わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

確信の背後で虚焦点となりゆくものへ

大半の人は興味がないであろう、私の個人的な悩みの話である。

ある物事を意味づけることについて、以下の文章を引用するところからはじめよう。

秘所は人間が自然を意味づけし、自然を思想化して、はじめて成立する。だから宗教的に意味づけのない自然は、いくら美しく神々しく見えても、それは一枚の絵葉書のような単なる自然の風景でしかない。修験道では、 “ 自然としての風景 ” と “ 観念としての風景 ” 、いいかえれば、“ 視える世界 ” と “ 視えない世界 ” を二重合わせにして視なければならないのだ。(内藤正敏修験道の精神宇宙 出羽三山のマンダラ思想』青弓社, 1991, p. 115. )

ある出来事はコンテクストの中に位置づけられて初めて意味を持つ。だから、自分の行為を「すべきこと」であったり、「必然的なこと」として捉え返すためには何らかの物語に位置付けてあげなければならない。というのも、そういった規範や必然性は意味の一種だからである。

ここでいうような必然性は単に因果の必然的な関係や、数学の必然的な帰結のようなものではない。厳密には必然的ではないような必然性がある。つまり、他でもありえたのにもかかわらずこうなったのだが、こうなるべくしてこうなった、という必然性の話である。それは、「可能性」の選択の話ではなく、可能性の「選択」の話である。

必然性はコンテクストとの結び付きによって初めて可能となる。もちろん物語に結びつけることがそのまま必然的なものとなるわけではない。ここでいうような、厳密でないような必然性は、変な言葉ではあるが、程度的な必然性である。確からしさや蓋然性といったものに近い必然性である。コンテクストに結びつけることは、そういった意味での程度的な必然化を引き起こす。

 

ある出来事が必然的であったり、するべきであったりすることは悪いことではない。そして、コンテクストに結びつける方法は無数に存在する。網の目状に関係付けることも可能だし、一つの出来事に重心を置くようなコンテクスト化もまた可能であろう。そのような関係づけの形式のありうる選択肢のなかで何を選ぶかということ自体、意味づいた出来事の様相に大きく影響を与える。そして、とりわけ自身の歴史性の一点に重心をおくようなコンテクストを作り上げる形式には危険性がある(しかし、私はこの立場にあるということが悩みを引き起こすのである)。どういうことか。

初恋というものがある。それをどう捉えるかは様々な人が様々なことを考えているとは思うが、とりあえず私は何度も振り返られる恋を初恋と呼ぶことにしている。最初の恋ではない。最初の恋が何度も振り返られるならばそれは初恋だが、忘れ去られてしまった恋はもう初恋ではないのである。何度も振り返るというのは、何度も参照を繰り返し、その度に現在に結び付ける作業である。そして、あらゆる物事へと結び付けていくとするならばそれは結局のところ、初恋という自身の歴史性の一点に重心をおくようなコンテクストを作り上げることなのである。

物語化によって、単に現在の出来事を意味づけているつもりである。しかし、それは現在の意味を重心へと再び結び付け返す作業と表裏である。個々の現在を意味づけるうちに、たった一つの歴史的重心は非常な重荷を背負っていくことになるのだ。同時に、歴史性が本質的に過去に関わるものであることは、忘却を含意する。夢は忘却を本質とする最たるものであるが、過去もやはりそうであろう。消え去り行く重心、それは確かにあったはずのものなのだが、やがて虚焦点となりゆくものなのである。

そのような虚焦点へと向かう一点を、それでもなお、あらゆるものの中心にすえて意味づけようとすることが(少なくとも私にとっては)問題なのである。意味づければ意味づけるほどに重みをます重心が徐々に消え去ってしまうことは、避けようのないことなのか。忘れ去られて虚焦点となることは、しかし、本当に「虚」となることなのか。全てを支える重心それ自体は、何によって支えられるべきなのか。

意味づけることは簡単だ。やるべきこともわかる。そして、こうなるべくしてこうなったという確信もある。しかし、問題は、この確信の基礎が消えゆくものであるということである。山は山としてもちろんそこにある。しかし問題は、私の歴史性との結びつきの中で捉えられた山である。記憶の中の山である。夢の中の山である。消えゆく山なのだ。この消えゆく山の問題を放置すれば、いつか全ての意味は瓦解してしまうのではないか。

これが、私の個人的な悩みである。