すし天ぷら蕎麦、哲学

日々の雑記。

「好き」という言葉が伝わらない話

「好きだ」と誰かに伝えると、どんな反応が返ってくるだろうか。小学生の頃は「私も好きだ」か「私は嫌い」という言葉が返ってくるものだと思っていた。中学生になり、もう少し世の中のことがわかるようになると「私は好きでも嫌いでもない」という返事の可能性にも気づくようになった。好きか、嫌いか、中間か。これが告白とその返事の全てであった。


予想だにしない出来事との遭遇のために驚きはある。告白の返事パターンを枚挙し尽くしたと思い込んでいた僕にとって、彼女の言葉は衝撃的だった。「好きって言われてもよくわからない」。なるほどそうきたか…とはならなかった。僕は驚いてしまっていて、そんな余裕はないに決まっていたのだ。何か言わねばならぬ状況で出てこない言葉のもどかしさは、指に刺さって抜けない針のそれにも似ている。


好きと言っても伝わらないとき、どうしたらいいのだろうか。諦めるという選択肢はないだろう。彼女が好きなのだから。パンにハムとレタスとトマトを挟んで店先に並べるバイトの間、僕はそのことばかりを考えていた。マヨネーズの量が少し多くても問題ない、好きと伝えるための作戦の方が大事だ。パン屋でのバイトは、パン生地と一緒に作戦を練るための時間となった。


それでふたつほど作戦を考えた。ひとつは、言葉を言葉で説明する作戦だ。パン屋で「デラックスサンドってなんですか」と聞かれたら、僕は「デラックスサンドは、テリヤキチキンとトマトとレタスと玉ねぎがパンに挟まったものです」と答えるだろう。同じように「好き」ということを、何か別の言葉で説明すればよい。これはけっこう難しい。辞書を引いてみても、なんだかあんまりパッとしない言葉がならんでいる。「魅力を感じること」「愛情を抱くこと」と言われても「好き」という言葉と同じくらいよくわからない。思い込みかもしれないが「魅力」というのは性的な感じがするし、「愛情」というのは家族的な感じがする。「心ひかれること」というのもあったが、それはなんだか受動的すぎる。それで結局、「大切に思うこと」という説明を思いついた。これなら、フラットでかつ能動的な「好き」の意味を伝えることができる気がしたのだ。


もうひとつの思いついた作戦は、言葉を行動で説明するものであった。これは最初の作戦よりも正確に気持ちを伝えることができるように思われたが、それだけ難しい作戦でもあった。好きという感情はいくらでも大きくなることがありうるが、僕の行動はそれに比べてとても些細なものである。身体はひとつしかないし、時間の流れだって変えられない。記憶は消え去って行くし、お金だって留まらない。際限のない気持ちと際限だらけの僕の行動とのギャップは、自身の小ささを自覚させてくれる。小さな僕に、巨大な気持ちを担った「好き」という言葉を説明するだけ働きができるかどうか、全然自信がない。


そんな感じでふたつの作戦を考えた僕は、自信がないながらも、さっそく両方とも実行に移した。「好き」という言葉を別の言葉を駆使して説明し、食堂ではトレイを持ってあげた。水も汲んだ。そんな日々を幾らか過ごして「好きだ」ともう一度伝えた。そうしたら、彼女はまた驚くべき答えを返してきた。「あなたは私を好きじゃないよ」。なんということだろう、「好き」「嫌い」「中間」「好きがわからない」の他にもまだ「あなたは私を好きでない」という返事があり得たとは。びっくりして僕は余計に彼女を好きになってしまった。いやわからない、彼女が言うように、僕は彼女を好きではないのかもしれないから「余計に」好きになったわけではなくて、そのとき始めて好きになったのかもしれない。いや…それすらもまだわからない、今までの僕の気持ちは「好き」ではなかった可能性まで出てきてしまったのだ。


僕は彼女に「好きだ」ということを伝えようとして、何を伝えようとしているのかもっと分からなくなってしまった。それで、僕は、ほんとうに困ったものだと、半分楽しみながら思うのであった。