すし天ぷら蕎麦、哲学

日々の雑記。

「本」のこと(2019年1月のこと)

私の父がよく言っていた言葉がある「彷徨う野良猫がいつかエサにありつくが如く」。ブラブラしていると様々な事物に出会う。「犬も歩けば棒にあたる」という諺が、意味の良し悪しの別なく使われるように、出会われた様々な事物は、美味しいエサばかりとは限らない。ときに腹を壊すこともあるだろう。しかし腹を壊しながらでも彷徨わねば生きて行かれぬ。とかくに人の世はままならぬが、ままならぬ世のうちにも、ありがたい世界はあるもので、本や映画や音楽が、あってよかったと心から思う。そんな日々の一端を切り取って貼り付けておこう、いわばスクラップブックである。 P.S. 映画や音楽のことも書こうと思ったが、本のことを書き終えた時点でだいぶ嵩が出てしまったので、またの機会に。

ローレンス・M・プリンチペ『科学革命』菅谷暁・山田俊弘訳, 丸善出版, 2014.

Oxford University Press から出ている Very Short Introduction シリーズからの翻訳書である。プリンチペ教授は、彼の他の著書を見てもわかる通り、科学史のうちでもとりわけ化学史・錬金術史を専門とする人物である。例えば、この本の後にも The Secrets of Alchemy (2013) という本を出しているし、以前には New Narratives in Eighteenth-Century Chemistry (2007); Alchemy Tried in the Fire: Starkey, Boyle, and the Fate of Helmontian Chymistry (2002, W. R. Newman と共著) などの本を公刊している。彼の『科学革命』の内容もまた、この経歴と結びついていることは明らかで、なんといってもその問題意識は、科学革命と錬金術的伝統との関係をいかにみるべきかというところにある。よく言われるように、両者の間には大きな断絶がある。断絶はしかし、連続性を排除しない。どんなに深い谷に見えても、その奥底で、あちらとこちらは結びついている。本書は、この微妙な関係を探る道への「めっちゃ短い入門書」だといえよう。

金森修『科学的思考の考古学』人文書院, 2004.

科学の歴史には、いくつもの深い谷がある。以前の科学的理論と次の時代のそれとの間には、ある種の飛躍があるからこそ、新たなものが明確に生まれてくる。とはいえ、深い谷は無ではない。谷の底には、忘れ去られたたくさんの人々の考えが、今なおひっそりと横たわっている。そのような思想を拾い集めて並べ立てよう、というのがこの本である。科学の正統な歴史のうちからは漏れてしまった思想にどんな意味があるというのか、人はそう問うかもしれない。「考古学(アルケオロジー)」が教えてくれるのは、そのような正統な歴史がなぜ「正統」なのかということである。数々の思想が忘れ去られたのは、全然ダメだったからではなく、ちょっとした不完全さ、あるいは歴史的事実ゆえにかもしれない。われわれが立つこの地平を相対化することは、われわれがどのように進むべきなのかを考えるために、欠かすことができない作業だろう。われわれは、時代を動かすための歯車にすぎないのではなく、それぞれ考え行動するひとりの主体なのだから。

橋本毅彦『「ものづくり」の科学史:世界を変えた《標準革命》』講談社学術文庫, 2013.

歴史の偶然的な事実が、現在のあたりまえの景色を作り上げることがある。ある種の「標準」もまたそのような景色のひとつである。なにかが標準化されるということ、例えばネジやコンテナの規格が定められるということは、さまざまな便利さを生み出してくれる。ネジが互換可能なおかげで修理が簡単だし、コンテナの大きさが統一されているおかげで海も陸も一貫して荷物を輸送することができる。しかし、そのような便利な標準ばかりではない。例えば、キーボードのQWERTY配列は、だれかが標準化したわけではないが、すでに普及しているという事実ゆえに、標準的なものとしてまかり通っている。このような歴史の事実に縛られた景色は、それが「あたりまえ」である限り、変えることができない。一度立ち止まり振り返ること、それは、前進するための必要不可欠な条件なのである。

松田純安楽死尊厳死の現在』中公新書, 2018.

安楽死できるなら、すぐにでもしたい」。ものをコピーするよりもずっと簡単なのが、言葉をコピーすることである。「安楽死」という甘美な語は、われわれの口から口へ、指から指へ、瞬く間に伝染してゆく。ところで、その甘い言葉とは一体なにものなのだろうか。ただ感染に任せておいて良いものなのだろうか。そのような疑問に、法制度、歴史、そして思想、という面から迫ったのが本書である。安楽死尊厳死といったものがもてはやされる裏側には、人々のある種の観念がある、「自律しなさい」。問わねばならない、自律した生以外に、われわれの生はあり得ないのだろうか、と。本書は、最終章においてこの問いへと私たちを導き終わる。それゆえに、現在なされる議論の土台となるべき知識を与えてくれる本であり、死が人間の必然である限り、すべての人が読むべき本だといってよいと、私は思う。

テオドール・フィーヴェク『トピクと法律学:法学的基礎研究への一試論』植松秀雄訳, 木鐸社, 1980.

トピクとは、問題を考えるさいの術のひとつである。演繹的で体系的な思惟の方法からは区別されたその方法を、正確に捉えようとする試みは古代から存在していた。問題があるからこそ、推論やその連結としての体系が打ち立てられるのであり、逆ではない。「問題をめぐって推論は回転する」。法律学もまた、この修辞学的方法論によって、導かれた時期があった。その代表としてあげられるのがローマ市民法である。このような思惟を基礎においてなされる法律学は、その根本的な性格を、われわれの知るそれから引き離す。というのも、具体的な生きた事例としての法に関わるためには、法律家が全人格をかけてそれに参与しなければならないし、その点において、「法はもっぱら受忍すべきものとして理解するのではなく、みずから後々まで責任を負ってともにつくりあげるべきものとして理解する」(p. 87)必要があるものだからだ。つまり、それは単なる知識ではなく、道徳的な知識、義務を伴った知識として提示されるのである。法に従うことの受動的なイメージに対して、内在的に動機づけられるものとしての法のイメージは、時代を超えてわれわれにある種のインスピレーションを与えてくれる。

長尾宗典『〈憧憬〉の明治精神史:高山樗牛・姉崎嘲風の時代』ぺりかん社, 2016.

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絓秀実『革命的なあまりに革命的な:「1968年の革命」史論 増補版』ちくま学芸文庫, 2018.

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