わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

【週報】4月22日〜4月28日註解

※ブロック引用されている文章は、特に記載がない場合には自分のSNSからの引用

総括

次の週が連休ということもあり、授業準備を一旦休んで、代わりに論文執筆のために時間を使うことができた。博士論文の三本柱のうちの最後の一本になる議論を固めるために、ここ数年取り組んでいた内容がようやくまとまってきている。

朝からひたすら論文を書き進めている。感覚的対象の真理性も知性的な判明さの度合いへと還元されると理解されがちなライプニッツ哲学について、感覚から得られる事実真理に固有の経験的基礎があることを指摘することで、知性主義に対して現実から哲学を出発させる哲学の在り方を考えている。

ライプニッツの哲学は基本的に観念論的なものであって、私たちの経験に現象として現れてくる諸事実は真実在としてのモナドによって表現されたものにすぎないとされる。それにもかかわらず、ライプニッツ哲学には経験の側から出発しなければ整合的に理解できない部分が多くある。このとき、なぜライプニッツは経験から出発することができるのだろうか。この問いにある程度答えることができれば、博論は一応まとまるのではないかと思う。

哲学

オルテガ・イ・ガセットの相対的原理

オルテガ・イ・ガセットの未完のライプニッツ論は、とても難しいのだけど重要な指摘が多い。「だから原理の本質は、何かほかのものがそれに先行しないことではなくて、繰り返すが、何かがそれにつづくことなのだ。[...]ある原理を構成しているものはそれ自身の真理ではなく、むしろそれが生み出す真理なのだ。それ自身で真理であるというその内在的で、〈自己中心の〉条件ではなく、自余の命題の真実を–閲する(検証する)veri-ficar、それらの中に〈真理〉の性格を喚起するその他動詞、〈他者中心の〉価値である」(『ライプニッツ哲学序説』法政大学出版局, p. 11)。

原理というと「すべてに先立つ最初のもの」というイメージがあるが、ここでオルテガ・イ・ガセットは、「何かがそれにつづくこと」こそが原理の本質であるという。そのように考えれば、原理というものは相対的でもありうるということになる。ある知識の一歩手前にあって、その知識を喚起するものが、それ自体また他の原理によって支えられている。

「私」というのもひとつの原理だろう。一瞬後の「私」を喚起するものでありながら、一瞬前の「私」に喚起されたものとしての「私」がいる。

デカルト方法序説

デカルト方法序説』第四部の講義を終えた。『省察』なら数日にわたって論じられるテーマが凝縮されていて、独特のスリリングな感じがある。のんびりを許さないストイックな感じといってもよい。次回は第五部と第六部を扱って最終回、改めて6月からは『モナドジー』講義やります。

一般向けに行っている講義。最初の段落からアクセル全開であるような部分で、懐疑が行われたかと思えば、すぐに「私は考える、ゆえに私は存在する」という「第一原理」が論じられている。そのあとすぐに「思惟実体」の話、「一般的規則」、そして神の存在証明にまで進んでいく。このスムーズさは一体何なのだろうか。

形而上学はどのように実現するのか

ある特定の形而上学をいかにして現実のものにするか。現在のわたしたちが従っている形而上学的諸観念の桎梏を抜け出して、異なる形而上学的諸観念へと移行するためのエネルギーをどこに見出すのかという問題について考えている。形而上学それ自体のうちにその力はあるのだろうか。

哲学の歴史をみていると、私たちの形而上学は少しずつ移行している。デカルト時代の人々が考えていた「存在」と、現代の私たちが考えている「存在」はおそらく全く異なる内容をもつものであろう。ではそのような「存在」観の変容はいかにして生じるのか。これは政治的な話にすぎないのだろうか。

読んだもの

青木栄一『文部科学省』(中公新書

大学などについて議論する上で、皆知っているべきで情報が書かれていた。「間接統治」が鍵になっていて、官邸、他省庁、政治家、財界などが文科省を通して教育現場に力を及ぼそうとし、文科省もそれを放置している構図が様々な観点から示される。

「「間接統治」の問題とは、責任主体がみえにくく誰も責任をとらないことである。政策実施までを考えない無責任の体系ができてしまっており、さらに悪いことにある主体が退場してもまた別の主体が「間接統治」を狙い参入を図り、キリがない。文科省はそうした外圧に常に手を焼くことになる」(269頁)

文部科学省が、他の省庁や官邸に対してはあまり強いことを言えないのに対して、大学などの現場に対しては強気に出るという在り方が、さまざまなデータから描き出されている。「無責任の体系」という言葉は、大西巨人の小説『神聖喜劇』のなかで使われていた言葉である。そこでは、日本軍の責任が最終的に天皇にいたって雲散霧消するという「無責任の体系」が語られていたが、これが文部科学省を中心に教育の世界にも存続しているということなのだろう。

千葉雅也『センスの哲学』(文藝春秋

とても読みやすい。人生と芸術のうえでの「反復と差異」を楽しみながら生きるために必要なことが書かれていた。背後にある哲学的な土壌から、メキメキと音を立てて生え出てくる新緑のような文章。土壌の方に目を向けたい気持ちにもなる。

センスとはリズムを捉えること、そしてそのリズムを逸脱することである、ということが書かれている。そうしたリズムというのはどこかに転がっているようなものではなくて、自分の人生のうちで練り上げられていくようなものである。自分にとって大事だと思うことに固執しながら、それを何度も繰り返して、そして少しずつ変質させていくことの面白さが描かれていたのは良かった。

活動

小熊英二単一民族神話の起源』読書会

第11章「「血の帰一」——高群逸枝」を読んだ。アナーキストの詩人であった高群が、日本古代における母系制の研究を通して多数の祖先をもつ人々が単一の氏へと同化されることを理論的に整理したことなどが紹介されている。

系譜的同化というかたちで、混血を伴わない「首長の婚姻や賜氏姓によって天皇家を頂点とする在来氏族の系譜」への包含があったとする考えは、女性の地位向上を目指し母系制の理論を打ち立てることを目指した本人の意図に反して、異民族同化という当時の議論に転用されてしまうことにもなったという。

高群のことは、この文章で初めて知った。古代日本における母系制の研究を行い、『女性二千六百年史』(1940年)という著作を書いたという。Wikiをみたら、発売9日で15版を数えるベストセラーとなったという(9日で15版も刷れるのか)。

国会議事堂前デモ(4/26)

(世界を守ることも自分自身を守ることも、同じくらい難しくて、同じくらい革命的であるなぁ)と思っている。

おずおずダイアログを主催している友人がボランティアを募集していたので手伝いをさせてもらった。デモ開始1時間前に国会議事堂前に集合し、設営等の準備。デモ開始後は、参加者たちにさまざまなデザインのパッチを配りながらカンパを集めていた。いろんな属性の人たちが国会議事堂に向かって声をあげていた。

自分たちの社会や共同体を守ることは難しい。でも同じくらい、自分自身を守ることも難しい。声をあげることも、声をあげずに自らの内に引きこもることも、どちらも革命的なことであろう。何であれ譲らせようとしてくる力に抵抗することを大切に思う。

その他

円が下がることについては仕方ないと思う部分もあるが、人間が蔑ろにされることについては仕方ないとは思わない。

お金がないなら仕方ないじゃない、と思うことはない。

最近とても京都に行きたいので、誰か私を京都で開催される愉快なイベントとかに呼んでくれないだろうか。

どうぞよろしくお願いします。