主義」という立場の表明をしている。 104

「科学上の理論が機械論的に解釈されたのは、自然の法則性と因果関係とが重ね合わされたことによる」。作用因の型にはまるものだけを因果関係として規定することによって、前方におかれた原因によって因果を考える目的論は虚妄として避けられる。 108

「自然全体を機械として見るということは、実は、すべてのものを人間が自分の目的に合わせて操作しうるとすることにほかならない」。機械論は自然そのものから目的を剥奪して、自然を人間の技術的関心の支配下におく。知は力なり。これは結局人間的目的論のもとに置かれることである。 109

科学の問いとは「いかに」である。これはしかし、「なぜ」や「何であるか」といった問いからは異なる役割を担うものである。「「いかに」については知りつくしているにもかかわらず、そのものに対し新たな驚きや疑いの念をもって「何であるか」を問いなおす場合」など意味が問題になる。 112

山本は科学理論の斉一性について「外挿法」という仕方で特徴付ける。「魔神のようなものを想定して世界全体を規定してかかろうとする考え方そのものが特徴的である。これは一般に外挿法(extrapolation)の手続きであり、その無際限な適用が要請されている。 116

近代の科学的思考は、存在の階梯のより下なるもの(無生物ないし物質など)に上位のものを還元して説明しようとする傾向を持っている。つまり階層的存在論を壊していくことになる。こういう思考の方向性が生物機械論的な思考を発展させていく。 –121

自由の問題について「量子力学における「不確定性原理」のことを持ちだし、脳における素粒子レヴェルの不確定性が、身体の諸過程をつうじて、いわば増幅され、ある範囲での自由な行動となる、というふうに論じられることもあるが、あまり有効ではない」。主体性の問題とは別のことだから。 140

真理論はそのつど取り扱っている問題場面を特定した上ではじめてまとまった理論として成り立つものである。ところが哲学は「事柄の全体と自己のあり方そのもの」について問わねばならぬ以上、真理論の真偽を問うという逆説的事態を引き受けなければならない。 152

「哲学は一定の公認された知識内容として学ばれうるようなものではなく、その存在と意味とを、つまりその真理性を、各人が自分で担わねばならない、ということにほかならない。同時に、しかし、まさにそうであればこそ、哲学する者は特定の学説のなかに安住することなく、自説が全面的に否定される可能性に対し、いつでも理論の外に出て身を開いている姿勢が必要なのである」 152

参考文献について。「何よりも、本書の中で生が出てきた人々自身の著作を、直接読むことが最も望ましい」。 173

「次に、われわれと同時代の日本人が書いた優れた哲学書や論文を読むことが大切である。ところが本書の読者にすすめたいものの名をあげだすと際限がないので、このことは今は断念する。どんな本を手にするかは、各人の見識と運にまかせるほかない。しかし、ちょうど旅をするときのように、初めからすっかり準備されたとおり歩いていくよりも、あるところからは自分で見当をつけて遍歴し、迷ったり失敗したり損をしたりしながらやってゆくほうが、哲学においても、本当に自分のものといえる収穫を身につけることができるであろう」。 173

あとがき。「理論と実践との間、学説と生活との間には、いつも裂け目がある。その間隙に正確に自分の中心を位置づけ、よく生きる知恵を求めることこそ、哲学する者の姿勢なのである」。 –175