わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

好きな場所でひきこもろう

人は田舎や海岸や山にひきこもる場所を求める。君もまたそうした所に熱烈にあこがれる習癖がある。しかしこれはみなきわめて凡俗な考え方だ。というのは、君はいつでも好きなときに自分自身のうちにひきこもることが出来るのである。実際いかなる所といえども、自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠家を見出すことはできないであろう。 (マルクス・アウレリウス『自省録』第4章、神谷訳) 

 現代において「ひきこもり」と言えば、家にひきこもるのが普通だろう。その理由は様々なものがあるだろうが、しかし、外よりもずっと家の中は安心である気持ちはわかる。知らない人は何をしてくるかわからないし、外はとにかく刺激が多い。マルクス・アウレリウスも挙げているような、田舎や海岸や山という場所は、現代でも休養のために人気である。自然が、人混みよりも心を休めてくれるというのは、考えてみると不思議な事態ではあるかもしれない。自然だって他人と同じくらい、むしろそれ以上に予測のつかないものであるようにも思われるからである。とはいえ、そのことは今はおいておこう。

「君はいつでも好きなときに自分自身のうちにひきこもることが出来る」という言葉に注目したい。なるほど、たしかに外的な状況であっても、自分の心を平静のうちに保つのであれば、自分自身のうちにひきこもることができる。しかし、瞑想をするにも、何か考え事をするにも環境から整えるのが普通である。静かな部屋で、静かな音楽を流して、できればお香なども焚いたりして目を閉じて、ただ呼吸のみに思考を向ける。そうすることで、やっと自身のうちにしっかりとひきこもることができる。

デカルトも『省察』第一省察の冒頭で次のように述べている。

幸いにも今日、私はあらゆる気遣いから心を解き放ち、穏やかな余暇を得てひとり隠れ住んでいるので、いまこそ真剣に勝つ遠慮なく、私の意見の全面的取り壊しに専念することとしよう。 (山田訳)

場所が用意されてやっと省察が可能になる。マルクス・アウレリウスの言うような、どこでもできる「ひきこもり」ではない。しっかりと静かな場所が用意されなければならないのである。

それでも、私たちは日々そのような省察だけをして暮らしているのではない。デカルトも『省察』における懐疑と日常は分けて考えるべきだと考えていただろうし、実際そうではなければ生きていけない。そうした日常においてこそ「自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠家を見出すことはできない」ということが意味をもつ。

心が周りの環境から何の影響も受けないということは考えづらいかもしれない。心は環境に左右されると考えるのが普通だ。しかしそれでも、環境に左右される度合いで言えば身体に比べて心は比較的「閑寂な隠家」ではある。あとは、そこにどうやってしっかりとひきこもるのかということである。どんなに人混みの中でも私には隠家があるのだというのは、少し心強い。

どこでもひきこもれる、という気持ちはわかるが、実際なかなか難しいかもしれない。マルクス・アウレリウスはヒントをくれている。「それをじいっとながめているとたちまち心が完全に安らかになってくるようなものを自分のうちに持っていればなおさらのことである。」なんだろうか。好きな人だろうか。猫だろうか。まずはそういうものを見つけるまでうろうろしなければならないのだろう。大変なことである。

 

自省録 (岩波文庫)

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省察 (ちくま学芸文庫)

省察 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

タイムトラベルな文章

なお、このあと、提喩の定義についてはいくらか込みいった検討に立ち入ることとなるので、わずらわしい定義問題などに関心のない向きは、ここから一五六ページまで飛ばして読んでくださってもさしつかえはない。 (佐藤信夫『レトリック感覚』 p. 140(単行本版))

本を読んでいると、ときどき上のような文章に出会うことがある。「上のような」というのは、つまり「一五六ページまで飛ばして読んで」というように、これから読むであろう箇所を指示するような文章である。このような指示は、読者としてはとてもありがたいものであると思う。しかし、ありがたいと同時に不思議な感じがしてくる。

どういうことか。著者はそこまでの間、私を先導するかのように一緒に議論の道を歩いてきてくれた。ところが突然振り返って言うのである。「どうする?一五六ページまでは読まなくてもいいけど。」そこで、著者が私と同じ立場ではなく、すでのこの道を歩き終えてこの先に何が起きるか知っているのだと気づく。当然のことなのだが。

論文の書き方として、「〜については、後で(〜章で)述べることにする」という言い回しがある。山内史朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』によれば、このような表現は「ある事柄について説明できないので、あたかも説明したかのような印象を与えて、文章を書き進めたい場合」に使うと良いということである(もちろん本気で言っているとは思わないが)。このような表現は、さきほどの「一五六ページ」文とは少し異なる。「後に述べることにする」というのは、まだ先を知らない人でも言うことのできる言葉だ。この限りでは、いまだ読者と著者の距離は離れていない。議論を一緒に進めているのである。

ところが、「一五六ページ」文が登場すると、あたかも著者はタイムトラベラーのごとく現れてくることになる。実際、佐藤信夫は後からこの文章を、一四〇ページに挿入したことは間違いないだろう。

このようにタイムトラベルが可能であることは、一体何かを意味するのだろうか。すごくどうでもいいことかもしれない。「これがモノを書くということの特徴の一つなのだ」ということはできるだろう。そこから何か話を広げるだけの話のネタがないのが悲しいのだが、ただただ「一五六ページ」文の不思議な感覚を味わうというのもオツなものである。

 

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

 

 

レトリック認識 (講談社学術文庫)

レトリック認識 (講談社学術文庫)

 

  

レトリックの記号論 (講談社学術文庫)

レトリックの記号論 (講談社学術文庫)

 

 

 

やらねばならぬこと

よく言うことだけれど、「やれ」と言われるとやりたくなくなる。これは単にひねくれているから、ということなのだろうか。やるつもりがあったにもかかわらず、やれと言われるとやりたくなくなるというのは、本当にやるつもりがあったのだろうか。

実際、やるつもりがあったのかどうかは、決定できない。本人の申告によるしかないし、さらに言えば申告さえも過去の自分について語るという距離を含み込んでいるがために、正確ではないかもしれない。現実に生じてきたことは、「やらない」ということだけなのだから、「やる」つもりだったかどうかは現実に起きたことに関して考えるかぎりは置いておくことができる。

どうやら生きているとやらねばならないことに出会ってしまうようである。そういうものは、現実としてやらなければ、「やる」つもりだったとしても、強く責められる。やらねばならぬことは、やるしかないということになる。

やらねばならぬことは避けて通れるだろうか。たいていのやらねばならぬことは、一時的に逃れることができるかもしれないが、やらねばならないが故にまた現れてくる。それに、逃げても逃げてもやらねばならないことはついてくるもので、やらねばならないことから、逃れうるとしたら死ぬということになる。

〜しなければ、〜〜という結果がない。という小さなことでさえ、結果を求めるために〜をしなければならない。別の結果を求めるとしても、ほかの何かをしなければならない。常になにかやらねばならぬことがつきまとってくる。その内容は違えど、やらねばならぬという意味では同じものたちが追いかけ回してくるのである。

これはつまり、選択できたとしても、選択自体を拒否することはできないという状態があり、何を選んでも、やらねばならぬということから逃れられない状態であろう。

もちろん、だれかに強制されることと、自身でする選択は違うかもしれない。それでも、やらねばならぬということだけでいえば、どちらもやらねばならぬということなのだろう。

結局選択は「やらねばならぬとしたら、どれがいいか」ということになる。やらねばならぬことのうちで、何か選択をするとしたらどれがいいのか、どれがマシかくらいのものであるように思う。

どうせやらねばならぬなら、面白いものがいいなぁという気持ちだ。