わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

会話をしながらノートをとりたいな

ノートをとるのに紙とシャープペンを使わなくなって3年目になる。以前は罫線にドットの入ったコクヨのノートを使用していたが、iPad Pro を購入して以来、止むを得ない場合を除いて(事務書類などの場合を除ねばならない)あらゆる筆記活動をデジタル化してきた。基本的に GoodNotes というアプリを使用しており、このアプリの使い心地に関する詳細はこの記事の主題から逸れるので扱わないにしても、iOS のノートアプリのなかでは比較的おすすめできるものだと思う。

この記事で主題にしたいことは、必ずしもデジタルノートに限った話ではない。むしろノートのとり方に関わる話である。私は次のことを最近はじめて理解した。講義を受けたり人の話を聞いているだけの場面であればうまくノートをとることができるのだが、自分からもたびたび会話に参加するような場面ではそれが難しいのだ。何を今更と思われるかもしれない。たしかに私自身、そういった事実があることはすでに知っていた。しかしながら、そのことについて改めて何かを考えようとしたことがなかったのである。何にせよ、どのようにこの困難を解消するべきなのだろうか。

この場合の解決策は、問題となっている原因に対して何らか対処することにあるだろう。なぜ積極的な会話の場面でノートをとるのが難しいのだろうか。

  1. 手を動かす時間が足りない
  2. 話をまとめるために考える時間が足りない

つまり、手を早く動かし、話をまとめきらずにノートをとれば、会話に関する何かしらの記録を残すことが可能になるだろう。とはいえ、それはノートをとったことになるのだろうか。私としては後から見返して、そこで話し合った重要な部分に関して後から再構成できる程度のノートをとりたいと考えている。それを考慮すると、質を落とすことで時間を短縮するという方法はとることができそうにない。

自分が会話に参加していないときには十分なノートをとれることを考えるならば、問題は自分の有限な身体的および精神的リソースが会話に持っていかれてしまっていることにある。会話によって削られた能力には、もはや十分なノートテイクに対応できる力は残されていないのだろう。だとすると、会話をしながらノートをとるということを諦める必要が出てくる。とはいえノートはとりたい。

会話しながらノートをとることが難しいならば、会話が終わってからノートをとればよいだろう。あとでキチンとしたノートをとることにして、会話中には簡単なメモを残しておけば良いのである。このきわめて単純な解決策にいたるまでの道のりが長すぎるとの見方もあるかもしれない。しかしながら、会話中は簡単なメモにとどめておくのが最善であることについて、自分で納得できる理由を用意しておくことは重要である(そして、何に関してもそうなのだ)。

そういうわけで、最近はこの簡潔なメモのために紙と鉛筆を使用するようになった。とはいっても、大きなノートではなくて、四角い付箋をつかってメモをとることにしている。というのも、紙のサイズによって不可避的にメモが簡素なものとなるからである。大きな紙に意識的な仕方で短いメモを残すよりも、小さな紙に無意識的な仕方で「短くなってしまった」メモを残す方が、気持ちとして楽であろう。

会話が終わって時間ができたときに、できるだけ早めに iPad のノートに清書しておくのがコツである。簡素なメモだけでは、時間と共に多くのことが忘れ去られてゆくし、何よりメモが溜まってしまったときの絶望感は容易に想像できる。できるだけ目立つところに付箋を貼り付けておこう。

通常の人間である以上は様々な物事を忘れてゆくものであるから、もし忘れたくないことがあるならば、何らかのノートをとるしかないだろう(録音でもよいが聞くのは大変だ)。この記事は、そのようなノートをよりよくするための方法と、その方法を実行するための理由に関するものであった。