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CORPUS ORGANICUM

日々の雑記。

生き方としてのプレイ

なぜ生きなくてはならないのか。

この問いにはたぶんいくらでも答えようはある。ただし滅多に説得されることはない。そんな中でもプレイとして生きるという感覚は非常に面白いのではないか。

この考え方は、もともとは、様々な分野で活動しているみうらじゅんが「親孝行プレイ」と言っていたことに依っている。つまり、嫌なこともプレイとしてなら楽しめるのではないかということである。性的嗜好に関するプレイというのは僕はあまり(というか、全く)経験がないのだが、想像するにプレイの一つの醍醐味は難しいことを演じきることにあるように思う。SMプレイをする人だって(たぶん)普段は普通に暮らしいているはずで、そのような場面になっめはじめてボンデージを着たり、縄で縛られたりするのだろう。そして、そのようなアクターとしてプレイする。そこには「こんなことまでやっている自分」ということに対する酔いしれはないだろうか。

SMプレイに関しては全く知らないので、無責任なことを言ってしまったようであるが、僕の経験を振り返ってみてもあえて苦しい状況に身を置くことの快感というのはある。中学のころによくやっていた長距離走などは僕にとってまさにそれだった。

ところで、人生は苦しいだろうか。生きづらいだろうか。それもまた人様々というところであろうが、生きづらさを感じている人にこそプレイのプレイらしさが際立ってくることになる。困難な役割を演じきることに快感を感じるようにすることは、まさに生きづらい人生を楽しむ一つの方法であろう。

ところが、僕はこの方法の一つの欠点に思い至る。もちろん、生き方としてのプレイは人生を楽しむ上で一つの方法とはなりえるであろう。しかし、結局のところ生きづらいことは何も変わっていないのだ。むしろ、生きづらさを生きづらさとして肯定することは、生きづらさそのものに関しては何の解決にもなっていないのではないか。いきづらいにも関わらずなぜ生きなくてはならないのか、と問う人に対して、「それがいいんじゃない」と言える強さがあればいい。そんな強さがあれば悩むことはないだろう。けれども、生きづらさを上から押さえ込めるほどの力がないとしたら、プレイを楽しむどころではないのだ。

結局またどうしたらいいのかはわからないままである。なぜ生きなければいけないのか、ということに現世的な意味での答えを与えることの難しさだけを感じる。しかし、僕自身にとっては、それを探して右往左往すること自体がひとつの楽しみであるとも言えるし、それで十分なのかもしれない。