p. 360 から。

日々の雑記。

機械的なリズム現象の可能性について(1/3):限界のない操作可能性

先日、リズム現象を哲学的に取り扱う演習があった。この小論は、そのさいに提出されたものである。とくに発表する予定もないので、三回に分けてブログに掲載することとする。

1. 限界のない操作可能性

 ギリシア神話において、プロメテウスは神々の炉から火を盗み人類に与えた。アイスキュロスが、人間への「技術」の教示の物語としてこの反逆を解釈したことで知られている [1]。後世のさまざまな解釈を経たのち、プロメテウスの物語はフランシス・ベーコンによって二つの挿話を付け加えられることとなった。一つは、人類解放を目論み人間身体へと降り立った救世主ヘラクレスの「受肉の挿話」、もう一つは火を受け取った人類がプロメテウスをユピテルに告発する「忘恩の挿話」である。とりわけ本稿では後者が重要である。現代の研究者ロッシは、ベーコンの科学方法論の主要なテーマを象徴するものとして、忘恩の挿話を解釈している。

自らの技術や固有の性質を告発する者たちの行いは、人間の本性と人間の持つ知識を称賛する人々の行いよりも神々に喜ばれる。人間を称賛する人々は、人間の持つものを前にしてあたかも永遠の恍惚にあるかのように、人間の努力の終わりに到達したと考えてもはや何も新しい探求を行わない。人間とその技術を非難できる者のみが、新しい研究へ向かって、少数の尊大な哲学者の奴隷になることを拒否するようになる。 [2]

 忘恩の挿話とは、一人の英雄プロメテウスの所業にとどまることなく、自分たちの研究を推し進めようとする人類の物語なのである。これは、ベーコンが目指した諸学の大革新とどのように関わるのだろうか。彼は、真理の探求を次のように二つの道に分類している。

ひとつは、感覚および個々的なものから最も普遍的な一般命題に飛躍し、それら原理とその不動の真理性から、中間的命題を判定し発見する、この道がいま行われている。もうひとつの道は、感覚および個々的なものから一般命題を引き出し、絶えず漸次的に上昇して、最後に最も普遍的なものに到達する、この道は真の道ではあるが未だ試みられてはいない。 [3]

さらに、続くふたつの節で、「ひとりに任された知性」が基本的には前者の道を採るものであること、また、そのような知性が後者の道を採ったとしてもわずかにしか前進しないことを彼は指摘している。さらにここから、「自然の予断」を避け「自然の解明」へと向かうこと、その際には四種の「イドラ」に警戒しなければならないことへと議論は進んで行く。以上のような自然の解明を達成するための道程において、一人の英雄の学ではなく共同体の学であることが重要な条件であり、このことは次の一言に集約されうるだろう。「科学の完成はある個人の機敏さや能力ではなく、努力の継続に基づくべきなのである [4]」。

 人間は自然の法に従う存在者であり、自然の因果の鎖に縛られて生きている。「自然の下僕であり解明者である人間は、彼が自然の秩序について、実地により、もしくは精神によって観察しただけを為しかつ知るのであって、それ以上は知らないし為すこともできない [5]」。しかし、逆に言えば、ロッシが指摘するように、自然を観察しうる限りについて言えば人間は「自然の主人」なのである [6]。ところで、共同体の学においてこそ可能になるような「努力の継続」は、人間の限られた才能を強化し、自然への継続的な適応を可能にする。そのとき、私たちはどれほどまで「自然の主人」でありうるのだろうか。私たちは、ロッシが結論する次の可能性をどのように捉えるべきだろうか。

自然に対する〈自由な操作〉(operatio libera)の可能性とは、求められる全ての変更を実行する可能性を示すのではなく、自然法則を考慮し、自然の活動の拡張になりうるような改変の活動において決して限界に直面しない可能性を示しているのである。 [7]

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[1] P. ロッシ/伊藤和行訳『哲学者と機械:初期近代における科学・技術・哲学』学術書房, 1989, p. 183.

[2] 同書, p. 189.

[3] ベーコン/桂寿一訳『ノヴム・オルガヌム』§ 19, 岩波文庫, 1978, p. 75. (一部変更)

[4] P. ロッシ (1989), p. 190. F, Bacon, “Promtheus, sive status hominis”, De sapientia veterum, in Works, XIX, pp. 675–676.

[5] ベーコン『ノヴム・オルガヌム』§ 1, p. 69.

[6] P. ロッシ (1989), p. 191.

[7] 同書, p. 191.