〈作品〉はいかにして〈舞台裏〉から切り離されるのか

職人たちがものを作る際の作業工程を紹介する番組をみた。日本の刀鍛冶が鉄を叩いて鍛えるシーンにハマって YouTube でそのような動画を漁ったこともある。ある時、次のような疑問が浮かんできた「作業工程って作品の一部なのだろうか?」 。

パフォーミングアーティストであり、お笑い芸人であり、劇作家でもある小林賢太郎という人のインタビューを聞いていたら「舞台裏は見なくていいんですよ」という話をしていた。(神ではない)有限な存在者である私たちは、常に時間の経過の中でしか何かを作るという作業をこなすことができない。「一挙に」ということはできないのである。「創造されたもの」、例えば、劇や道具といったものは常に結果の一点としてある。その後ろには膨大な時間がその作品に費やされているにもかかわらず、結果の一点だけが最終的には現れてくる。もはや舞台裏はそこには無い。

作業工程には常に「次」があり、作品より先にはもう何もない。この点で、作業工程と作品とは区別される。このような差異が生じてくるのは、すべての創造的行為が理由や目的を必要としているからであろう。最終的に作品が完成するためには目的がなければいけない。目的のない創造には終わりはやってこないし、そのような場合、作品は永遠に完成することがないのである。その目的は作業工程で変化するかもしれないが、最終的に何かしらの目的を達成したものが作品となる。目的に向かって進む作業工程は、目的の実現とともに終わる。その意味で、作品には「次」が無いというのである。

作品は次の作品に向かうための工程であり、その意味で、作品は究極的な作品に向かうための工程であると思われるかもしれない。だが、私が考えているのは、作品はそこで一つの完結をもつから作品と呼ばれるのであって、工程でしかないような作品は存在しないということである。例えば、パティシエが「ケーキの盛り合わせが作りたい」というとき、そのための個々のケーキは工程でしかないように思われる。

とはいえ、作品とは異なる目的が同時に存在している場合を考えることもできる。「私はおいしいケーキが作りたい」「私は料理がうまくなりたい」という目的を持ちつつ、個々のケーキや盛り合わせを作る場合を考えてみよう。このとき、製作者の目的は個々の作品の目的を統合する位置に置かれている。個々の作品の目的を統合しているのは「私は〇〇をめざす」という製作者のもつ目的であり、その意味で、個々の作品に関する目的と並行する形で作者の統合的目的も存在しているといえよう。

個々の作品に関する目的と、私に関する目的は、性質が異なる。鍛冶職人は、鍛冶がうまくなりたいと思っているだけでうまくなるわけではない。私に関する目的を達成するためには個々の作品を作る必要がある。例えば、「包丁をつくろう」という目的と「鍛冶がうまくなりたい」という目的を考えると、前者が後者の作業工程となっているといえる。とはいえ、このことはまた、個々の作品に関する目的が、作者自身に関する目的とは区別され独立して達成されるということを意味してもいる。

少し話がそれてしまったが、作業工程は作品の一部なのか、というのが最初の疑問であった。個々の作品にとって作業工程は必要不可欠ではあるが、それ自体で何か目的を達成しているものではない以上、作品と作業工程は質的に異なっている。あるものが作品であるということは、どこまでも続きうる作業工程に終止符が打たれているということであり、その終止符の存在が作品を作業工程から切り離しているのである。