わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

ミシェル!ミシェル!!|『禁じられた遊び』は未だに(※ネタバレ注意)

禁じられた遊び』との出会い

ルネ・クレマン監督『禁じられた遊び』(1952)に関係する何事かについて、私が得た最初の知識は、何よりもまずその音楽に関してであった。『禁じられた遊び』の劇中の音楽は、(どうやら予算の関係で)ナルシソ・イエペスのギター1本で演奏されている。このギター曲が初心者にちょうどいいということで、昔のギター教則本を開くと「愛のロマンス(『禁じられた遊び』より)」という題名で楽譜が載っていたものである。当時、映画をみたこともなかったし、演奏されたものを聞いたこともなかった私は、なんとなく楽譜をなぞってみて、なるほど退屈な曲だなと、真面目に練習することもなかった。だから、私の『禁じられた遊び』に対するイメージは、昔の教則本に載っている退屈な練習曲の映画、という程度のものであった。

その後、何かの本を読んでいたら、この映画についてさらなる知識を得る機会に遭遇した。どうやら『禁じられた遊び』という映画は、少年と少女が一緒にお墓を作る反戦映画、らしい。お墓を作る映画というのは世の中にどれほど存在するのだろうか。お墓に入る映画はたくさんあるが、お墓を作る映画というのは。自分の小さい頃を思い出してみると、たしかにお墓というものを作った記憶がある。カブトムシだったか、クワガタムシだったか忘れたが、私は死んでしまった何かのため、庭に穴を掘り、目印の木を挿してお墓とした。もしかしたら何か文字も刻んだかもしれない。とはいえ、少年時代の私にとって、それが何ムシだったかも忘れてしまうほどに、「その」生き物が死んだことには興味はなかったのであろう。お墓を作りたかったのだ。何かを弔いたかった。あるいは、自らで儀式を主催してみたいと思ったのかもしれない。

映画のあらすじ

映画『禁じられた遊び』の話に戻そう。最近になってやっとこの映画を見ることができた。簡単にあらすじをおさらいしておくと以下のようになる。第二次世界大戦中、ドイツ軍の戦闘機の機銃掃射によって両親を亡くした少女ポーレットと、少し年上の牛追い少年ミシェルとが出会うところから、物語は展開してゆく。死んだ子犬を抱えるポーレットに、ミシェルは「死んだものにはお墓をつくるものだ」と教える。ポーレットはお墓や祈りというものをそれまで知らなかったのだが、ミシェルに教えられ、二人で秘密の水車小屋に埋葬し十字架を立てる。「子犬がひとりで可哀想なのでもっとお墓を作ってあげたい」というポーレットに、ミシェルは、モグラやヒヨコの死体を探してきてはそこに埋葬する。二人のお墓作りは徐々に盛り上がり、ミシェルはついに、本物の墓場から十字架を何本も盗み出してしまう。多くの十字架とともに装飾された水車小屋、それはポーレットのためにミシェルが作り上げた賑やかな秘密の墓地であった。結局、ミシェルの十字架泥棒はバレてしまうし、ポーレットも彼と引き離され孤児院に入ることになる。「ミシェル!ミシェル!!」と駅の雑踏で叫び走り去ってゆくポーレットの姿を映して映画は終わる。

  

禁じられた遊び』はいかなる意味で反戦映画か

原作の題名は « Les Jeux inconnus » であって直訳すれば『知られていない遊びたち』である。これを映画では『禁じられた遊び Les Jeux interdits』としたのは大きな変更である。この映画の紹介を読むとたいてい「反戦映画だ」と書いてある。なるほど、そのとおりなのだが、反戦映画は無数に存在している。この映画は何がどのように反戦的なのかが問われなければならない。この映画が映し出したもの、それはポーレットとミシェルの「禁じられた遊び」、つまりお墓作りであった。それも、際限なくエスカレートしてゆくお墓作り。戦争によって両親が殺される悲惨さを訴えることでも、孤児になって泣きながら引き離されることになったことでもなく、この映画が反戦映画として訴えようとした最も中心的なことがらは、その無邪気さではなかったか。戦争の被害者ともいえる子供達が、戦争と類比的な遊びをすること、つまり際限のないお墓作りをすること。戦争とは、子供達の禁じられた遊びに他ならないのではなかったか。

お墓作りの際限のなさは、最初に言いだしたポーレットによって推し進められるのではない。働き者はミシェルなのだ。無邪気さは、エロチシズムと両立するだろう。子供を愛欲の対象としてはならないという禁止、しかし子供同士の場合はその限りではないかもしれない。ともかく、ミシェルはポーレットのためにひたすらにお墓を作るのである。同様に、戦争という禁じられた遊びの際限のなさもまた、何かへと向けられたものだと言わんとしているのではないか。それは例えば、ナチス・ドイツにおいては人種主義であるかもしれず、あるいはどこかでは金が光っているかもしれない。

ミシェル!ミシェル!!と走り去ってゆく少女の姿を見送りながら、「愛のロマンス」は退屈な曲なんかではなくなった。古ぼけたギター教則本に掲載された、古ぼけた楽譜の、古ぼけた音楽ではなくなった。われわれの社会は、相変わらず、ポーレットとミシェルと同じくらいに無邪気ではないか。たまに「子供とはそんなに無邪気ではない」と言われることがある。つまり、非無邪気な大人と同じくらいに子供も非無邪気なのではないかというのである。そうではないと思う。むしろ、大人も子供と同じくらいに無邪気なのではないか。さらに言えば、古ぼけた過去だけが無邪気なのではなく、現代もやはり無邪気なのではないか。われわれは、何かに突き動かされ「禁じられた遊び」を楽しんでいないか。もはや「愛のロマンス」は退屈な曲なんかではなくなったのだ。