わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

【読書会ログ】第9回『モナドロジー』読書会 §§ 36–38

2024/05/05追記:この記事は2015年頃に開催されていたライプニッツモナドジー』の読書会の当時の記録に多少の修正を加えたものです。内容自体は概ねそのまま維持しています。第8–29回のものが残されているので、それらを順次公開していきます。

M=モナドジー、T=弁神論、訳出には主に著作集と河野訳を使用しています

本日は第9回モナドジー読書会が行われましたので書き留めておきます。範囲はM36–M38まで進めることができました。


M36について

前回の読書会でこの節に登場する「限りない細部(un detail sans bornes)」という無限性について、『人間知性新論』などを引きながら議論したので、今回はやり残していた『弁神論』の参照箇所(T36,37,44,45,49,52,121,122,337,340,344)をザーッと確認するところから始まりました。

T36:決定が確実であっても偶然性とは矛盾しないこと。反対が可能である限りそれは偶然的であり、確実であっても反対が可能であるものは、やはり必然性とは異なるものとして考えられる。また、「私がものを書いたということが百年後にも真であろうというのと同じく、私が今日ものを書くだろうということは百年前にはすでに真であった」などの記述から「四次元主義」などの話が出た。

これに関して幾つか著作を教えてもらった。

T37:ここでは、必然が仮定的であること、「予知そのものは、偶然的未来についての真理の決定に対し、その決定が知らているということのほかには何も付け加えない。つまり、かかる事象の決定もしくは、未来生起性(futrition)を増加させはしない」ということが語られる。決定が何も付け加えないという点に個体化論とのつながりを考えられるように思えた。可能的世界から実在へという場面でもやはり何も付け加えないのであり、ここで言われる「予知(prescience)」がどのような意味で語られているのかは問題になってくることであろう。

T45:神の選択が自由であり、「神の選択の対象にはいささか必然性は含まれていない」ということ。道徳的必然性や仮定的必然性に関係する話。

T49:ビュリダンのロバについて。ここで天使が登場することについては少し議論になった。「天使やあるいは少なくとも神なら、その人間のいずれかを実際に選択させている原因ないし理由を指定することによってそのひとの選択を必ず説明できるということも真実である」と言われるとき、知性が人間→天使→神と程度的な仕方で変化していくのではないかということが考えられる。

T52:「神の決意は事物の構成において何も変えることはなく、純粋に可能的な状態にあったときのままにしておくことは明らかである」とされる。T37よりもよりはっきりとした形で創造の場面を語っている。

T121,122:ベールからの引用にライプニッツが反論するという節である。どちらもこの世界の最善性について語る。ここでライプニッツは強い言い方だとは自覚しながら(「もっと強力な言葉を付け加えよう」と言い)、「悪を容認することは神がそれを容認しているのであるなら、それが最大の善意なのである」と述べる。これはかなり思い切った言葉のように思われるが、ライプニッツの体系の中で「悪」を考えるために必要なだったのだろう。プロティノス的に「部分すべてが最善である世界こそ最善世界」という考え方をライプニッツは採らない。むしろ調和を基準に帰結的な仕方で世界は選ばれる。

T337:M38で登場する「卓越的に(éminemment)」という語はここでも使われている。被造物の自由の優位性は、卓越的に神のうちにある。神の自由は、不完全性を一切前提としない限りにおいて理解される。また、神は規則に従って行為すると言われる。神において気まぐれは許されない。

T340:機会原因の批判がなされる。機会原因について勉強不足であり、この批判が正しいのかどうか吟味することができなかった。今後の課題として残す。ただ、ライプニッツにおいて出来事や魂と身体の結合はその発生に先立って規則づけられている必要があるということは注目しておくべきだろう。

T344:ベールの「魂が身体の感覚を通じて知った観念は恣意的だ」という意見について、それは偶然ではあるが、道徳的必然性という形で確実なものであると考えている。

M37について

いかなる細部にも、それに先立っているか、あるいは細微である偶然的要素が含まれている。偶然的要素のこのような細部は無数にあるのだが、そうだとしてもそれらの十分な理由すなわち最後の理由は系列の外にあるという。

ライプニッツはこのことについて、『事物の根本的起源について』(1697)でも語っておりそちらを参照した。そこでも「世界の永遠性を仮定すれば、事物の超世界的な究極理由すなわち神を避けて論を進めるわけにはいかないということである」と述べられており、無限の系列に理由を求めることはできないために、それでも充足理由律を働かせるのであれば、その系列の外に究極理由を設定することになると考えられる。

ここではしかし、神という言葉はまだ出てきていないことは忘れてはならない。究極理由(ultima ratio)が細部の系列の外に在るということのみが言われる。

M38について

ライプニッツは「事物の最後の理由は一つの必然的な実体の中にある、としなくてはならない」と述べる。ここで言われるのは神の存在論的な在り方であり、「この実体の中には諸変化の細部が、あたかもその源泉の中にあるごとくただ卓越的にのみ存している」実体が神と呼ぶものなのだとライプニッツは断言する。M37で述べられた「系列の外の究極理由」が、ここにきて内容を与えられ、T7「その存在の理由をみずからのうちにもちゆえに必然的で永遠なるもの」である「神」として規定されることになる。ここで結果から原因へと因果系列を遡る意味での宇宙論的証明方法と存在論的証明方法が重なり合う。

「卓越的に(éminemment)」という言葉について。デカルト等を参照して議論したが、ライプニッツ著作集のモナドジーについている注74がわかりやすい。それによれば、「もし原因と結果とが同様の完全性をもち、種を同じくするとき(人間が人間を生む場合のように)、原因には完全性が形相的に(formellement)含まれる」という。一方で、「原因と結果とが同じ種に属せず、原因には結果の完全性がより高い仕方で含まれているとき(太陽の中に太陽の力によって生じるもの、たとえば樹木の姿がある場合のように)、卓越的に含まれている」という。これはこのままで十分理解できるし、問題はないように思えたのだが、Nicholas Rescher の G.W. Leibniz's Monadology: An Edition for Students において示された例によって疑問が生じた。M38 に対する注釈でつぎのように述べられている。

もし、或る物体においてそこに現れているというよりむしろ、或る説明的意味においてそこに現れているのならば、他において卓越的に含まれている。建築家のスキルが建築物において含まれる、あるいは将軍の戦略が戦いにおいて含まれているかのように。

ここでは、原因と結果によって述べられているわけではなく、卓越的という言葉が「説明的」ということによって説明される。疑問は「卓越的に」という言葉をどこまで広くとるのかということであり、形相的に含まれていない、つまり構成要素的な意味(建築物なら、ガラスやドアや壁)で含まれていないという消極的な仕方で卓越的をかんがえるのならば、それはかなり広いものになる。「卓越的に」の意味については次回までもう少し資料にあたることにしたい。

【週報】4月29日〜5月5日註解

※ブロック引用されている文章は、特に記載がない場合には自分のSNSからの引用

総括

連休中は明治学院大学以外の勤務がなかったので、普段とは違った時間感覚で過ごすことができた。友達と深夜の新宿の徘徊してみたり、反戦更新に参加したり。できれば、今後の講義準備も進めたいと思っていたが、いざやろうとすると、どうしても進まないので諦めた。もしかすると、数週間後に自分が話す内容を前もって考えるという作業は、直前に考えるよりもだいぶ負荷が高いのかもしれない。もちろん講義に向けて数カ月前から本を読むというようなことは問題なくできるのだけど、じっさいに講義資料を作ったり話す内容を確定するのは、あまり前もってできるタイプではないようだ。

哲学

私が哲学論文を書くときの過程

私が哲学の論文を書くときの手順。問いを立てて、仮説を考える。その仮説のために必要な根拠になる要素を洗い出す。テクストのうちにそのような要素を見出せるかどうかを検討する。仮説が十分に論証できればよし、十分でなければ仮説を変更するか、仮説のうちどの部分までを論証可能かを提示する。

先行研究は、仮説を論証するさいのテクストの読み方に関連して引用されることが多い。「Aという解釈者は、この部分を〜〜と読んでいて云々」などと紹介して、自分がその解釈に同意するかどうかを明確に示す。同意しない場合にはなぜそのように読めないのかを示すために別の論証を持ってくるなど。

じつは哲学研究の場合、研究領域や研究対象によって、だいぶ作業の手順が違うのではないかと思う。ここで挙げているのは、私が「ライプニッツに関する」論文を書くときの手順であって、おそらく他の内容について書くときにはだいぶ違う手順をとることになるだろう。ライプニッツ研究の場合、テクストの性質上、さまざまなものを横断的に読んでいく必要がある場合が多い。というのは、同じ主題についてさまざまな箇所で少しずつ述べるということがあったり、それぞれのテクストで言っていることが違ったりするという事情があるからである。そのため、事前に問いや仮説をかなりきっちり立ててからテクストを探索するという方法をとることになる。

現前そのものへと目を向けること

全てが現前していること。「モノがあり、声が聞こえる、その時点で作品は成⽴している。そこにおいてコンセプトは常にある種の余剰であり、さらに⾔えば、それを再び声として取り込むことすら可能になっている。もはや秘められたものに特権的な居場所はないのである」(三浦「決然とした声を私が聞くとき:村上美樹「オブジェクトの声を聞く旅に出ること」のための⼩論」より)

コンセプトを無効化しようとする村上さんの展示も、犬が人間の言葉の意味ではなく身振りに注目することも、エスノメソドロジーが現れてきているものを分析することも、どれも繋がっているように思う。現前するものへと回帰することの重要性を考えなければならない。

ライプニッツ哲学もまた現前するものへと回帰する哲学の一種であるように思うことがある。微小表象とは、すべてがそこにあるということだから。ただ、その上でやはり現前しきらないというか、現前させるている当のモナドはどこにも現れてこないという影がある。この影もまた改めて大事かもと思う。

数年前に天理市で行われた村上さんの展示を訪れて、レビューとして——レビューというより個人的な手紙みたいなものだけれど——文章を寄せたことがある。そのときからずっと考えているのは、裏側というものを無効化して、表面への眼差しを徹底化することである。奥深さを読み取るための表面ではなくて、表面そのものをそのまま享受するような眼差しの在り方を考えることはできないだろうか。

私の考えでは、表面への眼差しを徹底化することは、同時に、その背後の世界を徹底化することでもあるように思う。つまり「表面/背後」の断絶を徹底するということこそ、表面を表面たらしめ、背後を背後たらしめることになる。両者の間の交通不可能性を語ったのはライプニッツであり、その間には予定調和といういかなる因果関係もない対応のみが存すると考えていた。

読んだもの

山田俊弘『ジオコスモスの変容: デカルトからライプニッツまでの地球論』勁草書房, 2017.

『ジオコスモスの変容』を読んでいる。私たちが「地球」というものを何だと思うか、ということは大事だろう。哲学が私たちの常識から出発して、それを説明する論理を提供するものだとすれば、私たちの常識の最たるものとしての大地が何物であるかによって哲学もまた変容することになるのではないか。

友人と一緒に読んだ。「地球」そのものが思想史のなかで問題化してくる経緯が描かれていて、学ぶところの多い著作である。デカルトやフックなどの化石や地震に関する議論を背景にしながら、どのようにステノの『プロドロムス』が出てくることになったかが語られていく。ステノは「固体のなかの固体」ひとつの大きなカテゴリーのうちに含めるかたちで、鉱物や化石、地層というものがまとめている点はとても面白い。こうした発想は、そのまま生物個体のうちでの個体の発生という生物学的な議論と接続することを容易にするし、じっさいステノはミクロコスモスとジオコスモスを類比的に考えていたようである。

論文 Goldie, Peter. (2009). “Narrative Thinking, Emotion, and Planning.”

文学・フィクションの読書会に参加。非現実的エピソードに私たちが関わることについて、ナラティブが重要な役割を果たしているということについて論じている Goldie[2009] を第3節まで読んだ。「ナラティブ時間」概念を用いて未来の可能性を考える部分が気になっている。

感想。自分がどういう状況に置かれているかの物語的位置を設定するところから、特に自分の未来についてどのような態度をとるべきかを考えることは、ある意味では、ライプニッツにおける「劫罰に処された者」や、マルクスにおける疎外された労働者の行為にも繋がる議論だなと思って話を聞いていた。

論文の詳しい情報はこちら。美学とフィクションの読書会に参加して読んだ。ナラティブという概念を使うこと自体に反対する論者もいるそうだが、この論文では、そうした概念によってこそ私たちは非現実的エピソードに関わることができるのであり、そうした現実的働きをするものとしてナラティブの重要性を訴えている。

活動

The Five Books モナドジー講義の参加募集開始しました

ライプニッツ哲学はビックリするような内容で面白いので、みなさんドシドシご参加ください!「モナド」という概念はとても難解ですが、予定調和説や生き物に関する議論と一緒に考えてみると少し光が見えてくるのではないかと考えています。一緒に悩みましょう。

6月2日から毎週日曜日20時開催。『モナドジー』を扱うのは1年ちょっとぶりで、3回目となるけれど、毎回たくさんの参加者が集まってくれて有り難い。まだまだ募集しています。詳しいシラバス等は以下の記事にまとめてあります。

philoglasses.hatenablog.jp

モナドジー読書会のログを更新

9年ほど前に開催されていた読書会に関して、当時のログを順次公開します。第7回以前と第30回以降は、私の怠惰で残されていませんが、それ以外の部分を少しずつ記事にします。

私が修士課程にあがってすぐのころにやっていた『モナドジー』の読書会の記録が、べつのブログに非公開の状態で残っている。日本語が適当なので、すこし修正しながら順次公開していく予定。すべての回が残っているわけではないのが惜しいところだが、ある分だけでも公開したい。第8回をとりあえず更新した。

学術バーQに遊びに行った

御徒町に最近新しくできた「学術バーQ」に初めて行った。先客の人が、アウグスティヌスラテン語を読んでいて、大変に学術的なバーであることだなぁと思った。内装もまだ出来たばかりで、新築の香りが漂う心地よい空間。イベントを開催するのに良さそうな席の配置で、今後どのように展開していくのか楽しみ。

その他

中学のとき、友達の家のガレージでバンドの練習していたら「うるさい」って警察が来たのが、初めて警察とまともに触れ合った瞬間であった。たしかにドラムはさすがにうるさいとは思う。

このときのことは時々思い出す。あのとき警察官は「私もむかし音楽の経験があるのでわかるのだけどね」という、〈気持ちはわかる〉的な仕方で近づいてきた。当時の私は今よりもずっと素直だったのでこうした擦り寄りを少なからず嬉しく思ってしまったが、今では警察官が下手に出てくる態度をあまり好ましいものとは考えていない。

しらたまちゃんと旅の道中で出会ったものを報告し合う。私は、ヤギの髭の立派さを、向こうは枝にぶら下がるアオムシの懸垂を。

この人の眼に映る世界が好き。枝にぶら下がる青虫の懸垂を見つめる眼を、私も見習いたいと思う。そういう気持ちを保存しておきたくて、簡単な曲を作った。

「最近見たこと聞いたこと」 ねずみのあまやどり
じっと世の中をみつめている
雨の日も眠らずに ちりとりのしたで
あおむしけんすい
風に揺れる枝にひっつき
いつかチョウになるとき
レーニングが生きてくるね

 

【読書会ログ】第8回『モナドロジー』読書会 §§ 33–36(2015年7月29日)

2024/05/05追記:この記事は2015年頃に開催されていたライプニッツモナドジー』の読書会の当時の記録に多少の修正を加えたものです。内容自体は概ねそのまま維持しています。第8–29回のものが残されているので、それらを順次公開していきます。

第8回モナドジー読書会が開催されました。新規参加者を迎えて5名で、活発な議論が繰り広げられました。以下では、本日の議論の簡単なまとめを掲載します。


まず初めに前回(31節、32節)の復習を兼ねて長綱啓典「ライプニッツにおける充足理由律の射程」2013年『ショーペンハウアー研究』第18号を読んだ。Vincent Carraud, Causa sive ratio で取り上げられていた「原因」と「理由」概念に関する論文で、作出因的な意味での原因概念はこの世界の側に限られ、神においては理由という仕方で「神の原因」が考えられているということが述べられていた。充足理由律ということでライプニッツが考えるのは、クーチュラが述べた「汎論理」性を強調するような意味での理由というよりは、原因の系列の外にまで出て行くことであった。十分な理由の原理とは、例えるのであればある書物の内部の系列をたどることよりも、ある書物の外にその書物が作られた理由を見る。そうした理由は、その書物の外に求められることになる。

Robinetの注によれば、『モナドジー』(以下Mと節番号で表記する)において、M33–35 は M36 が書かれた後につけたされたという。たしかにM32節からM36節に飛んでも問題なく読むことができる。ただし、そうするとM36節で突然「事実の真理」が登場することになってしまうためにその説明としてM33節で「事実の真理」と「思考の真理」をあげているように思われる。また、M34–35 では数学的な仕方との比喩で、M33 の最後に登場した原始的概念がいかなる意味を持つのかを述べる。

モナドジー』第33節について

真理の二種類:思考の真理と事実の真理について。工作舎ライプニッツ著作集のM64注の例を使えば、「シーザーがルビコン河を渡った」と「ルビコン河を渡らなかった」というのは、可能的命題領域(本質命題)においては真とも偽ともいうことができない。渡ったことが真であるといえるのは、存在命題において、つまり事実の記述として「ルビコン河を渡るシーザーが実在し、シーザーを含む世界が実在しているから」ということになる。

ライプニッツによる参照先としてあげられている弁神論の箇所は多数あるが特にいくつか気になったことをあげておく。『弁神論』170節「過去が未来よりも必然的であるかどうか」ということ。ライプニッツによれば、過去が仮定的必然であるのと同様に未来も仮定的必然であるという。過去から未来へと t1–t2–t3–t4 という形で時間が流れているとしよう。t2から見たt1は過去のものであり変えることができないのは一般的な了解である。一方、t2から見たt3が同様に決定されているというのは、結局のところt4から見たときにt3は変えることができないということに由来する。このような見方は俯瞰的なものであるにしても、ライプニッツの内属原理に従えば自然に生じてくる帰結である。そこに人間の視点が入り込んだとき、可能的に他でもありえたことはどのような意味を持つのかは興味深い問題である。

また、M33 であげられた弁神論の参照箇所では、多くの箇所で決定されてはいるが、それは仮定的や道徳的な必然性であり、形而上学的、論理学的な必然性ではないことが執拗に述べられている。たしかに M33 では「事実の真理は偶然的でその反対も可能である」ということが述べらているだけであり、事実真理の様相に関してもう少し詳しい説明が必要だったのであろう。当時、「必然-偶然」「可能-不可能」などの様相概念を言葉の上でしっかりと明示することもライプニッツにとって重要な仕事であった。『弁神論』367節では言葉の多義性が混乱の原因であり、概念をしっかりと区別することの重要性について述べらている。

モナドジー』第34–35節について

原始的な原理や単純概念といった必然的真理を考えるときに還元される先がしめされることになる。読書会では参加者にアリストテレス『分析論後書』における公理、定義、公準などの考えられ方、またそれとは少し異なった形のユークリッド的な定義の区分などを紹介してもらった。公準は「要請」とも言われるという話がでたのだが、ライプニッツ哲学においてはこの「要請」が重要な意味を持つのではないか。というのも、ライプニッツにおける原理や概念は「要請」されるという形で置かれているように思われるからである。

モナドジー』第36節について

今回の読書会では M36 の途中まで議論を進め、無限に関しての議論された。草稿の段階ではライプニッツは「個々の理由に分解していくと無限に細部に至ることができる」と述べていたのであるが、それが「個々の理由に分解していくと限りなく[無際限に]細部に至ることができる」と改められた点を受けて、「無限」と「無際限」について『人間知性新論』における無限の議論を参照した。

無限は真の全体ではないのであり、全体として無限を観念することはできない。

『人間知性新論』2巻17章16節

次の条件が揃えばその観念[永遠の実体的観念、広大無辺性の観念]は真であろうと私はおもいます。その条件というのは、その観念が無限な全体としてではなく絶対として即ち永遠に関して見出される制限のない属性として、神の現実存在の必然性の中で、部分に依存することもなく瞬間の付加によってそれから概念を形成することもなく概念されるという条件です(みすず書房、米山訳。[]は引用者による)。

このように、無限な全体としてではなくて、「絶対」として概念される必要があるのである。この「絶対」という仕方でというのも疑問の余地があるが、今回は時間が来てしまったため終会となった。