わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第4章より

今日は『自省録』第4章の比喩を見てみようと思う。章ごとに特徴があるということでもないと思うのだが、全12章の『自省録』を比喩に着目しつつのんびり読んでみようという気持ちである。第4章には方向性の異なるいくつかの比喩が登場する。

 

第1節:人間の内なる主と呼ばれるものを、「火」に喩えている。

小さな灯ならば、これに消されてしまうであろうが、炎々と燃える火は、持ち込まれたものを忽ち自分のものに同化して焼きつくし、投げ入れられたものによって一層高く躍り上がるのである。

マルクス・アウレリウス『自省録』神谷訳)

人間の内なる主が自然に従っているのであれば、この「炎々と燃える火」のように他のものに適合していくというのである。人間のうちなる主が、どれだけ火と類比的に語られているのかが気になるところだ。つまり、火は「他のものを取り込む」というだけではなく、「熱い」とか「ゆらめく」とかさまざまな性質を有しているわけだが、そのうちの全ての性質が人間の内なる主と同じであるとは考えづらいということである。

 

第3、4節:宇宙と国家の類比

また宇宙は国家に似たものであるということがどれだけ多くの事実によって証明されているかを思い起こすがよい。 (同、第3節)

もし叡智が我々に共通のものならば、我々を理性的動物となすところの理性もまた共通のものである。であるならば、我々になすべきこと、なしてはならぬことを命令する理性もまた共通である。であるならば、法律もまた共通である。であるならば、我々は同市民である。であるならば、我々は共に或る共通の政体に属している。であるならば、宇宙は国家のようなものだ。 (同、第4節)

宇宙は生き物であるということを考えるならば、人間身体もまた国家に似たものであり、人間=宇宙=国家という類比関係が存在しているようにも思われる。ただし、この類比を成り立たせる類似性が、どれほど推移性(人間=宇宙、宇宙=国家という前提から人間=国家を導き出すようなこと)を有しているかは疑問である。

 

第6節:イチジクの比喩

このような人々であってみれば、彼らの手で自然にこういうことが起こるのは止むをえぬ話である。これをいやだというのは、無花果が酸っぱい汁を持っていなければよい、というのと同様である。(同)

どうやら無花果という果物は古代ローマではありふれたものだったようである。無花果が酸っぱい汁を持っているってどういうことなのか、私はよくわかっていない。誰か知っていたら教えて欲しいところ。

 

第15節:香の粒の比喩

沢山の香の粒が同じ祭壇の上に投げられる。或るものは先に落ち、或るものは後に落ちる。しかしそれはどうでもよいことだ。 (同)

この話は、前節の話から続いている。前節では全体の一部として存在し、自分を産んだものの中に消え去っていくということが語られる。その一部であるということは、それぞれさまざまな境遇に置かれるということであるが、どうなろうが「どうでもよいことだ」とマルクスはいう。個人というものは全然重視されていないように思われる。でも、重視されていない個人は、それでも個人ではあるわけで、そういうものの在り方を考えるのは面白いことだと私なんかは思うのである。

 

第44節:日常茶飯事なものを表す比喩

あらゆる出来事はあたかも春の薔薇、夏の果実のごとく日常茶飯事であり、なじみ深いことなのだ。 (同)

これは非常に美しい比喩である。しかし表現している内容は不思議なことを言っているように思う。どんなに新しいように思われる出来事も結局日常茶飯事なのだとマルクスは考えている。例えば第36節では、「宇宙の自然は現在あるものを変化させ、同じものを新しく作り出すことを何よりも好む……現在存在するものは全て将来それから生ずるであろうものの種子なのである」と述べている。ここには、変化というものに対する独特な考え方を見ることができる。「同じものを新しく作り出す」ということは、同じものでありながら、その相貌を変化させるということであろう。だから、それぞれが種子のように未来のことを含んでいて、少しずつ展開していくということになる。「日常茶飯事」とか「なじみ深い」ということの意味が問題であろう。一体何を表現しているのか。今述べたような他の箇所のことを考えるのであれば、「普通の流れである」というくらいの意味で考えるのがよいのかもしれない。あらゆる出来事は、種子のようにすで含まれていたからこそ、「春の薔薇」や「夏の果実」のように、毎年当然のように生じてくるのである。

 

『自省録』第4章にはもう一つ素晴らしい比喩があるのだが、少し長くなってしまったので、次の記事で書くことにしよう。

 

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第3章より

昨日見たように、『自省録』第2章における目立った比喩は「身体」と「宇宙」を類比的に表現するものであった。それでは第3章ではどうなるのだろうか。少し長いが見てみよう。

つぎのことにも注意する必要がある。それは自然の出来事の随伴現象にもまた雅致と魅力があるということだ。 たとえばパンが焼けるときところどころに割れ目ができる。こういう風にしてできた割れ目は、ある意味でパン屋の意図を裏切るものではあるが、しかし或るおもむきを持ち、不思議に食欲をそそる。また無花果も完全に熟すると口をひらく。今にも実の落ちようとしているオリーブの樹においては、実が爛熟に近いために、かえって或る美しさを帯びるものである。穀物の穂がしだれているのや、獅子の額の皮や、野猪の口から流れ出る泡や、その他多くのものは、これを一つ一つ切りはなしてみればとうてい美しくはないが、自然の働きの結果であるために、ものを美化するに役立ち、心を惹くのである

マルクス・アウレリウス『自省録』第3章第2節、神谷訳、下線は筆者)

前半では、マルクスの鋭い観察眼が立ち現れている(それともこのような例は伝統的なものだったのだろうか)。焼いたパンの割れ目に着目する点などは、なんだか「わびさび」的な精神に通ずるものを感じざるをえない。

問題は下線を引いた後半の文章である。ここで挙げられている「穀物の穂」「獅子の額の皮」「猪の口の泡」などはそれ自体では美しいものではないとされる。たしかに、「猪の口の泡」を見て美しさを感じるという人はなかなかいないであろう。ところが、このようなものでも「自然の働き」と結びつけられることで美化されるという。

ここでは「部分が全体を表現する」という修辞的技法が、実在的な世界そのものにも現われ出ているのを見ることができる。佐藤信夫『レトリック感覚』で紹介されているものに従えば、全体と部分には二つの異なる理解の仕方(正確には三つだが今回は二つだけ挙げよう)が存在する。

(Π)人間=頭(および顔)および頸および肩および両腕および両手および胸および腹および背中および腰および……

(Σ)人間=日本人またはアメリカ人またはソ連人または中国人またはフランス人またはドイツ人または……

佐藤信夫『レトリック感覚』講談社、p. 149)

(Π)における全体-部分関係は現実の構造に関わっているが、(Σ)の方は類種関係として理解されている。どちらの理解であっても、全体で部分を表現したり部分で全体を表現したりすることができる。たとえば、例を一つだけあげるならば、「頭数を数える」といって「頭」を数えるというよりは「人間」を数えているというように。

さて、マルクスが下線部で挙げた例はどちらの意味で捉えられるべきだろうか。それは明らかに(Π)の方であろう。宇宙の部分として「穀物の穂」などが挙げられている。このとき、部分は部分それ自体を表示しているだけではない。それを全体に結びつける思考が求められているのである。マルクスは同じ章で次のようにものべている。

まことに人生において出遭う一つ一つのものについて、組織的に誠実に検討しうることほど心を偉大にするものはない。その対象がどんな宇宙に対してどんな効用を持っているのか、全体にたいしてどんな価値を持っているのか[中略]、常々そんな風に個々の対象を見ることほど心を偉大にするものはないのである。 (『自省録』第3章第11節)

私たちは修辞的な技法として、結果によって原因を表現するという手法を使うことがある。悲しむことを「うなだれる」、「なげく」、「泣く」と言う場合がそれである(『レトリック感覚』p. 121)。自然は言葉ではない。しかし、マルクスは自然においてもまたそのような修辞法と同じ構造が働いていることを見ているのである。「穀物の穂のしだれ」は、その原因であるところの全体的自然を表現しているということになる。

『自省録』第3章の比喩は第2章とは異なり、部分と全体の類比ということになっている。部分が全体と結びつくことによって意味をもつというのは、「身体」の特徴でもあるかもしれない。だとすると、宇宙は生き物であり身体であるということ、そしてそこに部分-全体の結びつきが存在しているということ、これが並んだ章で語られるのはとても自然な流れであるように思われる。

 

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第2章より

マルクス・アウレリウスの『自省録』には、多くの比喩が登場する。

なぜなら私たちは協力するために生まれついたのであって、たとえば両足や、両手や、両目蓋や上下の歯列の場合と同様である。それゆえに互いに邪魔し合うのは自然に反することである。  (マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷訳)

第2章の冒頭に登場するのがこの比喩である。話としては、世の中にはたくさん嫌な奴がいるけれど、そういう人々と互いにぶつかり合うのは自然(この「自然」という概念はストア派において重要な概念なのだろうが)に反するということである。その比喩として、私たちの身体における対になった器官があげられている。

両足、両手、両目、上下の歯、これらは互いが互いを邪魔することなく働いているというのは、たしかにその通りである。というより、これらの対は協力し合うことでより効率良くその目的を果たすことが可能になっている。1つの身体のうちで、それぞれの器官が全体のために協力するように働いているということから、マルクス・アウレリウスは人々の間の本性的な協力関係を導き出す。このような比喩は、彼が宇宙を1つの生き物として考えていたことにも由来するのだろう。

宇宙は1つの生き物で、1つの物質と1つの魂を備えたものである、ということに絶えず思いをひそめよ。 (同書)

それぞれの人間も1つの身体のうちの器官のように、ぶつかり合うことのないようなものとして考えることができるということなのだろうか。自然の秩序の中に置かれるというのは、私たちの身体的な調和のうちに置かれるのと同様の協力関係を、世界のうちにみる理由として十分なのかはわからない。

 

第2章に登場する、もう1つの印象的な比喩を紹介しよう。

人間の魂が自己をもっとも損なうのは、自分にできる範囲において宇宙の膿瘍や腫瘍のようなものになる場合である。なぜならば何事が起っても、そのことにたいして腹を立てるのは自然にたいする離反であって、他のあらゆるものの自然はその自然の一部に包括されているのである。 (同書)

こちらは、第2章の最後から2つ目の節に置かれた比喩である。ここでも、宇宙は1つの生き物のように考えられているのがうかがえるだろう。というのも膿瘍や腫瘍というのは、生き物において生じるものとして考えるのが普通だからである。膿瘍や腫瘍は、両手や両足が協力しあっている身体において、ある種の離反者である。時には腕を腐らせることもあるし、そのことによって腕の働きを阻害する。

ここでマルクス・アウレリウスが「人間の腫瘍のようなものになる」のではなく「宇宙の膿瘍や腫瘍」と述べたことは興味深い。宇宙に膿瘍が生じるということを言葉のままにとることはできない。すべては協力関係にあるとされる宇宙に生じた何らかの離反性を「膿瘍や腫瘍」という言葉で表している。このことによって、宇宙が人間と類比的に語られることが自然に導入されていく。宇宙はいつのまにか1つの生き物に対して語られるはずの言葉の対象となっているのである。

 

以上で見たような『自省録』第2章における比喩は、対になった身体器官の協力関係と、それに対する離反者としての腫瘍という、どちらも身体的な比喩である。比喩の領域が身体へ収められているということによって、1つの生き物としての宇宙という点が明らかに強調されることになる。その意味で、第2章に登場するこれらの比喩は効果的であり見事であると私は思う。