わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

選択肢をいつの間にか忘れてしまっていること

今日は三田に行ったり本郷に行ったりしたので、多くの出来事に遭遇した。外は刺激が多いとつくづく思う。自転車に乗るともうだいぶ寒くなったし、お昼に食べた富士そばの「旨辛肉そば」はすごく辛くて困ったし(辛いものはあまり食べられない)、『ライプニッツ著作集』第2期第2巻を購入したし、友人たちとやっている研究会ではトマスの著作をちょうど読み終わった。帰りの電車ではみんな咳をして具合が悪そうだったし、そういえばコピー機のところに定期の落し物があった。

この中でなにを書こうかと思ったとき、私の外で起きた出来事よりも、私の内で起きた出来事を書きたいと思った。外とか内とか、それはいったい何なのかという、非常に難しい問題はとりあえず置いておいてほしい。つまり、外で起きた出来事が本当にささいなものであったとしても、それが私に何を考えさせたかということを記録しておきたいと思うのである。なぜって、たぶん自分が好きだからだ。

 

三田から本郷のキャンパスに行くには、都営三田線・西高島平行に乗って15分。春日駅で降りて、そこから15分くらい歩くのがいつものルートである(春日駅の出口を毎回間違えて、遠回りしてしまうのだけれど)。春日駅から大学キャンパスまでの道の途中は、古い建物や趣ある商店なんかがあったりして、時間があるときはフラフラしてみたいところなのだが、今日は非常に急いでいたのでそれらは無視して歩くことになった。

春日駅とキャンパスとのちょうど真ん中あたりに、とても急な坂がある。坂を登りきったところにはいつからやっているかわからない古い旅館があって、そこに泊まったらきっと楽しいだろうなぁと思いつつ、それを見上げて登っていく。私は道を歩くとき、とりわけ一人のときは、道の端を見つめながら歩く癖がある。何か落ちてないかな、というセコイ根性だと思われると心外なのだけれど、まぁそういう気持ちもどこかにないとは言い切れない。

坂道の右側にブロック塀が50センチほど積み上げられ、その上に鉄の柵がされている箇所がある。よくあるやつだ。その塀の際を見ながら歩いていたら、バラが一本ひょろひょろと細く伸びているのを発見した。ひょろひょろしたバラでも、ちゃんと立派に棘をつけていて、「これはバラだ」と確信させられた。それに、しっかり上に向かって伸びていた。ひょろひょろしたバラを想像してみてほしい。どうだろうか。バラはよろよろと倒れてしまわないだろうか。しかし、そのバラは上に向かってしっかりと伸びていた。不思議なことに。

不思議なことにはだいたい理由がある。この場合もやはり、ちょっとしたトリックがあった。つまり、ブロック塀の上の柵から紐が伸びていて、バラの茎に結びつけられ倒れないように引き上げていたのである。「ははぁん」である。今日の「ははぁん」ポイントはここである。こうすれば、バラは倒れてこないでまっすぐ伸びていく。よくみるとその奥にもう一本、こちらは立派な小さな植物が生えていた(こっちは何だかよく覚えていない…私の記憶は脆弱なのだ)。そして同様に、上から紐を結びつけられてしっかりと上に伸びていた。

これをみて「ははぁん」と思ったのは、物事の解決方法はいろいろあるのだなと思ったからである。なぜわざわざ紐をつけたのだろうか。聞いてみないとわからないが、たぶん道路の側に倒れてくると邪魔だからである。たしかに、うちの前にも竹藪があるのだが、そこの竹が雪など降るとしなだれて大変なことになる。そのように、道は誰もが容易に通れるものであるべきだろうと思うのだが、植物というのはそれを妨害する。植物にその意図がなくとも、道と植物というのは常に戦争状態にあるといってもよい。

そういった植物と戦う術を人間は持っている。簡単なのは切ることだ。ばっさりと。こんなひょろひょろのバラなどは棘があろうとなかろうと、人間の叡智が詰まったハサミで一撃である。物事の解決を考えるとき、もっとも合理的なもの、簡単なものを選ぶのがよいだろう。それが合理的な人間というものである。

私などは合理的な人間なので、こういうものをみると、ハサミを持ってきてすっぱりと切り捨ててしまう。そこに慈悲もなければ、感情もない。そして実は、思考もない。もっとも簡単な解決方法は決まったものと思っているのであって、つまりハサミを持ってくる以外の選択肢ははじめからないのである。そこにきて、この紐でまっすぐうえに伸びるように矯正されたバラをみて、「ははぁん」と思ったのである。私はハサミを持ってくることが大正解だと思っているが故に、最初から他の選択肢を切り捨ててないものとしていたことに気づいてしまったのである。人間はいろんな判断をして生きなくてはならないので、すべての物事をどうしようかと悩んでいたら物事がなかなかすすまない。素早く仕事をこなすことも大事なことなのだから、わかりきった大正解は、何も考えずに選んでいくべきだとも思う。

選択肢を選ぶ必要のない出来事でも他の選択肢が無いわけではないのだ。このことをいつの間にか忘れていた。実際、他の選択肢を選択しないにしても、そういう選択肢はちゃんとあるし、選ぼうと思えば選べるのだ。

 

どうだろう、道の端を見て歩くことはこういった発見を与えてくれる。これはささいな出来事かもしれないが、私の心の出来事としては非常に面白かったのでこれを書くことにした。道の端を見て歩くのは、小銭を発見するためというよりも、こういった心の内の出来事を楽しむ方法だったりするのだ。