わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

ビュリダンのロバに餌を食べさせたい

人生には様々な選択がある。どの学校に行くのか、誰かと結婚するのか、どこに就職するのか…そういった選択だけではなく、日々はもっと選択に溢れている。何を食べるのか、何分後に寝るのか…すべてが必然だと言われてもいい。「それではあなたはそれを選択しなかったのか」と言うだけである。

なぜ選択は可能なのだろうか。「ビュリダンのロバ」という、かわいいロバの話がある。左右に全く同じ条件で餌が置いてあり、そこまでの距離もロバの足の調子も全部、左右対称であったら、ロバは選択できずに餓死してしまうだろうというのだ。そもそも前提がありえずそんなことは起きないのか、それともそのような状態がもし仮にあったとしてもロバは平気で選択をするのか。選択は何に従って生じてくるのものなのか。

ところで、パスカルが「靴のかかと」という、これまた面白い話を書き残している。

「なんて見事なできばえだこと。なんて腕の立つ職人さんだろう。勇敢な兵隊さんだこと。」こんな言葉が、われわれの志望と職業選択の出発点にある。「見事な飲みっぷりだこと。控えめな飲み方だこと。」こんなことで、節酒家になったり、酔っ払いになったり、兵隊になったり、臆病者になったりする。

パスカル『パンセ』35節(岩波文庫、塩川訳)

われわれは誰かの評判によって職業を選択するという。私たちは「なんて腕の立つ職人さんなんだろう」と言われたくて、靴のかかとをつくる職人になったりするのである。

功名は実に甘美なものなので、どんな対象に結び付けられようとも、たとえそれが死であろうとも愛される。

同書、37節

名誉のために人は勇気を出して死んだりもできる。なぜそれほどまでに甘美なものなのか。世の中には命を賭して手に入れたい名誉が存在している。死して手に入れたときにはもうその手は焼かれて灰になっているにもかかわらず。

ところで、パスカルは名誉や評判を目指す以外にも選択の道はあると考えている。

すべては一であり、すべては多様である。人間の本性のうちには、どれほどの本性があることか。またどれほどの職業があることか、それもいかなる偶然によって。誰でも普通は周囲のもてはやすものを選択する。

同書、129節

人間の本性のうちに多様がある。人間は一である。一であることのうちに、多様があることは矛盾するだろうか。しかしここに現にそうあるということが重要なのだろう。一なるものには変化がありえない。変化のないところには傾きがない。そこに動的なものはない。しかし、いったんそこに多様があるのであれば、自身のうちに流れや動きや変化が次々と現れて、何かへの傾きを創出することになる。

じっさい、いくつかの地方は石工だらけ、他の地方は兵隊だらけ云々、といった具合だ。自然は決してこれほど画一的ではない。だからそんな事態を作り出すのは習慣だ。習慣が自然を束縛するからだ。しかしときには、自然が習慣に打ち勝ち、あらゆる習慣—それがよかろうと悪かろうと—のくびきにもかかわらず、人間をその本能のうちにひきとどめる。

同書、634節

言葉は私たちのうちで習慣となって私たち自身を動かす。ただ「習慣が自然を束縛する」としても、自然(例えば人間の本性)が「習慣に打ち勝つ」ということもやはりありうるのである。

習慣のように外的に付与されるような傾きにのみ、選択の起源を求める限りビュリダンのロバは餓死してしまうだろう。ただし、もしそのロバに外的な習慣に打ち勝つだけの自然があったならば、ロバは自ら傾きを作り出し餌にありつくのではないだろうか。たしかに、そのような自発的な自由を認めることには重大な問題が含まれてもいる。とりわけ宗教的な意味で。それでも、ビュリダンのロバを餓死させたくはないと、私は思うのだ。

 

 

朝起きられない人のために

だいぶ寒くなってきた。起床の際も心地よい布団の中から一歩でも外に出ようものなら、冷たい空気にまとわり付かれ、静かに震えることになる。私なんかは、できることなら布団の中で1日過ごしたいと思いながら日々を暮らしている。布団の中で1日過ごしながら、いろいろな活動ができれば最高なのだが、そうもいかないのがもどかしい。

ところで、マルクス・アウレリウスが『自省録』の中で、起きれない人のためのアドバイスのようなものを書いてくれている。

 明けがたに起きにくいときには、次の思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果たすために私は起きるのだ。」自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。それとも自分という人間は夜具の中に潜り込んで身を温めているために創られたのか。「だってこのほうが心地よいもの。」では君は心地よい思いをするために生まれたのか、いったい全体君は物事を受け身に経験するために生まれたのか、それとも行動するために生まれたのか。小さな草木や小鳥や蟻や蜘蛛や蜜蜂までがおのがつとめにいそしみ、それぞれ自己の分を果たして宇宙の秩序を形作っているのを見ないのか。

マルクス・アウレリウス神谷美恵子訳『自省録』岩波文庫, 1956, p. 62.

マルクスの言葉はいつでも強い。「人間のつとめ」の存在を信じているものには、起きることにためらいなんてないのかもしれない。多くの人にとっては「やるべきこと」を知ることの方に困難があって、なすべき人間のつとめを明確に持つことは難しい。少なくとも、今心地よいということは確実なのだから、そちらを選択するのも悪くないのではないかと、そっと思ったりするのだ。

それでも、「休息をしてはならない」わけではない。それには限度があるということなのだ。なるほどたしかに、過度な食事や飲酒や運動は心地よいものではない。心地よいものは過ぎればやがて苦痛になる。「ところが君はその限度を超え、適度を過すのだ。しかも行動においてはそうではなく、できるだけのことをしていない」。寝ることは限度を超えてでもするのに、やるべきことはできる限りのことをしようとしていない。なんとも耳に痛い話である。

そして、マルクスはこのように自分の分を果たさない人々は、結局自分自身を愛していないのだという。

結局君は自分自身を愛していないのだ。もしそうでなかったらば君はきっと自己の(内なる)自然とその意思を愛したであろう。他の人は自分の技術を愛してこれに要する労力のために身をすりきらし、入浴も食事も忘れている。

同書 p. 62–63.

自分を愛することは、自分の技術を愛することとは違うかもしれない。それでも、その技術を磨くことが自分のやるべきことだと信じた人々にとっては、まさに技術を愛することは自身の自然を愛することでもあるのだろう。寝ることが自身の役目だと思う人はきっといつまでも寝ていても良いのだ。しかし、マルクスはその寝ることの「受け身な姿勢」を批判している。行動するために生まれてきたのだろうと。

自身の自然が世界の自然と調和するということは、世界のうちで自身の自然の役割を決定することでもある。その役割のために朝起きなくてはならない。ただし結局、私たちは何をするべきなのか、その確固たる部分を見つけるために苦労したりするのだろう。あらゆることはやるべきことに見え、あらゆることはどうでもよくも見えてくる。何を選べば良いのだろうか。だれもそれを教えてくれない。 

 

「耳からスパゲッティ」への憧れ

「耳からスパゲッティを食べられるような人間になりたい」

長いことそう思っている。昔、私には好きな人がいたのだけど、その人に構ってもらおうと必死だった。「耳からスパゲッティくらい食べられないと相手してあげられない」と言われたのが、当時の私は当然そんなことはできなかった。今もできない。

耳からスパゲッティを食べるというのは人体の構造的には可能なのだろうか。耳は喉につながっているということを聞いたことがあるので、頑張れば本当に食べることができるのかもしれない。本当にその人が好きだったのなら、そのくらいやるべきだったのだろうか。当時の私も、今の私も全然やるべきだとは思わないけれど。

そういえば、ドラえもんの漫画で「鼻でスパゲッティを食べてやる」とか、「嘘だったら目でピーナッツ噛めよ」みたいな台詞があった気がする(不正確な記憶)。まさに同じような挑戦である。ドラえもんのポケットに、目でピーナッツ噛み機はさすがに入っていないだろうなと思われる。

結局、耳からスパゲッティを食べることができない私は、相手にしてもらえないのだろう。世の中にはどう頑張ってもダメなことがあるのだと、そのとき学んでしまった。そういうことは、ダメだとしても仕方ないとして諦めることを学んだ。何がどう頑張ってもダメで、何がそんなことはないのかを見極めることが重要だ。それはどうやったらわかるのだろうか。

見極めがうまくつかないことばかりだ。実は、耳からスパゲッティを食べることも諦めきれていないのかもしれない。それは、たしかにどう頑張ってもダメなのだけれど、諦めたくないという気持ちがあるのだ。どう頑張ってもダメなものの存在を突きつけられつつ、それを受け取りたくない。

神は耳からスパゲッティを食べ、鼻でそばをすすり、目でピーナッツを嚙めるかもしれない。そんなバカなことはしないだろうし、食べる必要がないのだからそんなことはしないと言われれば、その通りなのだけれど。私には耳からスパゲッティを食べたいという意志があって、それがなにか意味のある重大なことのようになっている。その意味不明な要求が、なにか重大なことのように思えて仕方ないから諦めきれないのか。

まったく着地点を考えずに文章を書き出してしまった。耳からスパゲッティを食べることに関して、何を語ればいいのだろうか。

それはともかく、あの人は元気だろうか。たまに思い出したりする。

 

バリラ No.5 スパゲッティー 5kg [並行輸入品]

バリラ No.5 スパゲッティー 5kg [並行輸入品]

 

  

  

 

グラン・ムリ パスタ スパゲティー 1.6mm 5kg

グラン・ムリ パスタ スパゲティー 1.6mm 5kg

 

 

ラティーノ No.6(1.65mm) スパゲッティ 袋 1000g×12個