わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

鈴虫を楽しむ蒙昧な私

黒電話の呼び鈴は鈴虫の音のようであるし、電線は蜘蛛の巣のようである。いや、本当は全然ちがうのだ。けれど、それを同じようなものとして感じることがままある。

反対もある。鈴虫の音が鳴り響く草むらはきっとコールセンターだし、上手にめぐらされた蜘蛛の糸は非常事態のホットラインかもしれない。

この思考の様式に正しさはないが、楽しさがある。自然を擬人化することは、それらが持っている意味を人間自らに強引な仕方でひきつけることだ。鈴虫はなんのために草むらで鳴くのか。なぜ蜘蛛は糸をはりめぐらすのか。求愛、捕食、それらは、結果である。

もしかすると、鈴虫は求愛のために歌うのではなく、それこそ私たちが歌うときのように、歌うことを楽しんでいるかもしれない。あるいは、蜘蛛は糸の長さを競い合っているのかもしれないのだ。私たちが知ることのできるのは彼らが行ったことの結果だけである。意図しない結果というものが世の中にたくさんあるが、それと同様に、鳴いたり糸を吐いたりする理由は本当のところはよくわからないままである。

擬人化された意味を楽しむことは一種の蒙昧であるかもしれない。しかし、そもそも人間は無知であり蒙昧なのではないか。そして、その蒙昧によってしか得られない楽しみもまたあるのではないか。

それが不明瞭な精神の戯れであることは間違いない。楽しみそのものとは、それで全てが満たされるべきものではないのであるが、避けられるべきものでもない。それはそれとして楽しいのであり、せっかくだから楽しめばいいのだ。