わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

夏の復活|『万引き家族』と『海街diary』と花火

「現実の春は死んでいる」。そう述べたのは塚本邦雄であった(『詞華美術館』「風信子祭」)。果たして、現代に「春」はまだあるのだろうか。彼は続けて次のように言う。「あるいは死に瀕した醜い春と、造り上げられた密室の春しか、私達は見ることができない。石油の臭いのする雨は錆鉄を濡らし、涸れた噴水を濡らし、空の燕の巣を濡らし、廃港の魚の屍を濡らし、崩れた寺院と底の抜けた浴場と傾いた劇場を濡らす」。写実主義自然主義に対する痛烈な批判。もはや自然は本来の美しい姿を変貌させ、ここにはその面影もない。

この反写実主義者が向かうのは、ある種の虚構、過去の想像、幻想の王国の樹立である。あの美しき春は、もはやわれわれの外にはどこにもない。ならば、われわれ自身が作り上げるしかないのである。われわれの自身のうちに、想像によって、言葉によって。

私は最近、是枝監督の『万引き家族』をようやく観ることができた。冬で始まり、夏を過ごして、また冬に終わる。夏の映画であった。しばらくして、今度は同監督の『海街diary』を観た。これは法事で始まり、生活をして、法事で終わる映画であった。どちらも静と動の繰り返し、それこそがわれわれの日常であるのだが、まさにそれを描き出している。ある種のセンセーショナルなテーマ、貧困や複雑な家庭状況といったものが前面に出てきてしまいそうなところを、淡々とした語り口で描く。それゆえに、内容が非日常的ではなく当然であるような空気をもって示される。ドラマチックなテーマよりも、日常の普遍性が優先して立ち現れてくるのである。

ところで、想像とは何か普遍的なものを前提とするのではないか。明日のことを想像できるのは、それが今日と同じような法則や日常に貫かれているからであろう。一寸先が闇だと言われるのは、そのような一貫した法則を想定できないからこそなのだ。『万引き家族』にしても『海街diary』にしても、そこに通底する日常は、彼らの観る世界を、彼らを観るわれわれにもまた観せることを可能にしている。

彼らが観たものとは、花火であった。どちらの映画も打ち上げ花火があがるシーンが描かれている。だが、どちらの映画にも、彼らが見上げた打ち上げ花火は直接には映し出されず、ただ、見上げる人々の輝く瞳だけを、われわれはスクリーン上に観るのである(『海街diary』では遠い花火を横から観るシーンもあるのだが、もっとも美しく観えるであろう場所から観ていた登場人物の視点の先は映されていない。そういえば、打ち上げ花火は下から見るのと横から見るの、どちらが美しいのだろうか)。

花火大会のテレビ中継ほど虚しいものはないと私は思う。全身に響く音と、視界一杯に広がる光、すこし汗ばむ夏の夕暮れにゆったりと流れる風、賑わう屋台、そして花火をうつす人々の瞳の輝き。美しい花火は画面のなかではなく、それら全てを一挙に感じることのできる、われわれの想像力のうちにある。だからこそ、是枝監督は花火を映さなかったのではないか。それでも日常性に貫かれた彼らの夏は、われわれの記憶を参照させて、われわれに可能な限りのもっとも美しい夏を観せてくれる。

映画のなかでも、現実のなかでも、そのままの夏は死んでいるかもしれない。殺したのは他ならぬ私たちかもしれない。しかし、われわれの想像力は、その夏に再び息吹を与えることもできるのである。