わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

手をつなぐということ

小学生の頃、下校途中に追いかけっこをしていて転んだことがある。季節も思い出せないくらい古い記憶だけれども、かすかな記憶をたどると、坂道で転んだ私は、腕を変な方向に曲げてしまいその後数週間のギプス生活を送ったのであった。

成長して転ぶことも少なくなった。転ぶ要因は様々あるが、そのほとんどの要因を避けられるようになったのである。先に挙げた思い出の転倒は、足をもつれさせて転ぶというものであったと思う。最近はそもそも走ることが少なくなったし、ましてや坂道を駆け足でくだるなどという危険な行為をあえてしようとは思わなくなった。他にも、歩行時の足の上下が不十分であることによって何かにつまづいて転ぶという場合や、平衡感覚を失って転ぶ場合などを考えることができる。そういった危険に対しても、成長した私は、ある程度対応できるようになったのだろう。

とはいえ、やはりたまには転ぶのである。私たちはある程度の身長を有しているので、舗装されていない道をみても、その凹凸が些細なもののように感じたりする。その油断が転倒へと誘うのである。蟻の眼を備えろ!次の瞬間には天地がひっくり返る!

犬と生活していたことがある。小さい頃から犬が家にいた。一人っ子だった私にとって、彼は兄弟であり友達であり犬であった。ところで、犬はとても足が速い。しばしばフリスビーで一緒に遊んだの覚えている、犬は、すごい速さで駆けていって高く飛び上がりそして帰ってくる。ただ、記憶のどこを探っても犬が転んだ姿をみたことがなかった。それは、きっとあの四つ足のおかげだろう。どんなによろけても絶対に倒れない四つ足のロボットの動画をみたことがある。二つ足に比べて、四つ足はずっと転びづらいのだ。

彼女と暗い山道を歩いていたときのことである。日も落ち周りに人影もなく、手元の懐中電灯だけが頼りであった。地表では、沈んでは飛び跳ねる木の根が、私たちを転ばせようと、至る所にうようよと潜んでいる。この状況において、転倒は避けられないように思われた。安全なところへ戻りたいと焦る気持ちで早まった一歩を、木の根はすかさず捕らえてきた。それでも、転ぶ運命に必死にあらがい振り回した左腕を、彼女がしっかりと捕まえてくれたおかげで、私はなんとか耐えることができた。それだから、その後、手をつないで山をおりた。そのとき、私たちは転倒の恐怖に打ち勝ったのである。

あのとき、私たちは四本足の何かだった。「支え合って生きる」という、思弁的で抽象的で観念的な言葉を聞いたことがあるだろう。手をつなぐということは、それとはだいぶ異なる。四本足が本来的であるというような、ある種の全体性を前提とした相補性でもない。手をつなぐことで、私たちは、転倒の不安にそれぞれで打ち勝つという出来事を、同時に経験したのである。その経験は、全能感のようなものではないけれど、人間身体にとって本性的な「転倒」を超えうるという、予感や期待をもたらした。

キャンプファイアーを囲んで手をつなぐ。それで私たちはみんな少しだけ完全だったのだ。