わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

形式と発見法-『思考のための文章読本』に関して

花村太郎『思考のための文章読本』(ちくま学芸文庫)というのを最近読んだので忘れないうちに感想を書いておこうと思う。

 

思考のための文章読本 (ちくま学芸文庫)

思考のための文章読本 (ちくま学芸文庫)

 

 

花村太郎というと、むしろ『知的トレーニングの技術』で有名である。といっても、私はそちらを読んだことはなくて、読書猿さんのブログで知っているだけなのだけれど。この『思考のための文章読本』は1998年にちくま新書として出たものの文庫版であり、『知的トレーニングの技術』の延長として書かれたものであるらしい。

この本の特徴は他の文章読本との比較によって明確に示すことができるように思う。そこで、ちょうど机の上にあった井上ひさし『自家製文章読本』の一部と内容を比べてみよう。

井上は「文間の問題」という章で、接続詞について書いている。「漱石の文間の空白は浅くて狭い」「原民話に接続しはない、とまでは云えないが、しかし極力抑えられている」「三人共、文間はできることなら接続詞なしで明けておくがよい、それが文章技巧というものだ、といっている」と、いくらか引用してみるとわかるが、様々な人が書いたものから〈それぞれの接続詞の使い方〉ということに注目して言及している。

また次の「オノマトペ」という章では、章末で次の様なことを述べている。

芭蕉の、「によきによきと帆柱さむき入江哉」という発句においてはオノマトペがすべてである。この擬態語の発見に芭蕉は一瞬、命を賭けている。またエドガー・ポーの『大鴉』のnevermore(二度とふたたび)という陰鬱な繰り返し句についてローマン・ヤーコブソンはいう。《エドガー・ポー地震が語っているところによれば、鴉の鳴き声との連合を彼に示唆し、この詩編全体を思いつかせさえしたのは、ネヴァーモアという語の音に潜在的に含まれた擬音能力であるという。》(『音と意味についての六章』花輪光訳)

というように、やはり言葉それぞれの使い方というものに注目して、その役割や意味を分析している。

これに対して、花村の『思考のための文章読本』はどうか。

すると、ぼくらがここで概念の定義を必要とするのは、辞典をつくるためではなく、具体的な思考、具体的な文章の場面でのことなのだということがはっきりする。その場合には、定義は、その概念のおかれた文脈や状況との関連で変わりうるもの、と考えたほうがよくなる。しかも、言葉は誰かによって語られるものである以上、語るものの観点がその概念を規制する。

これは、第3章「確実の思考」における一節である。定義というものに着目し、定義は文章においてどのようにして現れ、どのようにして使われるのかということを考える。それは、具体的な定義についてあれこれと述べるという仕方ではなくて、むしろその構造を取り出してくるという仕方である。

花村自身が「序」で述べているように、「思想や文体は流行によって滅びることがあっても、「思考」と文章は滅びることがない」のであり、思考法は「反復可能なエレメントであり、それらを用いて読者自身が一回的な思考、すなわちまた別の、新しい、思想という出来事を遂行する」ことができる。このような、文章の図式的、形式的、ないしメタ文章的な「思考」の創造的な側面、というものがこの本の眼目ということになる。

だから、他の文章読本と違ってこの本に引用されるほとんどの作品は、小説ではない。学術的なものや、評論など、その文章の構造によって自身の論点を明確にしようとするものを多数取り上げるのである。

これらの思考法というのはたしかにどれも普段から私たちが使っているものである。語源にさかのぼって想像力を広げたり、「泣くから泣き虫なのか、泣き虫だから泣くのか?」というひっくり返しの思考や、擬人法など。しかしながら、普段使っているものでありながら、その正確な構造や効果を把握しているかというそうではない。例えば、第9章「特異点の思考」において「もしPしたければQせよ」という仮言命法は、その背理として「もしQでないならばPでない」を基礎においているために、その命令に従うかどうかは自主的な意志にまかされるとしても、心理的な強制力をもつと述べられている。このようなことには、「ははぁん」と思わされた。

花村の『思考のための文章読本』は様々な分野の本を引用している。そしてそのエッセンス的な部分に特徴ある思考法がつかわれていることを紹介するのだが、それと同時にそれは面白そうな本への招待にもなっている。後ろに引用文献一覧が付されているが、普通の本にあるような引用の一貫性はまったくない。しいて言うなら、人文系ということになるのかもしれないが。

 

というわけで、薄い本ながら大変に「ははぁん」とさせられた「ははぁん」な本ということでした。あと、いろんな人の「文章読本」を集めて比べてみたいという気持ちになりました。「「文章読本」読本」ができそうですね。