わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

横断歩道の白線で遊ぶこと

横断歩道を渡ろうとするとき、誰しも白線に意識がいってしまうという経験があるのではないだろうか。「横断歩道の白線から落ちたらワニに食べられてしまう」というような架空の設定で遊んだ記憶がある人もいるだろう。私の経験からいえば、横断歩道で自分のルールを作って遊ぶというのは非常に自然なことのように思われる。しかし、なぜそれが自然なことであるのだろうか。というか、そもそもそれは「遊び」と言っていいのだろうか。

こういうときはとりあえず歴史から調べるのが定石だ。横断歩道が今のようなゼブラ模様になったのは最近のことらしい。ソニー損保のHPによると、現在のようなゼブラ模様は1992年以降のものであり、それ以前はゼブラの両脇を縦線が走っていたり、もっと前には互い違いの線になっていたようだ(言葉では説明しづらいので、HPにある図を見て欲しい)。ただし、どの線にしても「白線」で描かれていることは変わらないし、1920年に日本初の横断歩道が作られたときから石灰粉で描かれていたというから、色はずっと白いままだ。白と黒(あるいは土の色)のコントラストは運転する人々にとって目立つものであると同時に、歩行者にとっても目に入らざるをえないものだろう。横断歩道は、日本におけるその登場以来、歩行者に対し積極的に「何か」を訴え続けてきた。この何かというものが、「ここを渡ってください」以上のものであるとき、人々はそこに「遊び」を見出すことになる。

さて、「横断歩道の白線から落ちたらワニに食べられてしまう」遊びでは長いので、さしあたり「横断歩道遊び」と呼ぶことにしよう。「遊び」と名付けながら、この行動を「遊び」と呼ぶことに多少抵抗を感じるのは、そもそもこの遊びは自分以外の誰も参加する必要がないからである。普通、おにごっこやかくれんぼなど、他の人々とルールを共有することが、その遊びとしての重要な要素になっている。ところが、「横断歩道遊び」は1人で行われることが多い。そのような遊びはルールを自分で決めることができるし、「白線から落ちたら負け」だとしても、誰に負けるのかよくわからない。頑張ってスコア(というものがあるならば)を伸ばす楽しみくらいが関の山だろう。

「遊び」の体系的分類で有名なカイヨワは『遊びと人間』の中で、「遊び」を次の6つの項目で定義している。「自由な活動」「隔離された活動」「未確定な活動」「非生産的活動」「規則のある活動」「虚構の活動」である。参加が自由でなければならないし、空間として隔離されていて、結果がまだ決まっておらず、新たに何かを作り出さず、ルールがあって、非現実的な意識のもとに行われるのが「遊び」だとされる。「横断歩道遊び」はこの6つの規則に当てはまっているだろうか。

「横断歩道遊び」は「未確定な活動」といえるのだろうか。多人数で行われる遊びの場合、状況は思いがけない方向に絶えず変わっていく。結果はなかなか予想がつかないし、そのおかげでサッカーくじなどが成り立っている。たしかに「横断歩道遊び」には、白線の外側に落ちてしまう可能性が存在している。ところが、実際のところ、白線の外側に落ちないように歩くというのは、そんなに難しいことではないし、気をつければ失敗することはないはずである。

それでも、「横断歩道遊び」を「遊び」として呼ぶことができるとすれば、それは「渡る」という行為の不確定性に訴えるのではなく、むしろ「賭け」としての不確定性が持ち出されるべきかもしれない。「横断歩道遊び」には実は「白線から落ちてはいけない」というルールとは別に「不自然ではない歩き方で渡る」「歩幅を一定で渡る」というルールが含まれているのではないか。もしそうであれば、横断歩道を渡る以前に「このくらいの歩幅で渡れば全ての白線から落ちずに渡れる」という予測であり、この予測が当たるかどうかという「不確定な」賭けゲームとして考えることができる。

このように考えると、ルールを決定することそれ自体が「横断歩道遊び」の一部になっている。「横断歩道遊び」は横断歩道を渡る遊びなのではなくて、「横断歩道を渡るルールを決定する遊び」であり、「渡るためのルールを設定する」という、いわばメタルールによって「規則のある活動」として定められている。

賭けとしての「横断歩道遊び」はカイヨワの定義から「遊び」であるということが言える。異論もあるかもしれない。というのも、実は「横断歩道遊び」という遊びがどんな遊びなのか誰も知らないからだ。それは個人が勝手に作り上げる遊びであり、その遊びが確定されていない以上は何も断言できない。それでも、少なくともある種の「横断歩道遊び」がカイヨワの言うところの「遊び」の定義を満たしているということが言えたので、満足することにしよう。

 

遊びと人間 (講談社学術文庫)

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エピクテートスが哲学に求めたこと

哲学の始めは、少なくともあるべきように、そして入口を通ってそれにとりかかろうとする人々においては、必要なものに関する自分の貧弱さと、無能力とを自覚することである。 (エピクテートス『人生談義』鹿野訳)

エピクテートスはストア後期哲学者として有名であるが、一冊も本を書かなかったと言われている。それでも、彼の語録や断片は残っており、上に引用した『人生談義』もまたそのうちの一つである。この語録はエピクテートスの弟子であるアリアーノスが著したものであり、「語録」「提要」「断片」の三部から成っている。「語録」では、エピクテートスが話した内容ができる限りそのまま記され、「提要」はその語録の抜粋のようなものとなっている。「断片」はいろいろな人の本からの引用であり、出典とともに残されている。

さて、上で引用したのは『人生談義』第2巻第11章「哲学の始めは何か」という部分の冒頭である。「哲学の始め」という言葉でこの章は何を探求しようとしているのであろうか。ここでエピクテートスは知識について探求を進めようとしているのだが、知識それ自体の探求や懐疑に向かうのではないことに注意したい。というのも、彼はある部分で生まれつきの知識というものを認めており、その限りでは知識それ自体は誤り得ないものとして存在している。

善悪、美醜、似つかわしい似つかわしくない、幸不幸、ふさわしいふさわしくない、また為すべきこと為すべからざることについては、誰が、生得観念を持たないで生れて来たであろうか。だからすべてわれわれはその言葉を用い、そしてその先取観念を、個々の事物に適用しようとしているのだ。

生得観念とは一般的には人間が生れながらにして先天的に持っている観念を指す。また、ライプニッツは『人間知性新論』序文で「ストア派の哲学者たちはこれらの原理をプロレープシスと呼んでいた。即ち、根本的仮定、言い換えればあらかじめ含意されている事柄、と呼んでいた」(米山訳)と述べている。近世における生得観念と古代におけるそれは、含意するものが多少異なるのかもしれないが、それはひとまず置いておこう。

生得観念として、上記のような知識が成り立つのだとすれば、哲学がこれらの知識それ自体を保証する必要はない。そこで、エピクテートスが問題とするのは、それらの知識の「適用」の方である。人々はそれらの知識の適用に関して、互いに矛盾するような仕方で行っていることが指摘される。この矛盾によって多くの混乱が生じてきている。それゆえ、彼がここで考える哲学の為すべきこととは、これらの適用に関する矛盾の認識と、どのように知識を適用するべきかということの基準を打ち立てることにある。

哲学の始めを見るがいい、それは人間相互における矛盾の認識であり、矛盾の出て来る根源の探求であり、単に思われるということに対する非難と不振であり、また思われるということについて、それが正しいかどうかの何か研究であり、また例えば重量の場合に、秤を発見し、曲直の場合に定規を発見するように何か基準を発見することだ。

知識の適用における基準とは一体何であるか。知識の適用を正当化するためには、「人によって正しいと思われる」ということでは十分ではない。なぜ、われわれに思われるものが「シリア人に思われるもの以上に正しいのか、なぜそれがエジプト人に思われるもの以上に」正しいのか…という疑問が生じてくることになるからである。そこで、なにか基準が必要なのであるが、それを探求することこそが哲学の仕事だとエピクテートスは述べている。

諸基準を考察して確立するということは、哲学するということであり、その認識されたものを使用するということは、賢者の仕事なのだ。

結局のところこの基準の探求に結論が出されるわけではない。だが、何をするべきなのかということを見定めるという意味で、この章は重要であろう。目標がなければどこに進むべきかもわからないのであるから。

 

人生談義〈上〉 (岩波文庫)

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人生談義〈下〉 (岩波文庫)

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さぁ野菜を食べに行こう

外食をしようということになり、「何を食べたいか」という質問をしたら、「野菜が食べたい」という答えが帰ってきた。このようなときに、いったいどこに行くのが良いのだろうか。麺が食べたいという答えであれば、ラーメン屋、パスタ屋、そば屋、うどん屋…選択肢はたくさんあるし、肉が食べたいという答えでも、焼肉屋や焼き鳥屋に行けば、間違えではないだろう。ところが、野菜となると難しい。

たいていのお店には「サラダ」という、野菜を盛ったメニューが存在している。これを頼めば野菜を食べることができる。ところが、何を食べたいか聞いて「野菜」という答えをもらった場合、単にサラダがメニューに含まれていればいいというものでもないだろう。焼き鳥屋や焼肉屋でもサラダを食べることができるかもしれないが、それはあくまで肉のための前座であろう。しっかりしたおもてなしのためには、野菜がそのお店の主要なメニューの重要な部分を占めている必要がある。

外食で野菜を食べるための選択肢としては、私が思いつく限りではこうである。

A) ビュッフェスタイルのお店でバイキング的に野菜をとってくる。

B) ステーキやハンバーグのお店における、サラダバーを活用する。

C) お好み焼き、もんじゃ屋さんで、野菜がたっぷり入ったメニューを注文する。

D) 鍋を食べに行く。

他にもあるかもしれないが、パッと私が思いついたのは以上である。Aはかなり強い。野菜をとることに特化するという意味では、バイキング形式のお店に行くのが単純に正解なのかもしれない。ところが、難点もある。そのようなお店は食べることに特化していることが多く、お酒についてはかなり手薄である。前提にそんなこと書いてなかったと言われればそれまでだが、私はお酒がちゃんと飲めた方がいいのでできれば避けたい。

そこで、Bの選択肢に移る。ステーキ系のお店の野菜バーはかなりいい感じであるし、お酒もそれなりにある。しかし、そこでの野菜はあくまで肉のための野菜である。野菜バーだけを頼むことができたとしても、そこが肉を食べるための場所だという観念から逃れることができない限り、なんだか変な感じがする。

Cの選択肢はどうだろう。お好み焼きや、もんじゃは、実は野菜がたっぷりのヘルシー料理である。キャベツがたくさん入っている。しかも、お酒が充実しているお店が多いのもいい感じだ。選択肢としては捨てがたいところであるが、それでもあえて言うのであれば、キャベツばかりをとるはめになる。キャベツは美味しいのだけれど、お好み焼きやもんじゃのほとんどは、キャベツと小麦粉でできていることを考えると、野菜摂取のなかでもかなり限定的な野菜の摂取である。

Dはどうか。鍋である。これからの季節は鍋を食べるのが最高ではないだろうか。鍋には日本酒も焼酎もあうし、冷えた体を温めてくれる。お店までの道のりは寒いことこの上ないのだが、店に入り、鍋を食べればあっという間にホカホカになること間違いなしだ。このテンションを見てくれてもわかると思うが、結局私がお勧めする野菜を食べるための外食は鍋屋である。鍋はもちろん盛りだくさんの野菜が入っているし、バリエーションもけっこう豊かである。とくにもつ鍋は最高で、お酒との相性が抜群である。

野菜よりもお酒を飲みたい気持ちの方が前面に出てきていないか、という非難を受けそうな気がしてきた。否めない。否めないけれど、お酒を飲みながら、野菜も食べれるという意味では、鍋屋、とりわけもつ鍋屋が最高だろう。

というわけで、みんなでもつ鍋食べに行こう。さぁ。