わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

エピクテートスが哲学に求めたこと

哲学の始めは、少なくともあるべきように、そして入口を通ってそれにとりかかろうとする人々においては、必要なものに関する自分の貧弱さと、無能力とを自覚することである。 (エピクテートス『人生談義』鹿野訳)

エピクテートスはストア後期哲学者として有名であるが、一冊も本を書かなかったと言われている。それでも、彼の語録や断片は残っており、上に引用した『人生談義』もまたそのうちの一つである。この語録はエピクテートスの弟子であるアリアーノスが著したものであり、「語録」「提要」「断片」の三部から成っている。「語録」では、エピクテートスが話した内容ができる限りそのまま記され、「提要」はその語録の抜粋のようなものとなっている。「断片」はいろいろな人の本からの引用であり、出典とともに残されている。

さて、上で引用したのは『人生談義』第2巻第11章「哲学の始めは何か」という部分の冒頭である。「哲学の始め」という言葉でこの章は何を探求しようとしているのであろうか。ここでエピクテートスは知識について探求を進めようとしているのだが、知識それ自体の探求や懐疑に向かうのではないことに注意したい。というのも、彼はある部分で生まれつきの知識というものを認めており、その限りでは知識それ自体は誤り得ないものとして存在している。

善悪、美醜、似つかわしい似つかわしくない、幸不幸、ふさわしいふさわしくない、また為すべきこと為すべからざることについては、誰が、生得観念を持たないで生れて来たであろうか。だからすべてわれわれはその言葉を用い、そしてその先取観念を、個々の事物に適用しようとしているのだ。

生得観念とは一般的には人間が生れながらにして先天的に持っている観念を指す。また、ライプニッツは『人間知性新論』序文で「ストア派の哲学者たちはこれらの原理をプロレープシスと呼んでいた。即ち、根本的仮定、言い換えればあらかじめ含意されている事柄、と呼んでいた」(米山訳)と述べている。近世における生得観念と古代におけるそれは、含意するものが多少異なるのかもしれないが、それはひとまず置いておこう。

生得観念として、上記のような知識が成り立つのだとすれば、哲学がこれらの知識それ自体を保証する必要はない。そこで、エピクテートスが問題とするのは、それらの知識の「適用」の方である。人々はそれらの知識の適用に関して、互いに矛盾するような仕方で行っていることが指摘される。この矛盾によって多くの混乱が生じてきている。それゆえ、彼がここで考える哲学の為すべきこととは、これらの適用に関する矛盾の認識と、どのように知識を適用するべきかということの基準を打ち立てることにある。

哲学の始めを見るがいい、それは人間相互における矛盾の認識であり、矛盾の出て来る根源の探求であり、単に思われるということに対する非難と不振であり、また思われるということについて、それが正しいかどうかの何か研究であり、また例えば重量の場合に、秤を発見し、曲直の場合に定規を発見するように何か基準を発見することだ。

知識の適用における基準とは一体何であるか。知識の適用を正当化するためには、「人によって正しいと思われる」ということでは十分ではない。なぜ、われわれに思われるものが「シリア人に思われるもの以上に正しいのか、なぜそれがエジプト人に思われるもの以上に」正しいのか…という疑問が生じてくることになるからである。そこで、なにか基準が必要なのであるが、それを探求することこそが哲学の仕事だとエピクテートスは述べている。

諸基準を考察して確立するということは、哲学するということであり、その認識されたものを使用するということは、賢者の仕事なのだ。

結局のところこの基準の探求に結論が出されるわけではない。だが、何をするべきなのかということを見定めるという意味で、この章は重要であろう。目標がなければどこに進むべきかもわからないのであるから。

 

人生談義〈上〉 (岩波文庫)

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人生談義〈下〉 (岩波文庫)

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