わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

私がものを見るということは、私の空虚を埋めるのだろうか

何かを論じたり、評したりすること、さらには単に何かを語ろうとすることは常に、その対象を自分の外部に置くことを伴う。言葉にするだけでなく、考えることそれ自体も何か私ではないものを考える。私自身を考える際も私は対象化される。リンド夫妻が『ミドルタウン』において示したような参与観察に基づく地域社会研究だって、参与しつつ対象化しなければ書けなかったはずだ。

学問の世界ではこれは必要なことである。デカルトが『方法序説』で述べているように、科学の発展には到達した知識をみんなで共有することが必要である。巨人の肩はどんどん借りていく。知識は常に自身から切り離された何らかの媒体になって世の中に広まっていく。それ自体まったく悪いことではない。

この学問観、さらには何かを語るということの必然的対象化について、非常に有意義なことであると思う。しかし、最近ふとしたときに空虚を感じた。その空虚の正体についてしばらく考えていたのだけれど、どうやらそれは対象が自分に回帰してこないことから生じてきているようなのである。つまり、何かを語ることを目指すというのは、対象を丹念に省察しつづけていくことであると思うのだが、それが自分から切り離されたままになってしまうということである。しかし、ある事物の探求において、自己にある対象を回帰させてしまうことは、思考の否定を簡単には行えなくすることでもある。それゆえに、切り離した対象は切り離されたままに思考を連結していく必要がある。そこには常に否定可能性が残されているし、そうであるべきだと思う。

空虚の正体は、私の知性の働き方を統制しようとしてくる哲学的な知識を、あくまで対象化し続けることにある。私自身の内から出てくるものも、もちろんある。全くないわけではない。それでも空虚が残っているとすれば、対象化されない私を肥やしていけば、空虚は満たされていくことになるのだろうか。

何かを対象化して物事を考えたり語ったりすること、これは何に対置されるのだろうか。中沢新一が『ミクロコスモス』の中の「哲学の後戸」というエッセイで、デュオニソス的なものとの同一化(耽溺、惑溺)とロゴス的な哲学を対比している(元ネタは井筒俊彦)。対象化は同一化に対比される。私は何かを対象化すると同時に、それを同一化するということができない。自身を何かに同一化していく方向性は、自身を肥やすことであると同時に自身が何かと混じり合うことである。拡張であると同時に、幼虫が蛹を経て成虫になるような、全く違う形態のものへの変化である。

経験そのものがその中に含まれる促しによって、同時に実存を構成し、そういう事態が一人の人間を定義するものである、と。そして、この一人の人間を定義する経験と実存との関連、より正確には前者から後者への分けがたい移り行きを私は「変貌」と呼ぶのである。(森有正『思索と経験をめぐって』講談社学術文庫

経験は私自身に何かを付加する。何かを付け加えられること、すなわち何かを同一化させることは、実在的にそれ自身が変貌することである。自身はこうして自身を肥やしていくことになる。

生きていく中で、そういうものをどんどん集めていくことの方が、何かを語り、言葉を紙に書き、考えることよりも、大切なのではないか。そういう思いが何となくあるから、先程言ったような空虚を感じることになったのではないか。それで、しかし、こうして何が空虚らしいものだったかを少し特定してみてから改めてそれが空虚なのかどうか問い直してみるならば、答えは変わるように思う。

経験の大切さを述べる哲学者はたくさんいる。経験そのものに目を向けることは、哲学的にとても面白い。しかし問題は私自身のほうにある。彼らが書いた本を読んで、そしてそれについて考えたり、批判したり、論じたりすること、を目指すのか、それともある意味そこに耽溺していくのかということである。そして、耽溺せずに対象化することは空虚なことなのだろうかということである。本当に、同一化、経験、耽溺、そういったものによってしか自身の空虚は埋まらないのだろうか。そこに空虚はあるのか。なんなのか。わからないことが多い。