わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

最適と街灯

駅から家までの帰り道。駅の周りはそれなりに明るく、人通りも多いのだが、少し駅を離れるとあっという間に暗い道に出る。とりわけ私の家の近くは、畑ばかりで夜は人もほとんど通らないような場所である。真っ暗かというとそうでもない。最近は街灯が新しいものに付け替えられて、以前のようなぼんやりとした光ではなくなった。ピカァーーっとしていて、ずっと見ていると目がくらむようだ。

それでも、街灯と街灯の間には真っ暗な夜が流れている。そこに少し立ち止まって、暗闇に目を慣らすと、いままで見えなかった星空が見えてくる。とりわけ今日は、雲もなく、空気も澄んでいたのか、星が大盛りだった。星座に詳しいわけではないので、何が何かはわからないのだが、とにかくたくさんの星が見えた。

それでまた少し歩き出すと、例の明るい街灯の下に来てしまう。この下では何も見えない。実は明るすぎて街灯しか見えない。街灯の向こうはかなり暗い道が続いているので、街灯の明かりで暗闇が余計に暗く見えるのである。とにかく明るい街灯をつければよいというものではないらしい。

少しずつ街灯の付け替えが進んでいて、日に日に眩しい街灯が増えていく。これはなんだか逆に不便だぞ、と思いつつ、どこに訴えたらいいのかわからない。星が見えないとかそういうことはまぁ良いのだ。安全面的にも少し問題があるように思うから困っている。

こういう現象を目の当たりにすると物事は単純じゃないのだなぁという気持ちになる。最善であることは、最大であるというよりも、最適であることなのだ。最善世界を提唱する哲学者はこのように考えていた。めちゃめちゃ明るい街灯が最善ではない。適度に明るい街灯が最善なのである。実際の物事に関して、最適を探ることは非常に困難を伴うことかもしれない。最大を目指して突き進む方が単純ではある。

でも、そうすると先の見えない暗闇が広がってしまうのだ。最適を探すことは、一番遠くまで視野を広げることにつながっていく。これは比喩ではない。ただの夜道の話である。夜道を安全に歩くために、考えなくてはならない。

 

紅葉は落ち葉を教えてくれる

今年は少し遅かったのだが、街の木々もだいぶ紅葉しているのに気づいた。私が気づくのが遅かったのか、木々の方が色づくのが遅かったのか。天気予報によれば、木々の方が遅れていたようだけれど、最近あまり外に出ることがないので実際のところどうだったのかは知らない。何にしても今年もちゃんと色づいてくれてよかったと思う。

紅葉は私の注意を落ち葉へと向けさせる。すると落ち葉が不思議なほどに綺麗な色に変容してそこらじゅうに散らばっていることに気づく。変なことかもしれないけれど、落ち葉に気づいて紅葉に気づくのではなくて、紅葉が私に落ち葉を気づかせるのである。だから私は紅葉していない季節には落ち葉を意識することはほとんどない。

落ち葉を見ていると、様々な大きさの葉が落ちていることに驚く。それにいろんな色の葉っぱが落ちている。真っ赤、茶色、黄色、緑、黒くなっているのも…。どの葉も個性的でいつまでも自分のお気に入りの落ち葉を探し続けられるのではないか。

そういえば、次のような話があるのを思い出す。1695年のある日、ライプニッツはヘレンハウゼン王宮である貴族と議論になった。どこにも全く同じ葉は二枚と存在しないというのがライプニッツの主張であり、それに相手の貴族が反論したのである。ヘレンハウゼン王宮の庭園には同じ二枚の葉があるはずだと。それで探し回ってみたのだけれど、結局なかったというのである。なんともお茶目というか、変な話である。ヘレンハウゼン王宮庭園は今でも残っているらしく、ドイツの観光案内によるとヨーロッパ屈指の美しい庭園だということである。いつか行って、私も葉っぱ探しをしてみたいものだ。のんきでいい。

だけれど、わざわざ庭園でそんなことをしなくても、葉っぱはどこでも葉っぱである。どこでも同じようにみな葉っぱであって、それぞれ葉っぱらしさと、葉っぱらしさの中でも個性みたいなものを発揮している。なんであなたは葉っぱなの。葉っぱは答えてくれないけれど、葉っぱは葉っぱなのだろう。

そういう葉っぱが、そこらじゅうに落ちている。紅葉した落ち葉は、見た目も主張しているし、踏めばサクサクと音を立てて崩れるので、嫌でもそちらに気持ちが向いてしまう。秋とか冬はそうやって葉っぱが私にどんどん現れてくる。

落ち葉を拾って語りのんびり語り合いながら散歩をしたいですね。

ヨコヅナサシガメの越冬

昨日とある公園を散歩していたら見たことのない虫を発見した。ゴツゴツした桜の幹に、体長1センチちょっとくらいで赤黒い体をした虫たちが何十匹も体を寄せて集まっていた。背中がゾゾゾーッとするような光景だったのだけれど、普段見慣れない姿だったのでじっくりと観察することになった。

からして蜘蛛かとも思ったのだが、どうも足の数は6本だし触覚までついているので明らかに違う。なんだこの虫は、と後から調べてみるとどうやら「サシガメ」というカメムシの仲間らしい。私が見たのは、そのなかでも「ヨコヅナサシガメ」というとりわけ大きな種類の幼虫のようだ。そういえば、昔見ていた図鑑にカメムシらしからぬカメムシが載っていたのを思い出した。あれがそうだったのだろう。カメムシというとカクカクした体をしていて、だいたい緑とか茶色とかだと思うのだけれど、サシガメは全然違う姿をしている。細長い顔とつやつやした体が印象的なのだ(見た目がアレなので、見たい人は自分で検索してみてほしい)。

明らかに、毒があるぞ、という色をしていたのでそのときは触らなかった。調べてみると、やはりむやみに触ると刺されるらしい。それで「サシガメ」というのか。普通のカメムシは植食生が一般的らしいのだが、このサシガメ類は肉食であり、哺乳類などの血を吸う種もいるらしい。なんと恐ろしいことか。しかもめちゃめちゃ痛いらしい。wikipediaを見ていたら、「中央アジアの王達が捕虜を拷問するのにこの手の虫を使った」という話が書いてあった。触らなくてよかったと心から思う。

どうやら、夏場などは木の上の方にいてあまり目立たないのだけれど、冬場になると下の方に降りてくるそうだ。それであまり見たことがなかったのだろうか。いつもの道でも少し立ち止まって目を凝らしてみると、普段出会わなかった虫や植物にであうことが多い。こんな植物あっただろうか。なんだろう今の黒い虫は。

知らない隣人が草むらや畑にたくさん住んでいる。夏場はどこからともなく鳴き声が聞こえたりするけれど、どこにいるのかよくわからない。お互い普段は関わることのない存在で、それでもこんなに近くにいる。これが全部人間だったら大変だろう。草むらにたくさんの人が潜んでいて何かを喋っているのが夜な夜な聞こえてきたりしたら、眠るどころの話ではない。虫だからいいのだ。植物だからいいのだ。根本的に何か関係を持つことのできない存在だから、近くにいることできる。そういうこともあるのかもしれない。

 

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