わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

ライプニッツの伝記的文献紹介と E・J・エイトン『ライプニッツの普遍計画』の読書メモ

 2018年1月3日から1月13日にかけて、 E・J・エイトン, 渡辺正雄・原純夫・佐柳文男訳『ライプニッツの普遍計画』(工作舎, 1990)を読みながらとったメモ(ツイート)が残っていたのでまとめて公開する。昨年出版されたヒロ・ヒライ監修『ルネサンスバロックのブックガイド 印刷革命から魔術・錬金術までの知のコスモス』(工作舎に当該書のガイドを寄稿したさいに、勉強がてら書いたものである。良い機会なので、ライプニッツに関する他の伝記も紹介しておこうと思う。

  


伝記文献の紹介

エイトンの本は日本語で読めるライプニッツの伝記としては最も詳細なもの。原書は E. J. Aiton, LEIBNIZ—A Biography (Adam Hilger Ltd., 1985) で少し古いが、今でも十分に活用できる内容であろう。特に、ライプニッツの数学や哲学、他の諸々の仕事に関して、その内容にまで踏み込んで書かれていることが特徴である。

エイトンの著作以降にもいくつかの伝記が書かれているので紹介しておこう。

R. フィンスター/G. ファン・デン・ホイフェル, 沢田允茂監訳『ライプニッツ その思想と生涯』シュプリンガー・フェアラーク東京, 1996.

原書は1990年のものである。こちらはエイトンの伝記に比べて短く簡潔にまとめられており、手に取りやすい。

酒井潔『人と思想 ライプニッツ清水書院, 2008.

日本ライプニッツ協会の現会長である酒井先生がまとめたライプニッツの伝記と思想。バランスの良い内容で、安価でもあるため、ライプニッツに興味を持っている人はとりあえずこれを読んでみるといいのではないかと思う。

Maria Rosa Antognazza, Leibniz: An Intellectual Biography, Cambridge University Press, 2009.

エイトン以降のライプニッツの伝記で最も詳細なのはこの一冊ではないかと思う。特に最近の研究成果にも目を向けて、エイトン同様に単なる歴史的事実の記述ではなく、思想内容の解釈にまで踏み込んでいるように思われる。すでに刊行から10年以上経ってしまったが、翻訳されると大いにご利益のある本ではないだろうか。

Maria Rosa Antognazza, Leibniz: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2016.

言わずと知れた VSI シリーズでも、上の詳細な伝記を書いたアントニャッツァ氏が腕を振るっている。酒井先生のものと同様に、伝記と思想紹介のバランスがよく取れた本で面白く読むことができる。Kindle版も出ているので手軽に読めるし、英語の勉強がてら読むのにもお勧め。

      

以下、エイトンの本に関するメモ。各段落最後の数字は大凡の頁数を示したものである。


ニゾリウスの復刊。1553年のニゾリウスの著作『似而非哲学者を反駁する、哲学の真の原理と真の理性について』という著作が、Lによる序文とともに1670年に復刊された。唯名論者ニゾリウスは普遍を論証によってではなく帰納的にのみ得られるとしたが、Lはこれを批判する。 #L普遍計画 57

Lがニゾリウスに賛同するのは「ラテン語ではなく各国語の単純な言葉で記述しえないものは、すべてこれを存在せず、虚構にして無用なものとみなすべし」という主張。「ドイツ語であれラテン語であれ、最も明晰なのは通俗的な用法を保った日常的な言葉を用いる場合」だとLは主張する。 #L普遍計画 58

『新物理学仮説』(1671)は『具体的運動論』と『抽象的運動論』からなる著作。具体的運動とは現にこの世界でおこる運動であるが、DやLはその前に「運動そのもの」の基本原理を定式化するところからはじめる。ここにおいて、Lは連続性の問題から着手する。 #L普遍計画

「大きさが零で、空間の部分であるような幾何学的点なるものは存在しない。したがって、任意の空間ないし物体の始まりと終わりとを定義するためには、これら非延長的な幾何学的点に対して何らかの実在性を賦与しなければならない」。ここから実在的連続体を表象とするモナドへ至る。 #L普遍計画 60

この思考の流れの中で突き当るのがホッブズであった。ホッブズの「コナトゥス」概念をLは「運動の始まり、したがってまた、物体がそこに向かおうとする場所における存在の始まり」として定義する。この概念によって、運動の連続性、コナトゥスの大小、合成運動などを示す。 #L普遍計画

さらにコナトゥス概念は「物体と精神との真の区別についての新しい説明」を可能にする。Lは物体を瞬間的精神、記憶を欠いた精神だとする。「なぜ曲線運動をする物体には接線に沿って動こうとするコナトゥスがあるのか」、それまで続けてきた曲線運動の記憶を物体が持たないからである。 #L普遍計画 61

『具体的運動論』の方では、『抽象的運動論』で打ち立てられたア・プリオリな原理を、現実に適用可能にするいくつかの仮説が取られることになる。エーテルもここに登場し、衝突後の互いの分離運動はそこから生じる弾性に帰される。また、抵抗は未だコナトゥスに帰され、慣性はまだない。 #L普遍計画 63

1673年、ボイネブルクの子息フィリップ・ヴィルヘルムの教育計画の作成と監督の権限を与えられるも、6時〜22時まで自由な時間なしに勉強に拘束しようとしたためボイネブルク家との間に軋轢が生じてしまったL。 #L普遍計画 77

Lとニュートンの争いにはチルンハウスが一枚かんでいる。1675年11月、Lは微積分学の原理と記号法とを考えており、これをチルンハウスに伝えている。しかし彼は理解を示さなかった。1676年夏、チルンハウスはイングランドの無限小解析研究の情報を得るが、これはLに影響を与えはしない。 #L普遍計画 90

しかし、この情報を伝えた1676年の書簡は、後のL-ニュートン論争時に、日付を1年遡らせるという小細工が施され、Lに不利な証拠として用いられることになった。 #L普遍計画

1675年はLにとって微積分学に関する重要な発見を多くなした年であったとすれば、1676年は移動の年であり、ヨハン・フリードリヒの催促もあり楽しいパリ生活からハノーヴァーでの仕事に移らなければならなかった。またこの年にニュートンとLは直接手紙をやりとりしている。 #L普遍計画 101

この1676年のハノーファー赴任がLにとって重要なのは、その後、彼は英仏どちらにも足を踏み入れることがなかったということによる。それまでをLの修行時代と考えるならば、ここから彼の本格的な研究が始まるとみてもよいかもしれない。 #L普遍計画

1676年11月、Lはハノーヴァーへの道中アムステルダムに滞在し、そこからいくらかの小旅行をしている。その際にハーグに立ち寄りSとの有名な会談がおこなわれた。ここでLはそれまで考えていた迷宮、連続体の迷宮について考えていたのだが、それに加えて意思の自由という迷宮に入り込む。 #L普遍計画 107

1677年、モラヌスを介してエックハルトとLの討論が行われる。エックハルトデカルトの立場を擁護しつつ自分の論を展開するが、Lはデカルトの論に関わる点に関して批判を加えていく。神の存在論的証明から幾何学の問題などに進み、この討論は1679年ごろまで続いたようである。 #L普遍計画

D批判の機会はハルツ鉱山事業に着手している途中にも訪れた。1678年冬、Mの『キリスト者の会話』を紹介され、そこに示されたデカルト主義に対してLは批判を加える。神の概念の無矛盾性はL自身の記号法によってこそ可能になること、単純形相の両立は彼の記号法によってこそ可能になる。 #L普遍計画 137

Mの本だと思って読んでMに手紙を送ったLであったが、これに対してMは『キリスト者の会話』は彼の弟子であるカトゥラン神父の著書であると述べる。 #L普遍計画

1678年、中国の文字への関心を示すとともに、素数を用いて単純観念を表すことであらゆる概念を示そうと試みる。しかし問題が簡単でないことを悟ったLは、羅語を基礎とする記号法へと乗り換え、『言語分析』と題する手稿を残している。言語を分析することは概念の分析に代えうる。 #L普遍計画 141

そのような普遍記号法を確立するためには、「既知のすべての知識の分類と分析と論証とを行った『百科全書』が完成していなければならない」。この巨大な事業を達成するために、ライプニッツは君主に科学アカデミーの設立などを促すことになる。 #L普遍計画 141

1679年『計算の原理Elementa calculi』においてLは名辞相互の関係を、「種は類に含まれる」とするスコラに対して「類は種に含まれる」と考える。 #L普遍計画

「すべての金は金属である」という命題は、金属の概念が金の概念に含まれているということになる。なぜなら、金は金属全ての性質に加えて、金独自の性質も含んでいるからである。 #L普遍計画 143

エイトンはLとスコラのこの差異を次のようにまとめる。「スコラ学者がクラス(外延)によって命題を解釈したのに対し、ライプニッツの方は性質(内包)によって命題を解釈した」。スコラが普遍概念に包摂される事例を重視する一方で、Lは個体の存在に依存しない普遍概念を考察する。 #L普遍計画 144

カトリック論証 Demonstrations Catholic』について。ボイネブルクと進めていた教会再合同の計画はカトリックの信仰と両立しうるものであると考え、ローマの支持を受けることができるならば護教の書の執筆を計画していた。カトリックプロテスタントの和解の書となる予定であった。 #L普遍計画 149

1670年代初頭のボイネブルクの死は『カトリック論証』計画の中断を余儀なくした。1679年の初めLは教会再合同に積極的なボシュエとの文通を開始しており、ふたたび計画を再開する機会が到来した。しかし再び、1680年の君主フリードリヒの急逝によってこの計画は中止されることになる。 #L普遍計画 150

1680年、君主フリードリヒが逝去し、新たな君主エルンスト・アウグストにオスナブリュックで謁見する。滞在は一ヶ月にも及び、この間に公妃ゾフィーと数度にわたって会い親交を結ぶ。Lはゾフィーと大の仲良しで、彼女がいうには王侯たちよりもLの年賀状の方が嬉しいという。 #L普遍計画 154

教会再合同を諦めないL。君主フリードリヒの葬儀の当日、ラインフェルス伯爵との長期にわたる文通が開始される。このラインフェルス伯爵はカトリックへの改宗者で宗教に関心が深く、アルノーとも親交が深かっただけに、ここに教会再合同の支持の可能性を探っていくこととなる。 #L普遍計画 157

1680年代前半はハルツの鉱山計画に励むこととなる。しかしながら鉱山当局の役人との軋轢は次第に悪化し、Lの提示する新機構も思った通りには働かなかった。最終的には計画は中止、この計画に期待した普遍記号法構想の実現のための財源も得られずじまいであった。 #L普遍計画 168

ライプツィヒ大学の道徳哲学および政治哲学教授オットー・メンケは1681年春ハノーファーを訪れ、学術雑誌『ライプツィヒ学報 Acta Eruditorum』創刊計画をLに持ちかける。1682年に創刊されLはその常連執筆者となる。 #L普遍計画

ここに、円の算術的求積法論文や『光学、反射光学、屈折光学の唯一の原理』と題する論文が掲載されることとなる。後者では、光学の統一原理として「光は抵抗が最も小さい経路を通る」という原理から入射角と屈折角の正弦の比は媒質の光学的抵抗に依存する定数となることを導く。 #L普遍計画 171

1684年11月の『ライプツィヒ学報』にはその後の著作でしばしば言及することとなる『認識、真理、観念についての省察』が掲載される。これは前年のアルノーによるM批判論文『真なる観念と偽りの観念とについて』に刺激を受けて書かれた。Lの認識論の詳細な説明が与えられる。 #L普遍計画 173

1680年の暮れ頃、ドニ・パパンが発明した骨も柔らかくして安価な食料供給に寄与するであろう安全弁付き圧力鍋に着想を受けて、「犬たちがホメロスと聖書の文句を楯に骨の所有権を主張するという風刺的な小篇を書いている」。 #L普遍計画 175

Lと諷刺。ルイ14世とフランスの領土拡張主義とを諷刺する政治論文が1683年に匿名で書かれた。『最もキリスト教的な軍神』と題するこの論文では「悪魔は別としても、この世で最も強力な人物は疑いもなくキリスト教的な国王陛下である」と皮肉る。Lの溢れる敵意が垣間見える。 #L普遍計画 178

エルンスト伯はLにカトリックへの改宗を勧める。しかし彼はルター派に留まるのであり、その理由としてカトリックのあるべき真の教会と現にある教会を区別した上で、前者は無謬であるにしても、後者は科学や哲学について誤った説を所属者に強いることをあげる。 #L普遍計画 181

カトリック教会の下で生まれたのであれば、自分は破門されない限りカトリック教徒にとどまるであろう。だが、事実はカトリック教会の外で生まれ育った以上、真であり重要だと自分で信じる科学や哲学の学説に反する立場の組織に加入することは己に正直ではない」とLは考える。 #L普遍計画 181

この時期にもLは教会再合同を目論み、カトリックプロテスタントの間で争点となっている箇所をまとめた著作を書きたいとエルンスト伯に明らかにしている。この際、著作が色眼鏡で見られることがないように著者がカトリック信徒でないことは隠すべきだと考える。 #L普遍計画 182

この時期にかかれたのが、Lがカトリックの立場から教会再統合について論じた『神学体系 Systema theologicum』であると考えられる。この著作はだいぶ後、1845年に初めて出版されることとなる。 #L普遍計画

1686年3月『ライプツィヒ学報』において、それまでの特殊な事柄に関するD批判からそれらの根拠たる運動量の保存原理に対する批判へと移行する。これが『デカルトの顕著な誤謬の簡単な証明』において示されることとなる。運動量の保存には賛同するが、運動量と運動力は同一視できない。 #L普遍計画 188

1686年2月11日『形而上学叙説』に関してアルノーに意見をもらうためエルンスト伯に手紙を送る。Lは『叙説』を自身の哲学の発展史上決定的段階を画すものとみなし、1697年のバーネット宛書簡では1685年頃初めて満足に足る哲学的見解を抱くようになったと述べている。 #L普遍計画 197

Lは『叙説』を執筆を目論んでいた『カトリック論証』の序論に充てるつもりだったらしい。Lのアルノーとの往復書簡の目的は、彼の見解がカトリックの信仰に反するものではないという証言をアルノーから引き出すことにあった。これはなかなか難しい話だっただろうなぁと思う。 #L普遍計画

1685年4月14日にハルツ鉱山計画の中止が伝達された後、Lは歴史研究に熱意を持つようになっていったらしい。この中で、彼はブランシュヴァイク=リューネブルク家史の編纂を君主に申し出、公式任務としてそれに携わることとなる。これは、旅に出て政治家や学者と会見する機会を与えた。 #L普遍計画 201

病気で三週間お休みL「自分のことを無為に時を過ごしていると非難する人がいるなら、それは不当な非難である、なにしろ自分は稿本を読むためにしばしば徹夜することさえあるのだからと記し、さらに、ただ義務を果たすためにのみ働くのであれば、生きている必要はないと言い添えている」 #L普遍計画 203

1687年10月末、Lは家史の史料集めのためハノーファーを出立する。11月にはエルンスト伯の城にたどり着く。ここで教会再合同に関する議論が行われる。活路はあるべき真の教会に所属すること、そのうえで無知によってもたらされた異端は本質的ではないとすることにある。 #L普遍計画 206

この頃のLは旅行先で様々な人々と出会い、様々なものを読んだり、議論したり、見たり、楽しそうであるなぁ。様々な知識を持っている彼が実際に物を見て回ることは、僕にはちょっと想像もつかないくらいに喜びにあふれていそうである。 #L普遍計画

「出発してからというもの彼の消息は杳として知れず、ブランシュヴァイク家の起源を探索するために「あの世に」まで遡ってしまったにちがいないという噂がハノーヴァーで囁かれていた」。おもしろい噂。 #L普遍計画 212

ヴェネツィアからLは小舟で旅を続ける。途中嵐になり、船員達はLが自分らの言葉を解するとも知らずに申し合わせ彼を海に投げ込み金目のものを奪おうと計画していた。Lは気付き、ロザリオを取り出し祈りを捧げるふりをした。それを見た船員は彼が異教徒ではないと知り計画を取りやめた。 #L普遍計画 227

1689年ローマにやってきたLは『動力学–自然的物体の力と法則について』という著作を書くことになる。ここでそれまでの運動論とは異なる「動力学dynamica」を打ち立てることとなる。それまでの延長や不可入性のみによる運動の説明では物体運動が十分に説明されえないことから力を導入。 #L普遍計画 231

1690年3月23日、Lはアルノーに宛てて現存最後の手紙を書いている。というのも、旅に出る前のやりとりの中でアルノーはエルンスト伯に「ライプニッツは物理学に関して奇妙な見解を抱いている」と述べていたことから、旅の途中で明晰化されたLの思想を披瀝しようとしたのだと考えられる。 #L普遍計画 238

教会再合同に関するペリッソンとの論争について。カトリックにしてもプロテスタントにしても、宗教信仰には二つの基礎があるとLは考える。①合理的説明に基づく信念、②内的な確信。ペリッソンは合理的説明それ自体では宗教論争は解決されないがゆえに教皇無謬説を必要とすると考える。 #L普遍計画 259

Lは教会再合同の道はカトリックプロテスタントを実質的異端者として、すなわち本質的異端者としてではなく受け入れることで開かれると考える。プロテスタント信徒は自分たちの拒絶した信仰がカトリックの信仰だと知らなかったことによるのであり、それは断罪には値しないと考える。 #L普遍計画 261

問題はトリエント公会議の決定内容をどうするのかということにあったわけだが、Lは「もしカトリック側がトリエント公会議の決定事項すべてについてプロテスタント側の同意が得られると信じているのであれば、「再統一よ、さらば」と言わざるをえない」と述べている。 #L普遍計画 266

1692年『動力学論考』について。1691年の暮れ、フーシェとペリッソンからそれぞれ別個で新しい力学についての説明を要請された。とりわけ、ペリッソンがパリ科学アカデミーの会員たちに新しい力学を知ってもらうために論文を書くことを勧め、それまでよりも詳しい論文が書かれた。 #L普遍計画 274

1694年3月の『ライプツィヒ学報』に、Lは『第一哲学の改善と実体概念について』と題する短い論文を発表し、彼自身の「能動的力」とスコラの「単なる潜勢力」の区別を明らかにしている。後者は可能態にすぎず現実態に移るには外的刺激を必要とするが、前者はそれ自体で働く。 #L普遍計画 283

翌年1695年にはLが自らの形而上学を初めて公にした論文『新説 Système nouveau』が発表された。調和の原理が公にされると、さっそくフーシェ師から反駁が寄せられた。この回答は1696年4月号『学芸雑誌』に掲載され、ここにおいてはじめて「予定調和」という語が活字化された。 #L普遍計画 287

ほかにもこの論文は反響をひきおこした。バナージュや、そして重要なのはピエール・ベールからの批判である。1697年にベールが出版した『歴史批評辞典』においてLに対する批判を掲載し、ここから長い論争が始まることとなる。 #L普遍計画

Lとファン・ヘルモントとゾフィー。1696年3月から数ヶ月、ヘルモントはゾフィーの客としてハノーファーに滞在した。その際、Lも加わり連日三人で議論を楽しんんだという。毎朝9時に二人でゾフィーの書斎に参上し、ヘルモントは自説を披露した。Lはそれを聴きながら時折質問を加えたという。 #L普遍計画

1690年、イタリアからハノーファーに帰国したLは若き頃の『結合法論』の成果をさらに展開するべく算術的論理計算の拡張を試みている。この時期に二つの手稿を残しており、そこでは、存在量化子の先駆けと考えられる述語定項ensや、non-ensを表現する述語定項nihilの導入がなされる。 #L普遍計画 298

「医師の中には—『学芸雑誌』で悪事を暴露された金属占い師ジャック・エマールのごとき—ペテン師がいることは認めるが、他方、優れた治療法を発見した医師がいることも事実であり、[…]そうした責任ある医師たちの研究を阻害することがあってはならない。… #L普遍計画

…医療行為に従事することで生活の資を得ている一般の医師は、患者の理不尽な要求により、しばしば本来の診療を妨げられてしまうのである。… #L普遍計画

…肝心なことは、治療を行う前にまず診断を下すことである。症状を注意深く観察すること、そして治療の効果に対する反応を含めて、症状の経過を記録することがなされねばならない」。 #L普遍計画 302

Lとベール。1696年『歴史批評辞典』の第2巻「ロラリウス」の項で予定調和説、とりわけ魂の自発性の難点を取り上げる。これに対し、Lは1698年7月に回答を発表する。ベールはこれを受けて1702年の『辞典』第二版では予定調和説が十分に確立されればLの説は優れたものであることを認める。 #L普遍計画 335

この第二版を受けて、Lは再びベールの疑問を払拭するため『ベール氏が批評辞典第二版のロラリウスの項で予定調和説に加えた批評に対する答弁』を1712年のマソン『文芸国批評史』に掲載する。ここで意識の問題が重要になっている。 #L普遍計画 336

精神は物理的な原子になぞらえられるべきではない。原子は単一の方向へ向かうのみであるが、精神は分割不可能でありながら、さまざまな性向が複合したものであり、この複数の傾向性の上で「現在の意識から未来の意識」が生じるのである。昨日引用したドゥルーズの話と被る箇所。 #L普遍計画

1794年の夏から秋にかけてのLとマサム夫人のやりとり。マサム夫人が提起した疑問「もし精神のみで足れりとするなら、物体は何の訳にも立たないではないか」。これに対してLは「神はご自分以外にも無限の存在者が存在することを望まれた」と答える。あんまりよくわからない。 #L普遍計画 341

ゾフィー問、神とモナドは異なるか。答、モナドは神のように孤立したものではない。「神は宇宙をその根源から判明かつ完全に表出する」「精神の法は、事後的に宇宙を表出するのであり、外界にあるものに自らを合わせる」「神は宇宙の中心であり、われわれは特定のものの中心である」 #L普遍計画 371

1705年2月1日、王妃ゾフィーシャルロッテが息をひきとる。このときのLの悲痛な気持ちは計り知れない。このとき彼は王妃との思い出をドイツ語の長い詩に綴っている。この詩は完徳を備えた王妃を人間を超えた存在「肉体と足をもった天使」にちがいないと結ばれる。 #L普遍計画 379

1705年10月31日、前書簡からゾフィーシャルロッテの死を挟み4年の間隔が空いている。ここでLは単純実体の理論かなり詳しく展開している。物質が無限に分割されうることと、その基礎には一なるものが存すること、この逆説的な二つを調和的に結び合わせる理論こそLの誇るものであった。 #L普遍計画 400

自身もまた最善世界の一部としてこの世界の完成に向かって献身し続けるLという人間。ある種の解釈は、最善世界を神への信頼の印ではなく神そのものへの不信感から生じてきた理論として理解する。神の弁護士は、弁護の末に世界を最善だと確信するに至る。そこでは、再び神は信頼に値する。 #L普遍計画

『人間知性新論』について。フィラレートはマサム夫人宅でロックと会見してきた人物、テオフィルは哲学雑誌やベールの『辞典』でLの説を読みかじりそれを信奉するようになった人物、この二人によって対話が進められる。時々Lが間違えてテオフィルに「私の著作」と語らせたりしている。 #L普遍計画 404

1706年2月2日、デ・ボスへの最初の書簡が送られる。Lは自らの哲学の根拠をアリストテレスに見出す上での助力をデ・ボスに求めている。この上で、デ・ボスはLの思想を可能なかぎりアリストテレス流の言葉に置き直し、カトリックの教義とも合致させることを試みることとなる。 #L普遍計画 409

1708年までの書簡の主題はAの次の五つのテーゼ。①存在と一性は互換的な語である、②連続体は無限に分割可能である、③現実的無限は自然の内には存在しない、④一は数の始まりである、⑤事物の原因および原理は無限にまでは遡及しない。とりわけ第三のテーゼとLの合致は難しい。 #L普遍計画 410

1709年、デ・ボスは「第一質料とエンテレケイアは不可分なものとして同時に創られたのかどうか」という疑問を提起。Lは「古いモナドを新たな有機的物体に付け加えるだけで、物塊を増大させることなく無数に新しいモナドを創ることができると説明する」。 #L普遍計画 411

魂と有機的物体の結合は、すでにトゥルヌミーヌに説明していたように、現象からは説明されず、現象の変化を与えることもないので、それが形相的にいかなるものであるかは明らかではないとする。複合的な物体が一であることがなされる原理は明らかではないが、「結合は照応と密接に関わる」 #L普遍計画

Lが自らの哲学について論じ合った人物としてハルトスケルも挙げられる。1710年にハルトスケル『物理学的憶説について』が出版されると、両者の文通はより広く哲学的色彩を帯びていく。Lは物質の凝集を物質部分の協働に帰するが、ハルトスケルはそれをM的だとして批判する。 #L普遍計画 414

Lとヴォルフ。ライプツィヒ大学の数学教師になったヴォルフは論文をLに送る。Lはその才能を認め彼をギーセン大学の数学教授の職に推薦する。1705年4月4日、ヴォルフは多くの学説を蒐集しているところだとLに伝える。Lhaそれに応えて予定調和の概説を書き送った。 #L普遍計画 423

1706年、さらにLはヴォルフをハレ大学の数学教授に推薦する。彼にとってLはすべての問題について意見をあおぐべき師であり、例えば、ヴォルフの原稿の多くはLに送られ校閲をうけている。予定調和説について書く際も、事前に原稿をLに回して加筆・訂正の指示を請うている。 #L普遍計画 423

『弁神論』(1710年、第二版1712年)。故ゾフィーシャルロッテとの思い出を偲んで書かれたLの生前に出版された唯一の哲学書。ここで顕著なのは、当代の神学論争とベールに対する批判。ベールは1706年に没しているが、死後もその影響力は強く論争の的になっていたらしい。 #L普遍計画 426

連続体の迷宮は哲学者を惑わせるが、神の正義と人間の自由の迷宮はすべての人を惑わせる。 #L普遍計画

Lの見るところではベールは検察官であり、神は罪の存在を許したが、それを人間がしたら勝訴する見込みはないのだから神の善性は認められないとする。Lは弁護士として神を弁護する。神にとって問題なのは全体であり、神の選択の普遍的理由が明らかになれば罪の嫌疑は晴らされる。 #L普遍計画 429

「公爵は彼のために言葉を話す犬を見る機会を作ってくれた。お茶、コーヒー、チョコレートなど30ほどの言葉を話し、アルファベットを唱えることのできるこの犬は、大いに彼を喜ばせたことだった」。え…なんだその犬は…。 #L普遍計画 459

晩年、歴史編纂事業の重荷や親友と言っても過言ではないゾフィーの死などに見舞われながら、Lは自身の思想を発展させ重要ないくつかの著作を生み出すことになる。『中国自然神学』では中国の科学と学問の解釈が体系的に示されているし、『モナドジー』もこの時期に書かれた。 #L普遍計画

『中国自然神学論』について。ここで、Lは近代の中国人は無神論であるが、古代中国人はキリスト教に匹敵する自然神学を有していたことを結論する。しかし、その際の典拠資料の成立年代が誤ったものであり、古代に関しては、結局のところ誤りとされる。 #L普遍計画 468

『中国自然神学論』第一部。中国人は神や精神的実体の観念を有していたことを「理」の考えに見出す。第二部では、神による創造が示される。鬼神による世界支配を考える。第三部では、人間の魂に関して、祖先の霊魂崇拝を取り上げる。第四部では、二進法に関する説明がなされる。 #L普遍計画 470

1714年、Lはウィーンに滞在中、Lは二本の著作を記した。一つは友人オイゲン公のために書いた『理性に基づく自然と恩寵の原理』であり、もう一つはパリの新しい友人レモンに書いた『モナドジー』である。生前には公刊されず、前者は1718年、後者はドイツ語訳で1720年に公にされた。 #L普遍計画 473

「この二篇の論文では、よく基礎付けられた現象についての言及がなされていないのに対し、複合的な実体の方はいずれの論文においても取り上げられている。このことは、ライプニッツが現象論的な立場から、自然界の実在性を認める立場へと移ったことを示すものであろう」。重要な指摘。 #L普遍計画 474

Lとクラーク。皇太子妃キャロラインは『弁神論』が英訳されることを望みリンカーン主教に相談したところ、クラークを翻訳者として推薦してきた。しかし、ニュートン主義者クラークはふさわしくないということから、二人の間で論争が持ち上がり、キャロラインはLに援けを求める。 #L普遍計画 487

キャロラインへの手紙の中で、Lはニュートン哲学の二つの誤りを提示する。①空間を神の感覚器官とするのは誤りである、②神は世界を創造した後も世界に介入するというのは誤りである。キャロラインはこの手紙をクラークに示し、返答を求めた。こうしてLとクラークの文通が始まる。 #L普遍計画 488

1716年、Lの最期。まず、彼が1680年代中頃から進めてきたブランシュヴァイク家史の編纂は、未完のままになった。事業に実際にあたりすべてを一人で行うことは無理だと悟った彼は、自身の仕事を768年から1024年までに絞り、残りは後継に任せることとなった。完成は1843–6年となる。 #L普遍計画 497

1716年11月痛風が手に及び執筆中断。13日、医師にかかり薬を処方される。14日昼、回復の見込みがないことが告げられ牧師を呼ぶことを提案されるが、Lは翌日でも良いと穏やかにこれを断る。14日午後十時、Lは息をひきとる。享年70。秘書エックハルトに知らされすべて手続きがなされた。 #L普遍計画 498

埋葬は12月14日に行われ、柩を黒のビロードで覆い、頭部にはLの紋章が置かれた。エックハルト以外に宮廷の列席者はだれもいなかった。エックハルトによれば、多くの人がLを無信者だと考えていたからであり、実際Lは自身を自然的正義を奉ずる僧であると語っていたという。 #L普遍計画 498

一緒に埋葬された紋章について調べていたがどうもはっきりしない。1723年版の『弁神論』の口絵にこれがあるらしく、この紋章はLのひいひいおじいさんの甥がオリジナルらしい。色はわからないという。サイトの男爵位を叙せられたとの記載はエイトンによれば誤り。

Lと爵位。Eberhardによる伝記(1795)によれば、Lは1711年に帝室枢密顧問官任命の内約を得ると同時に男爵に叙せられたという。しかし、顧問官の称号を付した草稿と辞令を比較するなら名前に冠された「フォン」が削られている。

また、ウィーンの文書局にも授爵検討の記録はない。ウィーンの当局者によって、爵位請求は拒否されたとみるべきであり、Lが男爵に叙せられなかったのは確からしい。 #L普遍計画 447

Lの仕えたハノーファーの宮廷も、かなりの額を相続した甥も記念日一つ建てようとはしなかったし、彼の死後50年以上もの間、墓には何も刻まれないままであった。「今日そこには「ライプニッツの遺骨 Ossa Leibnitii」とのみ記した銅板がはめ込まれている」。悲しいなぁ。 #L普遍計画 499

1717年11月13日、パリ科学アカデミーでやっと追悼演説が行われた。昨日の五来欣造氏も書いていたけど、Lの人生を追ってみても、Lはハノーファー宮廷から冷遇され、そしてヨーロッパ全土を活躍の場としてそちらで評価されていたというのは、その通りなのだろう。 #L普遍計画

Lの著作刊行。生前ほとんど出版されることなかった彼の著作は死後少しずつ人々の目に触れられることとなる。まず、死後、秘書であったエックハルトがLの遺稿集を計画、だが実現せず。1718年、1696–1698年のLの書簡がその時期の秘書であったフェラーによって編まれ公刊。 #L普遍計画

フェラーの息子クリスティアンは1734–38年に三巻からなる書簡集を出版。1745年、三つの書簡集が出版。①ブスケによるベルヌーイ書簡集、②カップによるヤブロンスキー書簡集、③グルーバーによるL往復書簡全集の最初の2巻。その後、グルーバーの全集は未完におわる。 #L普遍計画

1749年にはハノーファー司書であったシャイトによって『プロトガイア』の羅語、独語版が出版され、1765年にはラスペによって『人間知性新論』を主軸とした哲学著作集第1巻が公となる。 #L普遍計画

1768年デュタンによって、6巻にまとめられたの最初の全集が出版される。「彼はハノーファーの遺稿の利用の便には恵まれなかったものの、フランスおよびイタリア各地の図書館に蔵されていた[…]書簡をここに収録した」。 #L普遍計画

1837年、すでに稀覯本となりデュタンも入手できなかった『個体の原理について』の第二版がグールアウアーによって刊行された。つづいて、彼はドイツ文学史におけるLの重要性を示すためにドイツ文選集2巻と、Lの政治的記録を収めた1巻を出版した。 #L普遍計画

1840年、エルトマンによって哲学全集が3巻本で出版され、普遍記号法、論理学、科学方法論などが収められた。さらに先のグールアウアーは1842年にLの伝記を刊行するに至った。1846年には、つまりL生誕200年には、この伝記の第二版が出版されている。 #L普遍計画

19世紀に入り、ハノーファー図書館司書ペルツによってLの膨大な全集刊行事業が企てられた。ペルツ自身は歴史部門を担当し、ヴランシュヴァイク家史が完成、哲学部門グローテフェントはアルノー書簡を刊行。数学部門ゲルハルトによる数学著作集が1849–60に全7巻で出版された。 #L普遍計画

フーシェ・ド・カレイユもウィーン科学アカデミーにL全集の出版を提起、1859–75年にかけて、歴史的・政治的問題に関する文書を全7巻で出版。また1864–84年、クロップによって全11巻からなる同様の内容の著作集が出版され、ゾフィーゾフィーシャルロッテなどの書簡が公になる。 #L普遍計画

哲学関係については1875–90年にかけてゲルハルトによる著作集がついに刊行された。ここにおいて主要な著作はほぼ網羅されることとなり、20世紀のL哲学研究はこれを参照して行われた(現在はアカデミー版の刊行も進みつつある。しかし未刊行の『弁神論』などは未だGP版が参照される)。 #L普遍計画

20世紀、二つの重要な手稿集成が出版される。ゲルランドによる物理学、力学、技術に関する選集、そしてクーチュラによる論理学の選集である。また7部門からなる決定版L全集もプロイセン科学アカデミーによって企てられ、1923年以降刊行が継続されている。 #L普遍計画

と、これだけみても、ニーダーザクセン州立図書館所蔵にはまだまだ大量の手稿が残されており、Lの著作の全貌は僕らが生きているうちに明らかになるかどうか怪しい(たぶんならない)。すべて刊行されたところで、一生かかっても読めないけれど。でかい山みたいなものである。 #L普遍計画

このエイトン本の最後は「彼が試みたこと、それは機械論的決定論者の物理学を、神と人間の意志の自由を許容する合理主義者の精神的形而上学と和解させること」であり、「ライプニッツが取り組んだ根本的課題が提起する数々の問題は今日なお解決を見るには程遠い」と結んでいる。 #L普遍計画 504