わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

モナドと窓

窓から光が差し込む。窓を開ける。すると、鳥の鳴き声とともに外の空気が入り込んでくる。少し寒くなって窓を閉めた。傾いた太陽の光がまっすぐに窓を突き抜けて、やはり私の元へとやってくるのだった。

私たちの魂は神や宇宙を表出するのであり、あらゆる現実存在と同様にあらゆる本質もまた表出するのである。このことは私の諸原理に一致する。なにしろ、自然的には精神はその外部からいかなるものも入らせることはないのであり、私たちの魂があたかもなにか伝達される形象を受け取ったり、扉や窓を有していたりすると考えることは、まさに悪い習慣なのである。(『形而上学叙説』§ 26)

モナドは、それによってなにかが出たり入ったりするような窓を持っていない。(『モナドロジー』§ 7)

モナドには窓がない」という言葉は、その比喩的な豊かさを伴って、多くの人々の間で反復的に使用されてきた言葉である。その意味するところは、こうして引用を少し見てみればわかる通り、能動知性–可能知性理論への反論であり、外部から何かがやってくることの否定である。

ここで、「モナドには窓がない」ということは、はたして「私には窓がない」ということと同じことなのだろうかという疑問が生じる。モナドは私なのだろうか。完全にすべての述語(出来事)がそろっているという点では、すくなくともモナドというカテゴリーに私は入ってくるだろう。この事態をもう少し比喩的にいえば、私の家には生活に必要なすべての家具や食料や日用品が最初から揃っているという状態であり、某宅配サービスは必要ないということである。

ところが、ライプニッツ「窓」の比喩が意味することは、実在的なものの流入の話に限定されていることに注意しなければならない。私たちはあらたな家具も食料も必要としない。それはたしかである。しかし、いつこのストーブに薪をくべるのだろうか。それは寒くなったときに、である。部屋は勝手に寒くなるだろうか。いやそうではない。外が寒くなるから中もまた寒くなるのである。ライプニッツは無理由を認めない。部屋が寒くなるからには何か理由があり、それは外部との関係ということがすでに自らの述語にふくまれているということである。つまり、窓の外すべてが内部化されているということであり、「窓がない」のではなく「窓しかない」とも言える(この場合は実在的な流入ということの比喩ではなく、「見ている」ということの比喩としてではあるが)。

私たちが完足的(十分にすべて揃っている)であるということが、逆に外部への関係を必要としている。これはあくまで観念的な関係であり、何かがでたり入ったりすることとは厳密に区別しなければならないにしても、である。「モナドには窓がない」という存在論的前提から帰結するのは、「モナドには窓しかない」(何度も注意して言うが、この窓の比喩は実在的な何かのやりとりという相互関係ではなく観念的相互関係を表現する)という認識論的要請であろう。私たちの不完全性、質料性、パースペクティブ性は、そのような外部との関係を必要としている(私たちはすべてを自らのうちにみる神ではないのだ)。

モナドには窓がない」ということが、私たちに窓を開けて外の誰か何かとの交渉を要請する。そして、お互いが判明なモナドであるということが、おしゃべりを可能にする。ときに受動的に相手の言葉を受け入れ、ときに能動的に相手に言葉を伝えること、判明なモナド同士の対話は、こうである。

やがて死はモナドの判明さを闇の中へと転落させる。そのとき、もうおしゃべりは成り立つことがない。相手の声は聞こえない。しかし、ある人が残した作品や言葉が私に影響をあたえることがある。これはすでに判明でなくなったモナドにとって一体なんなのだろうか。私の空想なのだろうか。それが空想だとしても、私自身の判明さはすでに死という状態にあるモナドに観念的にであれ結びついているように思われる。意識を持たないモナドが判明だということがあるというのだろうか。

答えがでないことがある。そういうときにこそ、窓を開ければよいのだろう。外に出ればよいのだろう。鳥がなにか教えてくれるかもしれない。