わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

信念は生命以上に大切なものとなりうるだろうか。

Toute opinion peut-être préférable à la vie, dont l'amour parît si fort et si naturel.

どんな信念でも生命以上に大切なものとなりうる。生命への愛着ほど強く自然なものはないように見えるのに。(パスカル『パンセ』29、岩波文庫、塩川訳) 

『パンセ』の中にこのような言葉が登場する。岩波文庫で、『パンセ』の新訳全3巻が刊行された。『パンセ』という書物パスカルの書き残した断片集であるのだが、その断片をどのように配列するかは、版によって異なっている。塩川先生は、邦訳としてはおそらく初めて(パスカル自身によって整理されたものに近いであろう)写本を底本としたものを刊行した。新しいもの好きな私は、そういうわけでこの新訳をのんびりと読んでいるのだが、29節目で上で挙げたような文章に出会ったのである。従来の邦訳であれば、この節は156節目に当てられていることを考えると、かなりの変更だと思う。

それはともかく、この節でパスカルは「信念 opinion」が「生命 vie」よりも大切なもの「かもしれない peut-être」と言っている。この二つのどちらがより大切なものなのだろうか。私がこの疑問にぶつかったのは実ははじめてではない。「映画版ぼのぼの」のひぐまの大将とスナドリネコの争いもまたこの二つの対決にあったと記憶している(詳しくは覚えていないけれど、ぜひお勧めしたい映画)。

「自然 nature」は生命をより大切なものとしているように思われる。生命をつなげることが自然の目的のように思われることもあるし、自ら絶滅に向かおうとする種族を私は知らない(追記:種的な生命と個的な生命の区別はちゃんとしたほうがいいかもしれませんね…)。それでも、知を有する存在者たちは、信念のために死ぬということを発明した。「お国のために死ぬ」「殉教」「殉職」…生命はそれ自体が目的ではなく、何かのためのものとして賭けられるものとなる。

私が思うのは、それでも生命は重視されるべきではないかということだ。この世のあらゆる正や不正は、生命があってこそのものだと考えている。物件、生命を持たない存在者しかいない世界には倫理は存在しないだろう。だから、生命は「正しい」とか「正しくない」とかそういう次元の話ではなくて、そういうものを成り立たせる基盤である。つまり、信念の良し悪しとか、主張とかそういうものは、生命あってのものである以上、信念と生命を比較するということはできないのではないか。

しかし、問題はそう単純ではない。信念は一人の人間によって保持されるものを超えて、多数の人間が共有するものでもある。一人の人間の死が無数の人間の有する信念を救うのであれば、そのとき人は信念のために死ぬことを選択するかもしれない。ただしそれは次のように考えることもできる。すなわち、人は信念のために死ぬのではなく、生命のために死ぬ、と。詭弁チックな物言いになるかもしれないが、生命が信念を支える以上は、その支えている生命のために死ぬことが結局信念を救う結果を生み出しているだけで、生命よりも信念が大切だというのは見せかけにすぎないのではないかということである。

以上のように私は考えているが、しかし生命を基盤にすえるというのは的確なのか疑わしいとも思う。物件も含めた倫理だって立ててもいいし、そもそも絶対的に正しいものが存在したっていい気もする。結局何もわかっていないのだ。ただ、わかった気になって何かをこうして書いてみることもまた重要な気がしている。暗闇にうずくまるよりも、せっかく放り込まれた暗闇なのだから、歩き回ってみるのもいいじゃないか。