わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

現象の善き基礎

コピーやイコンが善きイマージュであり、善き基礎のあるイマージュであるのは、類似性を授けられているからである。ただし、この類似性は、外的な関係と解されてはならない。類似性は、事物と事物の関係であるよりは、事物からイデアへの関係なのである。 (ドゥルーズ『意味の論理学』付録「シミュラクルと古代哲学」小泉訳)

 この世界は本当にあるのだろうか。見ているものは何に基礎付けられて、見えているものとしてあるのだろうか。問い始めると、その基礎は不安定であり、何かつかまえたと思ってもどこかに行ってしまう。ゆずがデビューしたての頃に出したアルバムに入っている「ねこじゃらし」という曲、そこで「例えるものがあるならば それはねこじゃらしのように つかめそうになるとスルスル手の中から飛び出していく」と言っているように。

私がそれを現象を基礎づけるのだろうか。でも、見間違えかもしれない。見間違えでもいいじゃないか。見間違えでもいいなら、基礎づけも必要ない。基礎づけるという行為自体が何か確実なものを求めることから始まっている。なんで確実なものが必要なのだろうか。そうしないと科学が成立しないからか、そうしないと不安だからか。

現象が本当に存在するものだと言いたい、というモチベーションはある。というのも、私自身は「ここにいる」と思っているし、その私がなにかあると思うのだからなにかあるのではないか。物体としてに限定しなくてもいい。VRは現実に投影された映像でしかないかもしれないが、しかしそこにある何かではある。現実に存在するものと、現実に存在しないものの区別は物体性や質料性を有していることには限定されないだろう。現象として現れてきているということが、確実に理由をもってある何かを表示していてほしいのである。

むしろだから、「現象が本当に存在する」と言ったとき、「現象は確実に理由を有している」と言いかえてもいいのかもしれない。

ただ、理由がなくても現象はありうる。現象は現れているということを全てとして、現れている限りで語られるべきだとも言える。気まぐれが(ほんの一時的に)たまたま秩序だって世界として現象しているということも、言えなくはない。私がここにしか存在できない以上は、ここの外側を考えることや触れることからは遠ざけられてしまっている。1、3、5、7、9……という数字の列があったとき、私が9のところまでを知っているからと言って、その向こう側の11だと予想することは合理的であるが、そうなることが必然ではない。だから、現れている限りで秩序だっているとしても、その外側まで秩序を認め「あらゆることに理由があるのだから、現象にも理由がある」と述べることは越権かもしれない。

現象はなぜ基礎づけられねばならないのだろうか。だって世界はあるじゃない。でも、「ある」と言えるのは基礎づけられているからでしょう。ここに、循環がある。じつは、「ある」とか「ない」とかいうこと自体が間違っている可能性もある。現象とはそういうふうに言われうるものではない可能性がある。

結局、問い自体もねこじゃらしのようだし、答えもねこじゃらしのようだし。それでも、こうして生きているということもまた不思議だ。何か語る以前にすで、語ろうとしてしまっていること、ここには「何かあるなぁ」という強い実感が押しよせるばかりである。