p. 360 から。

日々の雑記。

機械的なリズム現象の可能性について(2/3):クラーゲスと自然のリズム

前節「限界のない操作可能性」からの続き。ロッシがベーコンを引用しながら提示した、自然に対する「操作の無際限性」へのひとつの反論がここで提示される。すなわち、クラーゲスの述べる「リズム」概念は、そのような「操作」可能性の埒外に置かれたものなのである。人間がリズムを作りうるとしてもそれは天才による限りであり、目的のために対象を作り上げるような操作によってではないのである。ところで、第3節では、この天才による跳躍を批判的に検討しなおすこととなるだろう。

2. クラーゲスと自然のリズム

クラーゲスのリズム論は、ロッシの言う自然に対する人為的操作の「限界に直面しない可能性」に対するひとつの反例を提示している。

リズムは—生物として、もちろん人間も関与している—一般的生命現象であり、拍子はそれにたいして人間のなすはたらきである。リズムは、拍子が完全に欠けていても、きわめて完成された形であらわれうるが、拍子はそれにたいしてリズムの協働なくしてあらわれえない。 [1]

このリズムと拍子の一方的な関係が示すのは、人間はリズムそのものを操作できないという事態である。私たちが操作可能なのは拍子に関してのみであり、あくまでリズムを「分割する行為、したがって規則付ける行為 [2]」が可能であるにすぎないと、クラーゲスは主張するのである。こうして、リズムが人為的操作の及ばぬ領域に控え隠れ続けるのであれば、ベーコン-ロッシが主張するような際限なき人為的操作の可能性はありえないこととなるだろう。本節では、クラーゲスがリズムを拍子に対して特権視する根拠を提示し、次節で、クラーゲスの議論によってベーコン-ロッシ路線の可能性が完全に絶たれてしまうのかどうかを、ライプニッツの認識論および機械に関する議論に依りつつ検討することにしよう。

 クラーゲスの『リズムの本質』において、「波」がリズムの代表的な具体例として頻繁に登場している。さらには、潮の満ち引きや人体における脈動といった、いわば人間の意図が及ばない自然的な領域において、彼がリズムと名付けるものは現れてくる [3]。とはいえ、クラーゲスは人間の為すことにはまったくリズム的なものがないとまでは考えていないようである。メトロノーム通りに演奏する初心者よりもそうではない専門家の方が、詩を韻律に従ってのみ朗読する子供よりもそうではない朗読家の方が、そして、分列行進よりも優美なメヌエットの方が、リズム的に優れていると述べている点などは、人間のリズム的なものに対する操作可能性を保証している [4]。つまり、芸術的な側面においては、人間もまたリズムに触れることがあるというのである。

 これらと対照的に、クラーゲスは「機械」や「機械的」という言葉をリズムと完全に相容れないものとして語る。

メトロノームどおりに正確に再現された音楽、韻律にあわせて朗読された詩句、分列行進など、すべてこれらに類する事象を、比較的魂なきもの、死せるものとして体験し、このような作業をつねに「機械的」という名で呼んでいることに注意しよう。「機械」という言葉を用いて表現するならば、機械はもっとも完全な規則現象であり、機械の運動はリズムを否定する!と言えるのである。 [5]

機械的な人為の次元はリズムと徹底的に対立している。これは芸術的な人為の場合とは異なっている。二つの人為の間にある差異の起源に関する考察は後に回し、ここではクラーゲスがなぜ「機械の運動はリズムを否定する」と強く主張するのか、その根拠を明らかにすることにしよう。

 クラーゲスは拍子とリズムを次のように明確に区別している。

拍子にはいずれも初めと終りがあるが、何は初めも終りもない。波はじじつ初めと終りを持たないが、そうすれば、それは字義どおり「無限なるもの」である。 [6]

現象の繰り返しにおいて、拍子は或る瞬間t1にはじまり次の瞬間t2において終わる。t1とt2の間に拍子が存し、非拍子的なそれ以外の時間系列と質的に隔絶されている。対して、リズムそれ自体はt1–t2の間といった仕方では隔絶を有していない。というのも、リズムにおける境界とは、ある無限小の瞬間における方向の対立だからである。例えば、それは正弦波における極値であり、数学的思考的によってのみ把握されうる。思考対象としてあつかわれるところの無限なるものは、例えば多角形から円形まで通貫した構成規則を概念可能にする。ところが、ある任意の事物にかかわる指示的判断においては、多角形は多角形として、円は円として現象するのみである。「それゆえ、多角形の現象がわれわれの念頭に浮かぶとすれば、多角形の辺を「無限」に増やそうと思っても意味のないこと [7]」、すなわち円にいたることはないのである。

 逆にいえば、多角形と円が質的に区別されるのは、指示的判断においてである。同様に、赤や青を私たちが見分けることができるのも、この判断においてであるとクラーゲスは議論を進めていく。もし盲人が「赤や青という名称でふたつの意味単位が表現されていること [8]」を理解し、光学に習熟したとしても、これら二つの色の現象を区別することはできない。

これらの現象がたんに体験されうるにすぎないのとおなじく、〔一般に〕持続的なものの現象は理解力にとっては到達不可能な体験内実である。 [9]

 こうして、持続的なリズムという現象はあくまでも直観的世界に属するものであり、把握可能な思考対象には属していない。このようなリズムの特徴は、クラーゲスをして機械的なリズムの不可能性を支持させることとなる。かつて、ジャンバッティスタ・ヴィーコが「真理の基準ないし尺度は当の真理自体を作ったということである [10]」と述べていたことを思い出そう。彼の語る「真なるもの」と「作られたもの」の置換可能性がここでは重要である。人間知性の短小さから抽象的な思考が生じ数学を作り上げることで、その知性は宇宙全体を表現しうる可能性をもつと、ヴィーコは主張している。クラーゲスが述べるようなリズム現象は思考対象の範疇に属さないという理由で、そもそも真偽の土俵にあがりえない。それゆえ、操作可能性からも外れてしまうこととなる。

 しかし、先に述べたように、芸術的な領域においては人為的なリズム現象が可能であるとされていた。同じ人為的な製作にもかかわらず、機械的なものを作ることと芸術的なものを作ることの間に違いがあるとすれば、それはいかなる点においてなのだろうか。例えばカントは『判断力批判』において次のように述べている。

芸術の産物について意識されていなければならないのは、それが技巧であって、自然ではないということがらである。とはいえ、それでも芸術の産物が有する形式における合目的性は、選択意志を拘束する規則によるいっさいの強制から、それがあたかもたんなる自然の産物であるかのように、自由なものと見えなければならない。 [11]

製作物であるところの芸術的なものは、まず技巧的でなくてはならない。この点で言えば、機械的なものも等しく技巧的であると言える。だが、芸術的なものにはさらに条件がある。すなわち、あたかも自然の産物であるかのように「自由なものと見えなければならない」のである。「芸術は自然であることもできず、自然でないこともゆるされない [12]」と熊野が指摘するように、ここには逆説的な事態が潜んでいる。つまり、あらゆる製作物は目的をもって作られ、目的に沿った仕方で規則的に部分が配置されるがゆえに、規則から自由ではありえないはずである。それにもかかわらず、完成した作品が自由なものとみなされなければならないのである。この逆説的事態を可能にするものとして、カントの言うところの「天才」が必要となる。天才とは人間のうちの自然であり、芸術家は、その自身の天才に基づいて技巧を規則づけ、芸術作品を作り出す。機械は目的を先におき、そのための規則に従って技巧を用いて製作されるものである。これに対して、芸術作品の目的は私たちに先立って知られているものではなく、すでに作られた芸術作品のうちに私たちが規則を見出すことで知られうる。

天分が技巧(芸術としてのそれ)に規則を与えなければならないとするなら、その規則はいったいどのような種類の規則ということになるのだろうか。問題の規則は、およそ定式にまとめられて指令に役立つといったものではありえない。そうなると、美しいものをめぐる判断が、概念にしたがって規定可能であることになるだろうからである。むしろ規則は、なされたところから、つまり産物から抽象されなければならない。 [13]

 こうして、芸術的なものは、たしかに技巧的だという意味では人為的なものである。しかし、あたかも自然的なものであるという点で、出来上がった作品それ自体はもはや人為というよりも自然的なものに属しているのである。この点で、機械は、ただ技巧的であるにすぎず、目的を据え、そのための規則に従った形でしか製作することができない。目的にしたがった規則を技巧に適用することは、その目的が思考対象である限りで可能である。ところで、リズム現象は思考対象ではなかった。それゆえ、私たちは天才による芸術作品としてでなければ、リズム的な機械、あるいは機械的なリズムを作り出すことはできないのである。

 

[1] L. クラーゲス/杉浦実訳『リズムの本質』みすず書房, 1971, p. 22.

[2] 同書, p. 21.

[3] 同書, p. 60–61.

[4] 同書, p. 23.

[5] 同書, p. 23–24.

[6] 同書, p. 31.

[7] 同書, p. 32.

[8] 同書, p. 33.

[9] 同書, p. 33.

[10] G. ヴィーコ/上村忠男訳『イタリア人の太古の知恵』法政大学出版局, 1988, p. 44.

[11] I. カント/熊野純彦訳『判断力批判』§ 45, 作品社, 2015. Kants gesammelte Schriften, hrsg. von der Königlich Preußischen Akademie der Wissenschaften, de Gruyter, 1902–, V, p. 306.(以下、Kant Vと略記)

[12] 熊野純彦『カント:美と倫理とのはざまで』講談社, 2017, p. 169.

[13] カント『判断力批判』§ 47. Kant V, p. 309.