わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

目覚まし時計を使って朝起きる方法について

朝。

寝坊をするとき、私はたいてい夢をみている。「あれ、夢をみてる場合だっただろうか」と夢中で自問し、重い瞼をこじ開けて時計をみると、予定時刻はとうに過ぎ去ってしまっているのだ。今日もそんな仕方で1日が始まった。

友人たちと本郷でやっている勉強会は10時からの予定であった。家から大学までの道のりをゆくのにかかる時間は、1時間と30分。つまり、8時30分に家を出ればよいのであり、8時に起きれば十分に間に合う。大変に複雑なこの逆算を前日夜に為し終えていた私は、しっかり目覚まし時計をセットして布団に潜り込んだ。

なぜこの世の中に目覚まし時計が存在するのかを少し考えてみればすぐにわかることだが、人間は寝坊する生き物である。マルクス・アウレリウスが『自省録』の中で、いつまで寝ているのかお前は寝るために生まれてきたのかと、寝坊に厳しいことを述べていた。ここからわかることは、寝坊は、とくに現代人特有の悩みというわけではなく、古来より人々が悩み、そして(その背徳感も含めて)楽しんできたものなのである。

目覚まし時計も、ときに寝坊する。突然の故障もあるだろうし、電池の不足もある。「寝ている間に電池が切れたらどうしよう」というのは、誰もが抱いたことのある心配だろう。それでも、これは経験から明らかなことであるが、たいてい、時計は朝まで動いているし、私はなかなか起きられない。目覚まし時計に協力を仰ぐことは必至である。

大きなアラーム音で8時を知らせる目覚まし時計。CASIO の電波式時計は、たぶん、非常に正確に8時を教えてくれた。そのままにすると、ご近所さんからいつまで寝ているのかと思われる恐れがあるため、アラームを止める。どうやらここが重要である。「アラームを止める」のは、目が覚めて合図がもう必要がないからではなく、あくまで、世の中に対する体面を保つためなのである。それゆえ、安心の布団の中に再び帰っていくことは、アラームを止めることと、何ら衝突しない。

われわれにとって本当にアラームを止めるべきは、目が覚めて合図の必要がなくなったときである。しかし、そのような伸び伸びとした起床を認めないのが体面というものだ。この体面のせいでアラームは鳴り止み、燻った起床の火種は布団の闇の中に消え去ってしまう。

人間と寝坊の関係は切り離すことができない。それでも、寝坊を最低限に抑えるための手立てが何もないわけではない。人間は、日時計を超えて、朝まできっちり時間を示してくれる動力付きの時計を発明したし、けたたましいアラームをそれらに備え付けさえしたのである。あとは、私自身が少しだけの体面を放り捨て、目が完全に覚めるまでアラームを止めなければよい。これできっと起きられるはずである。

ところがまたしばらく朝の用事がないのである。だから寝坊する気がする。