わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

Spotlight検索の画面でファイルの場所を表示する方法

FInder 検索で検索したときのように、Spotlight 検索を使ってファイルの場所を特定する方法について

ふだんから Spotlight 検索をショートカットに登録して使っているので、こちらを使用してファイルの場所をサッと確認したい(アルフレッドを使うべきと言われるかもしれないが、デザインがあまり好きではないのです…)。

普通に Spotlight 検索を使用すると、素早くファイル名は確認できるもののそれが属している場所を確認することができない。これは、たとえば、ちゃんとファイルが整理されているかを確認する際などにちょっとだけ困ることになる。

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この画面の状態で、ファイルの場所を確認することができると非常に便利。

方法は簡単で、検索したファイルを一度クリックして青くした状態で、コマンドキーを押せばよい。下の方にファイルの場所をすっきり表示してくれる。

また、コマンドキーを押しながらファイル名をダブルクリックすると、Finder でファイルの存在しているフォルダーを開いてくれる。

以上の方法を使えば、素早くファイルを整理整頓することが可能になるので覚えておきたい。

確信の背後で虚焦点となりゆくものへ

大半の人は興味がないであろう、私の個人的な悩みの話である。

ある物事を意味づけることについて、以下の文章を引用するところからはじめよう。

秘所は人間が自然を意味づけし、自然を思想化して、はじめて成立する。だから宗教的に意味づけのない自然は、いくら美しく神々しく見えても、それは一枚の絵葉書のような単なる自然の風景でしかない。修験道では、 “ 自然としての風景 ” と “ 観念としての風景 ” 、いいかえれば、“ 視える世界 ” と “ 視えない世界 ” を二重合わせにして視なければならないのだ。(内藤正敏修験道の精神宇宙 出羽三山のマンダラ思想』青弓社, 1991, p. 115. )

ある出来事はコンテクストの中に位置づけられて初めて意味を持つ。だから、自分の行為を「すべきこと」であったり、「必然的なこと」として捉え返すためには何らかの物語に位置付けてあげなければならない。というのも、そういった規範や必然性は意味の一種だからである。

ここでいうような必然性は単に因果の必然的な関係や、数学の必然的な帰結のようなものではない。厳密には必然的ではないような必然性がある。つまり、他でもありえたのにもかかわらずこうなったのだが、こうなるべくしてこうなった、という必然性の話である。それは、「可能性」の選択の話ではなく、可能性の「選択」の話である。

必然性はコンテクストとの結び付きによって初めて可能となる。もちろん物語に結びつけることがそのまま必然的なものとなるわけではない。ここでいうような、厳密でないような必然性は、変な言葉ではあるが、程度的な必然性である。確からしさや蓋然性といったものに近い必然性である。コンテクストに結びつけることは、そういった意味での程度的な必然化を引き起こす。

 

ある出来事が必然的であったり、するべきであったりすることは悪いことではない。そして、コンテクストに結びつける方法は無数に存在する。網の目状に関係付けることも可能だし、一つの出来事に重心を置くようなコンテクスト化もまた可能であろう。そのような関係づけの形式のありうる選択肢のなかで何を選ぶかということ自体、意味づいた出来事の様相に大きく影響を与える。そして、とりわけ自身の歴史性の一点に重心をおくようなコンテクストを作り上げる形式には危険性がある(しかし、私はこの立場にあるということが悩みを引き起こすのである)。どういうことか。

初恋というものがある。それをどう捉えるかは様々な人が様々なことを考えているとは思うが、とりあえず私は何度も振り返られる恋を初恋と呼ぶことにしている。最初の恋ではない。最初の恋が何度も振り返られるならばそれは初恋だが、忘れ去られてしまった恋はもう初恋ではないのである。何度も振り返るというのは、何度も参照を繰り返し、その度に現在に結び付ける作業である。そして、あらゆる物事へと結び付けていくとするならばそれは結局のところ、初恋という自身の歴史性の一点に重心をおくようなコンテクストを作り上げることなのである。

物語化によって、単に現在の出来事を意味づけているつもりである。しかし、それは現在の意味を重心へと再び結び付け返す作業と表裏である。個々の現在を意味づけるうちに、たった一つの歴史的重心は非常な重荷を背負っていくことになるのだ。同時に、歴史性が本質的に過去に関わるものであることは、忘却を含意する。夢は忘却を本質とする最たるものであるが、過去もやはりそうであろう。消え去り行く重心、それは確かにあったはずのものなのだが、やがて虚焦点となりゆくものなのである。

そのような虚焦点へと向かう一点を、それでもなお、あらゆるものの中心にすえて意味づけようとすることが(少なくとも私にとっては)問題なのである。意味づければ意味づけるほどに重みをます重心が徐々に消え去ってしまうことは、避けようのないことなのか。忘れ去られて虚焦点となることは、しかし、本当に「虚」となることなのか。全てを支える重心それ自体は、何によって支えられるべきなのか。

意味づけることは簡単だ。やるべきこともわかる。そして、こうなるべくしてこうなったという確信もある。しかし、問題は、この確信の基礎が消えゆくものであるということである。山は山としてもちろんそこにある。しかし問題は、私の歴史性との結びつきの中で捉えられた山である。記憶の中の山である。夢の中の山である。消えゆく山なのだ。この消えゆく山の問題を放置すれば、いつか全ての意味は瓦解してしまうのではないか。

これが、私の個人的な悩みである。

 

 

ヴィトルト・リプチンスキ/春日井晶子訳『ねじとねじ回し』(早川書房)に関する覚書

20世紀の終わりごろ、それまでの1000年間で最も偉大な道具がなんであったのかを調査した建築学者のエッセイである。ハンマーも、のこぎりも、古代ギリシアからずっと改良を重ねながら使われ続けてきたものだった。しかし、「ねじ」と「ねじ回し」はそうではない。あるとき、突然変異的に出てきた道具であった。

注意しなければならないのは、「ねじ部品」と「ねじ基本」をしっかり区別しなければならない点である。ねじ基本とはねじ山等のねじの原理であり、ねじ部品とはねじ全体を指して言われる。ねじ基本は、古代ローマ古代ギリシア時代から、圧搾機やアルキメデスの水揚機などで使われ続けてきた。しかし、それがねじ部品として、つまり釘と螺旋の組み合わせとして使用され始めたのは、ねじ基本の発明から少なくとも1400年の期間をおいてのことだったのである。

ねじと釘の違いは大きい。釘は打ち込まれた後、左右からの圧力で固定される。一方、ねじは左右の圧力に関係なく固定される。仕組みの複雑さが一次元異なっている。この転換はある種の詩作的発想力の賜物であると著者は考えている。例えば、フランスにおける蒸気機関のパイオニアだったE. M. バタイユを引用して「発明とは、科学の詩作ではないだろうか。あらゆる偉大な発見には詩的な思考の痕跡が認められる。詩人でなければ、何かを作り出すことなどできないからだ」(p. 130)と述べている。この意味で、ねじとは特定の問題を解決するために発達した枠付きの大のこや、ソケット付きハンマーとは一線を画する発明だったという。

ところが、著者の次の発言ではねじに対する「要請」があったということが指摘されている。「古代ローマでは火縄銃も背出し蝶番もなかったので、ねじのような小さくて効率的な締め具はたいして必要なかったのだろう。…技術上のさしせまった要請がなかったわけだ。つまり、1400年後にようやく機械屋の詩人が気づいたのだ。オリーブの実を潰したり、折れた骨を伸ばしたり、観測器具を調整したりできる螺旋なら、ねじ山のついた釘として使うこともできる、ということに」(p. 148)。ここで言われる「要請」とは「特定の問題を解決するためではない」ということとどのように相容れるのだろうか。

ここに、ねじをはじめ、曲がり柄錐や卓上旋盤といった突然変異的な発明(徐々に発達するのではない仕方での発明)の面白いところがある。時代状況は少なからず何かを要請してくる。火縄銃の登場は、小さくても緩まない締結部品の発明を要請した。釘では明らかに代用不可能な締結部品である。しかし、必要性から発明までが全くシームレスではないのである。必要があるから釘に螺旋を付け足せばいいという仕方でねじは発明されないということである。そもそも、釘の原理とねじの原理は全く異なっている。このことから言って、釘が有する特定の問題、緩みやすさや、大きさといったものの解決は、釘に対する問題解決という仕方では行われなかった。それは、より大きな時代的な問題解決の次元でなされたのであり、釘とは断絶的な詩的発明であると言える。

これは著者の書いていることを逸脱した一つの解釈にすぎないが、要請と詩作性の両立のなかで発明された「ねじ」を語るにはこの道が適当であるように思われる。問題解決ということが、何にとっての問題解決なのか、つまり「釘の問題」なのか「時代としての問題」なのか、この違いをこの著書からうまく読み取ることができなかった(読みが足りないせいかもしれないし、エッセイだからそんなに厳密ではないのかもしれない)。時代としての必要性であれば、ねじは、ねじでなくてもよかったと言える。他の全く異なる原理が細かな部分で強力な締結部品として使用されていた可能性もあるのだ。これが詩的であることの内実ではないか。

この点で、私の「ねじ」理解は翻訳者と異なってしまっていることも注意しておかねばならない。というのも翻訳者は、文庫版が出版されるにあたってのあとがきで、つぎのように書いているからである。「もしねじがなかったら…という仮定は無意味であろう。なぜなら、人類の歴史のどこかの時点で必ず、ねじは必要とされ、生み出され、有名無名の職人の工夫や努力を宿らせて、私たちの生活を支える裏方となったはずだから」(p. 181)。しかし、時代の要請は、あくまで釘の改良ではなく、新たな締結部品を求めたのではなかったか。そしてそれは、螺旋を本質とする締結部品である「ねじ」でなくともよかったし、その登場はあくまで詩作的な創作、自由な精神の所産だったのではないか。

何にせよ、人間のものづくりという営みは、考えるべきことが多い。今後ものんびり考えていきたいテーマである。