わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』:観測不可能への歩み

科学の理論というものが, 経験的なデータに「説明」を与えるためのものであるならば, その理論を何らかのモデルを用いて理解する必要があるだろうか. あるいは, その理論を馴染みの対象や出来事とのアナロジーによって理解する必要があるだろうか. 

これは、M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』(高田訳)の冒頭の一文である。この問題に関して、デュエムとキャンベルという二人を筆頭に物理学者たちの論争があったことが紹介されている。

デュエムは1914年に出版した『物理学理論 La Théorie physique』において、滑車や歯車、ひもやフックなど機械仕掛けのモデルないしアナロジーによって理論を解説しようとする試みは本質的ではないと考えた。たしかにモデルは発見の役にたつかもしれないが、演繹構造をもった数学的な体系のように永続的な意義をもつことはない。

一方で、N. R. キャンベルは1920年に公刊された『物理学, その基礎 Physics, The Elements』において、デュエムの見解に真っ向から対立することになる。すなわち、デュエムたちのように、モデルを理論のための「単なる補助手段」として考え、理論が展開してしまったあとはモデルを捨て去ることができるという人々に対立するのである。キャンベルはデュエムに対して大きく分けてふたつの批判を浴びせる。第一に、「理論が現象の説明であるとするならば, 理論によって, われわれの知性は満足させられるはず」である。満足とは、理論の単純さや経済性といった形式的特徴だけではなく、その理論を実際の事象として理解するための理解可能な解釈が存在していることを指す。モデルが捨て去られてしまうということは、そのような解釈を拒否することにもなる。第二に、理論は「動的な」性格をもっているのであり、新しい理論のために絶えず拡張されなくてはならない。モデルがなければ、新たな現象を予測するということができないのではないか。

この二人の主張は決着のつかないまま現代に至っているが、それでもヘッセが述べるところでは物理学者の多くは本質的にはデュエムのほうに同意している。というのも、量子力学には理解可能なモデルがない(正確には一つのモデルで理解可能なモデルがない。波モデルと粒子モデルを組み合わせるという方策はあるかもしれない)というような事態があるからである。

この本の著者であるヘッセ自身はキャンベル主義の側に立つ。

モデルなしには, 理論に要求されてきた機能のすべてを果たすことができない, とくに真に理論が予測するものにならない, というキャンベルの主張には, 今日でも真理が含まれていると確信している. 

基本的にモデルというのは観測可能な体系として考えることができる。空気粒子の運動は目には見えないが、それを私たちはビリヤード玉モデルで理解することができる(これはホイヘンスの例らしい)。それゆえ、このモデルと理論という考え方は、経験からどのように理論を予測していくかということに関わる。モデルと理論の間のアナロジーは、観測可能な領域と観測不可能な領域との対応をもとに予測を進めていくことになる。

このような、観測可能性と観測不可能性の対は、モデルと科学的理論という対には止まらない。つまり、このようなアナロジーの方法はもともと人間理性が神的な領域を知るための方法でもあったということである。現代では科学的理論に関してのみモデルの有用性が語られるのであろうが、数百年前に遡ればそれは観測不可能な〈メタ〉フィジックな領域に関しても有用であったはずである。

ライプニッツは概念や観念でのみ捉えられる存在についての認識を、「盲目的認識」とか「記号的認識」などと呼び表した(『認識・真理・観念についての省察』)。このような認識は、単純な観念の組み合わせとして考えられており、直観的にそれが何であるかということを語ることができない。それが何であるか語ることのできないものを、人間にとって何かであるというためには、すでに理解されているものから解釈するしかないだろう。例えば千角形はパッと見はいくつ角があるのか理解することのできない図形である。その図形に千個の角が存在しているということを理解するためには、三角形の三つの角のようなものが、千集まっているのだろうということを考える必要がある。そのとき三角形のようにパッと見でそこに千個の角を認識するのではないにしても、千個の角を持つものとして千角形を理解し、千個の角を持つということが三角形という観測可能なものからの類推として成立する(もちろん三角形というのも理念的なものなので、もっと言えば、モデルとして三角形の模型を作るということから始めるべきなのかもしれないが)。

観測できないものについて語ることは、仮説的なものが入り込んでくることは確かである。モデル選択の正しさは、モデルから理論を組み立てていくことにおいて、モデルと理論の往復で不整合が生じてこないということによってのみ保証される。一つのモデルが最後までうまくいくとは限らないのであるが、それでも不整合が生じない限りは遅々としてでも進んでいくことができる。近代形而上学を発展させた人々は、科学革命によって得られたモデルを駆使して捉えがたい領野を推し進めていった。科学の革命が「無限」を生み出し世界の底を抜いてしまったことは確かかもしれないが、同時にその革命によって得られた技術は、人々にモデルを提供し、形而上学的領野へと進む方策をも提示したのだと思う。

 

Models and Analogies in Science

Models and Analogies in Science

 

 

科学・モデル・アナロジー

科学・モデル・アナロジー

 

 

 

 

好きな場所でひきこもろう

人は田舎や海岸や山にひきこもる場所を求める。君もまたそうした所に熱烈にあこがれる習癖がある。しかしこれはみなきわめて凡俗な考え方だ。というのは、君はいつでも好きなときに自分自身のうちにひきこもることが出来るのである。実際いかなる所といえども、自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠家を見出すことはできないであろう。 (マルクス・アウレリウス『自省録』第4章、神谷訳) 

 現代において「ひきこもり」と言えば、家にひきこもるのが普通だろう。その理由は様々なものがあるだろうが、しかし、外よりもずっと家の中は安心である気持ちはわかる。知らない人は何をしてくるかわからないし、外はとにかく刺激が多い。マルクス・アウレリウスも挙げているような、田舎や海岸や山という場所は、現代でも休養のために人気である。自然が、人混みよりも心を休めてくれるというのは、考えてみると不思議な事態ではあるかもしれない。自然だって他人と同じくらい、むしろそれ以上に予測のつかないものであるようにも思われるからである。とはいえ、そのことは今はおいておこう。

「君はいつでも好きなときに自分自身のうちにひきこもることが出来る」という言葉に注目したい。なるほど、たしかに外的な状況であっても、自分の心を平静のうちに保つのであれば、自分自身のうちにひきこもることができる。しかし、瞑想をするにも、何か考え事をするにも環境から整えるのが普通である。静かな部屋で、静かな音楽を流して、できればお香なども焚いたりして目を閉じて、ただ呼吸のみに思考を向ける。そうすることで、やっと自身のうちにしっかりとひきこもることができる。

デカルトも『省察』第一省察の冒頭で次のように述べている。

幸いにも今日、私はあらゆる気遣いから心を解き放ち、穏やかな余暇を得てひとり隠れ住んでいるので、いまこそ真剣に勝つ遠慮なく、私の意見の全面的取り壊しに専念することとしよう。 (山田訳)

場所が用意されてやっと省察が可能になる。マルクス・アウレリウスの言うような、どこでもできる「ひきこもり」ではない。しっかりと静かな場所が用意されなければならないのである。

それでも、私たちは日々そのような省察だけをして暮らしているのではない。デカルトも『省察』における懐疑と日常は分けて考えるべきだと考えていただろうし、実際そうではなければ生きていけない。そうした日常においてこそ「自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠家を見出すことはできない」ということが意味をもつ。

心が周りの環境から何の影響も受けないということは考えづらいかもしれない。心は環境に左右されると考えるのが普通だ。しかしそれでも、環境に左右される度合いで言えば身体に比べて心は比較的「閑寂な隠家」ではある。あとは、そこにどうやってしっかりとひきこもるのかということである。どんなに人混みの中でも私には隠家があるのだというのは、少し心強い。

どこでもひきこもれる、という気持ちはわかるが、実際なかなか難しいかもしれない。マルクス・アウレリウスはヒントをくれている。「それをじいっとながめているとたちまち心が完全に安らかになってくるようなものを自分のうちに持っていればなおさらのことである。」なんだろうか。好きな人だろうか。猫だろうか。まずはそういうものを見つけるまでうろうろしなければならないのだろう。大変なことである。

 

自省録 (岩波文庫)

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省察 (ちくま学芸文庫)

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タイムトラベルな文章

なお、このあと、提喩の定義についてはいくらか込みいった検討に立ち入ることとなるので、わずらわしい定義問題などに関心のない向きは、ここから一五六ページまで飛ばして読んでくださってもさしつかえはない。 (佐藤信夫『レトリック感覚』 p. 140(単行本版))

本を読んでいると、ときどき上のような文章に出会うことがある。「上のような」というのは、つまり「一五六ページまで飛ばして読んで」というように、これから読むであろう箇所を指示するような文章である。このような指示は、読者としてはとてもありがたいものであると思う。しかし、ありがたいと同時に不思議な感じがしてくる。

どういうことか。著者はそこまでの間、私を先導するかのように一緒に議論の道を歩いてきてくれた。ところが突然振り返って言うのである。「どうする?一五六ページまでは読まなくてもいいけど。」そこで、著者が私と同じ立場ではなく、すでのこの道を歩き終えてこの先に何が起きるか知っているのだと気づく。当然のことなのだが。

論文の書き方として、「〜については、後で(〜章で)述べることにする」という言い回しがある。山内史朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』によれば、このような表現は「ある事柄について説明できないので、あたかも説明したかのような印象を与えて、文章を書き進めたい場合」に使うと良いということである(もちろん本気で言っているとは思わないが)。このような表現は、さきほどの「一五六ページ」文とは少し異なる。「後に述べることにする」というのは、まだ先を知らない人でも言うことのできる言葉だ。この限りでは、いまだ読者と著者の距離は離れていない。議論を一緒に進めているのである。

ところが、「一五六ページ」文が登場すると、あたかも著者はタイムトラベラーのごとく現れてくることになる。実際、佐藤信夫は後からこの文章を、一四〇ページに挿入したことは間違いないだろう。

このようにタイムトラベルが可能であることは、一体何かを意味するのだろうか。すごくどうでもいいことかもしれない。「これがモノを書くということの特徴の一つなのだ」ということはできるだろう。そこから何か話を広げるだけの話のネタがないのが悲しいのだが、ただただ「一五六ページ」文の不思議な感覚を味わうというのもオツなものである。

 

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

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レトリック認識 (講談社学術文庫)

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レトリックの記号論 (講談社学術文庫)

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